その境界を越えていく
数日ぶりに触れた外気には、もう冬の匂いが薄れていた。
石畳の隙間から伸びた草が風に揺れ、頬を撫でる空気も冷たさの奥に温かみを含んでいる。
春は、もう始まっている。
空を横切る鳥の影を見上げながら、エレオノールはそう思った。
だが、季節の移ろいとは裏腹に、王城の裏門は不自然なほど静まり返っている。
見送りの列も、別れを惜しむ声もない。
最低限の兵士だけが配置され、互いに目も合わせずに淡々と準備を進めている。
ヴァレルは兵士に一言だけ告げて、この場を去っていった。
まるで、ここから一人の人間が消えることを、誰の記憶にも残したくないかのようだ。
エレオノールは足を止め、用意された馬車を見上げる。
小型の馬車は、艶を押さえた濃灰色で塗られ、王家の紋章はどこにもない。装飾らしい装飾もなく、窓へはめ込まれた細い格子だけが、はっきりと存在を主張していた。
王女を運ぶにはあまりにも簡素で、罪人を護送するには丁寧で、その中途半端さが、かえって今の自分をよく表している気がした。
「こちらへ」
兵士に促され、エレオノールは踏み台へ足をかける。
彼らの装いも、見慣れたレガリア王宮兵の制服ではない。
色味も模様もばらばらで、武装もわざと統一感を崩している。一見すれば、地方で雇われた傭兵の寄せ集めにしか見えない。
おそらく、それが狙いなのだろう。
誰を、どこへ運んだのか。その痕跡を曖昧にするための偽装。
陽光を受け、右手首の銀がきらりと光った。
飾り気のない細身の腕輪は、一見すれば装身具にも見えたが、中身はまるで可愛げがない。
逃走、攻撃、一定以上の魔力行使――そうした行動を感知すると、内蔵された術式が発動し、雷撃に似た衝撃を流し込む仕組みだという。
説明した兵士は終始無表情だった。
「試さぬことです」
――ご親切にどうも。試すわけがない。
扉が閉ざされると、ほどなくして車輪が軋み、馬車はゆっくりと動き出した。
狭い車内には、革具の擦れる音と馬の蹄の音がかすかに響いた。
小窓の格子越しに、城壁が少しずつ遠ざかっていく。
通常、アンフェルス国へ向かうなら、フォルタ王国を経由する河川航路が使われる。
流れは安定し、山を越えるより安全で、監視の目も行き届いているからだ。
だが、今回の経路は違った。
フォルタには入らない。
レガリア北部方面に位置するバイス公国を抜け、山脈地帯へ続く旧道を進む。その先に残された古い隧道を越え、アンフェルス側へ抜ける。
出発前に知らされたのは、それだけだった。
外交上の配慮か、奪還を恐れてのことか。
故郷へ帰る道だけは、最後まで閉ざされたままだった。
馬車は王都を抜け、整備された石畳を離れていく。
規則正しかった振動が乱れ、やがて車輪はむき出しの土を踏みしめた。
格子の隙間から見える景色も変わっていく。
手入れの行き届いた街並みは消え、低い石垣に囲まれた畑地が広がった。
芽吹き始めた麦、まだ裸に近い果樹、煙を上げる農家の屋根。
洗濯物が風に揺れる穏やかな景色を横目に、馬車だけが急き立てられるように走り抜けていく。
昼を過ぎる頃には、道はいっそう荒れた。
舗装は完全に途切れ、車輪が地面のくぼみを拾うたび、車体が大きく跳ねる。
肩が壁へ叩きつけられ、次の瞬間、とっさに頭を庇った手ごと天井へぶつかった。眼鏡がずれ、鈍い痛みにうめき声が漏れる。息を整える間もなく、次の揺れがやってくる。
――随分と急ぐのね。
馬を替える時ですら、兵士たちは必要最低限の言葉しか交わさない。
自分を一刻も早く国外へ追い出したいのか。
それとも誰かに動かれる前に、この件を終わらせたいのか。
日暮れ近くになって、ようやく馬車の速度が落ちた。
窓から外を覗くと、小さな宿場町が見えた。
煤けた木看板に、荷車の轍で泥濘んだ通り。
