第二章 赤羽の狂騒、救急の灯
赤羽駅の改札口は、混沌の渦中にあった。
異臭に顔をしかめ鼻を押さえる者、混乱しながら逃げ場を探す者、倒れた人を支え助けを呼ぶ者。
精神の均衡を失い叫び続ける者もいれば、四肢をだらりと伸ばし意識を失ったまま横たわる者も少なくなかった。
改札出口を中心に、十人に一人ほどの割合で倒れ込む被害者たち。
駆けつけた救急隊によって、次々と担架に乗せられ、救急車へと運び込まれていく。
ただ、不幸中の幸いか、大多数の人々は座り込んでいるものの、症状は軽度か、あるいは無害のようだった。
駐屯所から駆けつけた警察官による避難誘導はすでに始まっていたが、応援に駆けつけたパトカーとサイレンを鳴らす救急車が、駅前の狭いスペースに所狭しと並び、喧騒はさらに拡大していくように見えた。
赤羽の夜は、まるで都市の皮膚が裂け、内側から異常が噴き出しているかのようだった。
担架の数が足りないのか、比較的軽傷と判断された被害者は駅員や警察官に抱えられながら、救急車へと運ばれていった。
悪いタイミングで夜勤前に会社へ向かう途中だった長瀬良治もまた、警察官に肩を支えられ、ふらつく足取りのまま救急車へと乗せられていった。
車内の空気は重く、赤色灯が断続的に内部を照らすたび、長瀬の意識は揺れた。
うっすらと開いた瞼の奥で、車体の振動が身体に伝わる。
隣に座る警察官の姿がぼんやりと見えた。
「……いったい、何が起こってるんですか?」
長瀬は、かすれた声で問いかけた。
まだ意識はぼんやりとしている。
しかし、あの異臭、そして赤羽の騒然とした状況……ただのガス漏れとは思えなかった。
何かが、根本的に異常だと感じていた。
警察官は短く息をつき、長瀬の顔を確認すると眉をひそめた。
「話せる状態なのか?」
「ええ……少しは」
赤色灯が車内を断続的に照らす中、警察官は低く言った。
「今のところ、詳しい原因は不明だ。ただ、異臭を吸った者の一部に意識障害や幻覚症状が出ているという報告がある」
「幻覚……?」
その言葉に、長瀬は引っかかった。
あの一瞬の眩暈、歪んだ視界――それが単なる体調不良ではなかったのだとしたら?
あの感覚は、現実のものだったのか。
「異臭の発生源は?」
「それが分かっていれば、こんなに混乱しない!」
警察官は苛立たしく言い放った。
だがすぐに表情を引き締め、真面目な顔で長瀬に向き直る。
感情的になったことを詫びるように、軽く頭を下げてから言葉を続けた。
「異臭騒ぎは、赤羽駅前を中心にして急激に広がったらしい。それが自然発生なのか、誰かの意図的なものなのかは……おそらく今も調査中だ」
赤羽の夜に広がった謎の異臭。
脈打つように歪む影、そしてマーブル模様のように揺らぎ続ける世界の違和感。
それによって倒れた人々、救急車の列、そして幻覚症状――。
「お前も幻覚は見たか?」
警察官が長瀬にゆっくりとした口調で問いかけた。
その問いに、長瀬はすぐに返答できなかった。
意識が薄れる中で感じた、あの奇妙な歪み。
果たして、それは単なる気のせいだったのだろうか……?
車内のサイレンが遠くに響き、赤い光が長瀬の瞳にちらついた。
その奥で、何かが目覚めようとしているような感覚があった。
救急車の揺れの中、警察官は長瀬の様子をじっと観察していた。
わずかな手がかりも見逃さぬよう、目を細めて。
しばしの沈黙の後、長瀬はゆっくりと言葉を吐き出す。
「私は……確かに…何かを見た……いや、見た気がする」
その言葉を聞いた瞬間、警察官の目がわずかに鋭くなった。
「何を見た?」
腕を組み、慎重な口調で問いかける。
長瀬は一瞬、言葉を飲み込んだ。
あれはただの眩暈だったのか、それとも本当に幻覚だったのか……。
だが、あの歪んだ視界と異様な光景は、体調不良だけでは説明がつかない。
「周囲が歪んだような感じがして……」
言葉を選びながら話すと、警察官は眉をひそめた。
「それは異臭による影響かもしれない。だが、他にも幻覚を見たと報告している者が何人かいる」
その言葉に、長瀬は少し安心したような表情を見せ、静かに息をついた。
「それに……人の影が、なんだか妙な感じで……不自然だったような気がします」
警察官は沈黙した。
まるで何かを思い出すように、目を細めて考え込む。
救急車のサイレンが夜の街を切り裂く中、長瀬の脳裏には、あの違和感がこびりついていた。
あれは本当に幻覚だったのか。
それとも、もっと恐ろしい現実が、あの街には潜んでいたのか……。
「私は…何かを見た…気がします」
