第9話 友人の死
病院の暗い待合室で、やみこはうつむいていた。
黒く長い髪を流すように下へ垂らし、ひとことも発しないまま、薄汚れたクリーム色の床を魂が抜けたように見つめる。
やみこは、わざと自分の心をからっぽにしていた。
いま感情を元に戻したら、きっと泣いてしまうと思ったから。
中学で唯一の友人が、目の前で車にはねられた。
やってきた救急車で友人は搬送され、近くの病院で緊急手術がおこなわれた。
人をはねてしまい、狼狽していた若いトラックの運転手に代わり、すぐに救急車を呼んだのは、やみこだった。
頭から血を流して横たわる友人を前に、やみこはいままで出したことのないくらい大きな声で、119番をかけていた。
早く――
早く、きて。友だちが――
私の友だちが、死んじゃう――。
彼女の前には、同じように沈んだ顔を床へ向けながら肩をふるわせる、友人の父親と母親がいた。
いずれも不安でいたたまれない様子で、待合室の長イスに座っている。
両親の心情は察するにあまりある。生死の淵をさまよっているはずの娘。混乱と絶望の中、平静を保つことすら難しいはずだった。
だが、やみこも――
さっきまで普通に話していた友人が、その直後に大きな車にはじき飛ばされた、その光景が思い出されるたび、無残な記憶の映像をかき消すのに精いっぱいだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
日はすっかり沈み、あたりが暗くなってから、ずいぶんと時間が経った気がする。
いや、本当はほとんど時間が経過していないのかもしれない。時計を見ればすぐに分かることだったが、いまのやみこにとってはどうでもいいことだった。
ただ、友人が助かってほしい。それだけを願って。
だが――
救急治療室のドアが開き、中から現れた執刀医の表情をやみこがみつけたとたん、嫌な予感が胸をかけめぐった。
友人の両親が医者のもとへかけよる。不安の色が濃い二人の顔つきに、医者はそっとまぶたを伏せた。
「――残念ながら」
死の宣告となるその言葉を聞いた瞬間、父親は立ち尽くし、母親は泣き崩れた。
一人娘が――
まだ中学生の娘が、交通事故で――。
そんな光景を、やみこは少し後ろからながめていた。
ながめながら、やみこの心はなぜか渇いていた。
それは、いままで心をからっぽにしていたから、急には元に戻せなかったの。
ちがう。
友人の両親が目の前で悲しんでいるのに、私にはそれ以上悲しむ資格がないと感じたの。
ちがう。
私は――
悲しさを受け入れる感情が、麻痺してしまっていた。
どうしていいのか分からない。
こんな状況に対して、私は自分の受けた悲しみをどう表現していいのか、分からない。
涙を流せばいいの。嗚咽すればいいの。恨み節をつのればいいの。
やみこは胸にわだかまる、痛みをともなう重くつらい嘆きを、もてあましていた。
両手で抱えきれない悲嘆。
友人を――ただ一人の友人を失ったことへの悲しみを前に、やみこは何もできないでいた。
咲。
友人の名前をつぶやいてみる。そこから湧きあがるのは、もはやこの世にはいない者の名を呼んだ虚しさだけ。
やみこは涙も出ないまま、ただぼう然とするしかなかった。
一人の人間の命が、あまりにあっさり失われたことに。
ただひとりの友人の命が、消えてしまったことに。
「――っていうことになるかもしれないからダメ」
帰ろうとしていた友人に、やみこはうつむいていた顔をようやく上げて言った。
長々と自分が交通事故で死亡してしまう話を聞かされ、なかばうんざり顔な友人。
「やみこ。そういうの、想像力の無駄づかいっていうんだよ……」