第一章 赤羽の夜、歪む境界
赤羽駅前は、夜の帳が下りてもなお喧騒に包まれていた。
街灯の光が濡れた路面に反射し、ぼんやりとした輝きを放っている。
居酒屋の看板がまばゆく光り、酔客の笑い声が風に乗って漂ってくる。
その喧騒の中に、長瀬良治の姿があった。
32歳、独身。フリーランスの製造業派遣社員。
日々の仕事に追われながらも、どこか空虚な生活を送っていた。
この街の夜の空気には、いつも微かな違和感を覚えていた。
それは、言葉にできない不穏さ――まるで、何かが潜んでいるような。
だが、それも単なる気のせいだと思っていた。
あの瞬間までは。
ふと、頭がぐらりと揺れた。
視界が歪み、建物の影が膨らんだり縮んだりと形を変える。
まるで生き物が跳ねているかのように、街が脈打っていた。
耳鳴りがした。
遠くで誰かが叫んでいるような声が、波のように押し寄せてくる。
意識が遠のいていく。
踏みとどまろうとするも膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
鼻を突く異臭。
酸とも腐臭とも言えぬ不快な匂いが、街の空気を重くよどませる。
吐き気を催すほどのその匂いは、現実の感覚をじわじわと侵食していく。
周囲では怒号が飛び交っていた。
風俗店のキャッチと思われるチャラついた男と警察官が激しく言い争っている。
赤羽駅前の警察駐屯所には、次々と救急車が到着していた。
何かが起きている。
それは、ただの騒ぎではない。
街全体が、何か異質なものに侵されている。
異臭、怒号、倒れていく人々。
担架に乗せられ、救急車に運び込まれる姿が次々と目に入る。
誰もが混乱し、恐怖に顔を歪めていた。
長瀬良治もまた、朦朧とした意識の中で担架に乗せられ、警察官に付き添われながら救急車へと運ばれていった。
その瞬間、彼の耳に微かな囁きが届いた。
それは誰の声でもなく、頭の奥底で響くような、意味不明な言葉の断片だった。
サイレンが響く。
赤く点滅する光の中で、長瀬の意識は徐々に遠ざかっていく――。