救急車の揺れの中、長瀬良治が静かに発したその言葉は、頼りないながらも真剣な響きを持っていた。
警察官は長瀬の目をじっと見つめ、しばらく沈黙した後、低い声で問いかけた。
「詳しく聞かせてくれないか?」
長瀬はわずかに息を整え、断片的な記憶をたぐり寄せながら話し始めた。
「あの異臭が広がったとき、視界が歪んで…世界が揺れたような感覚になりました。その後、駅前の人影が…なんというか、不自然にぼやけていた気がするんです」
警察官の表情が険しくなる。
「人影がぼやけていた?」
「ええ。ただの眩暈のせいかもしれません。でも、どこか違和感があって…まるで、その影の形が……人間とは少し違うような…」
その瞬間、救急車の車内に緊張が走った。
警察官は腕を組み、しばらく考え込むと、ポケットからメモ帳を取り出し、素早く何かを書き留める。
耳に装着したイヤホンを軽く叩き、人差し指を鼻先に立てて“静かに”と合図しながら、低く語り始めた。
「……本来はあまり詳しく話していいことではないんだが……実はな、異臭騒ぎに巻き込まれた人の中には、似たような証言をしている者がいるらしい。人の影が歪んでいた、形がおかしかった、と」
長瀬の心臓が跳ねた。
「それは……何か関係が?」
「まだ分からないが、偶然とは言い難いな」
警察官は苦々しげに言った。
「今、いくつかの専門機関が異臭の原因を調べ始めている。だが、幻覚の症状がここまで共通しているとなると、ただのガス漏れや化学物質の流出では説明がつかない可能性もあるそうだ」
長瀬はごくりと喉を鳴らした。
胸の奥に、言いようのない不安が広がっていく。
と、その時――キュキュッと救急車がブレーキをかけて止まった。
その衝撃に車内の乗員はわずかに揺れる。
どうやら、病院に到着したようだった。
だが、長瀬の中では、まだ“何か”が始まったばかりだった。
「話してくれて助かった、長瀬」
警察官・杉本はメモ帳を閉じ、厳しい表情で言った。
「君の証言、今後の調査の参考にさせてもらう」
救急車の扉が開いた瞬間、夜の冷たい空気が車内に流れ込んできた。
その一瞬の冷気に、長瀬は身震いする。
この事件は、想像以上に大きなものかもしれない――そう感じながら、担架に乗せられ、病院の建物へと運ばれていくのだった。
廊下を移動する長瀬の視界には、同じく搬送された人々の姿が映る。
誰もが異臭騒ぎに巻き込まれた被害者なのだろう。
その中には、激しくうわ言をつぶやく者、怯えた表情で周囲を見回す者もいた。
病院の白い壁が、どこか無機質で冷たく感じられる。
まるで、現実の境界線がここで薄れていくような錯覚すら覚えた。
「長瀬、意識はしっかりしているか?」
杉本が病院スタッフに話しかけながら、長瀬の傍を離れず付き添っていた。
どうやら彼は、この事件の捜査に深く関わるつもりらしい。
「長瀬、すまんな。もう少し検査の協力をお願いしたい」
そう言いながら、杉本は手元のメモ帳を開いた。
「さっきの話、気になる点が多くてな。意識がはっきりしている被験者は貴重な情報になるんだ。異臭だけじゃなく、人影の異常、視界の歪み、幻覚症状……これらが関連している可能性が高い以上、ただの化学汚染とは考えづらいと上層部が見ているらしい」
長瀬は黙って聞いていた。
言葉の一つひとつが、現実の不穏さを裏付けていくようだった。
その時――
「やめろ!触るな!」
病室の奥から、突然男の叫び声が響いた。
周囲が一斉に騒然となる。
病院スタッフが慌ただしく動き、杉本が顔をしかめながら声の方へと目を向けた。
「……またか」
「また?」
杉本の呟きに、長瀬が聞き返す。
「異臭騒ぎの被害者の中に、突然暴れ出す者が出ている。幻覚の影響か、異常な興奮状態なのかは分からないが……普通の状態じゃない」
その言葉が終わらぬうちに、叫び声はさらに激しくなる。
「いやだ……やめろ……う、うわぁぁぁぁぁぁぁ……!」
何かを見ているのか。
男の視線は壁の一点を凝視している。
足元の何かを払いのけるように手を振り、ぶんっと虚空に拳を突き出す。
その姿は、まるで見えない“何か”と戦っているようだった。
病院の空気が、目に見えない異質なものに満たされているような錯覚。
しゃがみ込んだ男は後ずさり、やがて頭を抱え、震えながら縮こまった。
杉本はすぐに動き出した。
「長瀬、お前はここで検査を受けろ。俺は状況を見てくる」
そう言うと、騒ぎの方へと向かっていった。
長瀬は、ただ静かに目を閉じる。
果たして、自分が見た違和感は、ただの幻覚だったのか。
それとも、もっと恐ろしいものが――この病院の奥深くに、潜んでいるのか……?