石積みの共同厩舎には、旅商人のものらしい馬が何頭も繋がれている。
街道沿いの宿からは、酒と焼いた肉の匂いが漂ってきた。
賑わいというほどではないが、人が生きている音がそこにはあった。
王女として生きていた頃なら、まず足を踏み入れることもなかった場所だろう。
もっとも、今のエレオノールには、その宿へ入る自由すらない。
馬車の扉が半分だけ開かれた。
「食事です」
差し出された木椀から湯気が立っている。スープを口へ運ぶと、温かくはあったが、何度か温め直された匂いがした。
黒パンも固いけれど、食べられないほどではない。
粗末というほどではないが、歓迎される客に出されるものでもなかった。
「外へ出ることは?」
「申し訳ありませんが控えてください」
丁寧な口調だが、拒絶に迷いはない。
用を足す時ですら兵士が付く。
「この拘束具があるなら、逃げる心配なんていらないでしょうに」
銀の腕輪を軽く持ち上げてみせても、返答はなかった。
無視というより、最初から会話の対象に含まれていないような沈黙。
エレオノールは肩を落とし、背中を座席へ預けた。
外から見られないように、荷物の中から日記帳を取り出し、頁を開く。
――着いたら、絶対に連絡してね。
ハルカの声が蘇る。
まだ、着いてはいない。
白紙の頁をしばらく眺めたあと、エレオノールは表紙をひと撫でして閉じた。
渡された毛布はごわついていて、牢の中を思い出させたが、かすかに残る香草の匂いが冷えた空気をやわらげてくれる。
目を閉じたけれど、眠れた気はまったくしなかった。
そんな日が、その後も二日続いた。
浅い眠りの中、外で人の動く気配に意識が浮上する。
馬具の金属音。低い合図。
まだ夜の色が濃く残る時間帯に、馬車が再び動き出す。
どれほど進んだ頃だろう。馬車が一度、大きく速度を落とした。
外を窺うと、高い柵と見張り台が見えた。
厚手の外套を羽織った役人たちが、眠たげな顔で書類をめくり、旅人の荷を改めている。
レガリアとバイス公国を隔てる国境検問所だ。
隊長格が封蝋付きの書類を見せただけで、あっさりと馬車が通される。
いつの間にか景色も変わっていた。
なだらかな丘に広がっていた広葉樹林は姿を消し、代わりに背の高い針葉樹が斜面を埋めている。
さらに数時間後。
馬車が止まり、扉が開いた。
「降りてください」
外へ出ると、鼻の奥に入り込む冷気が鋭くなった。
長時間揺られ続けたせいで、足裏の感覚が鈍い。
軽く肩を回すと、固まっていた筋肉が軋んだ。
顔を上げると、目の前に広がっていたのは、深い峡谷だった。
エレオノールは思わず息をのんだ。
切り立つ岩壁が左右から迫り、谷底では雪解け水の激流が白い飛沫を散らしている。
道幅は狭く、馬車が通れるような余裕はない。
兵士たちに囲まれたまま、山道を進む。
――この山の向こうが、アンフェルス。
見慣れぬ植物が岩肌へへばりついている。銀色の葉、濃紫の花、低木に実る黒い果実。
いずれも高山帯にしか育たぬ植物なのだろう。
足場は悪い。それでも兵士たちは、誰一人として歩調を落とさなかった。
エレオノールは息を切らしながら、その背中についていく。足首にかかる小石が崩れ、何度も体が傾く。そのたびに、誰かの視線だけがこちらを向いたが、手が差し出されることはなかった。
雲越しの明るさが頭上へ差しかかる頃、ようやく目的地が見えた。
山肌を縦に長く裂く亀裂。
人が二人並んで通れるかどうかというほどの入口は、不自然なほど歪んでいた。
人の手で掘られたというより、岩山そのものが口を開けているようにも見える。
その脇に、古びた石碑が立っていた。
風雨に削れた文字を、エレオノールは目で追う。
――カント隧道。
この先が、アンフェルス国。
兵士の一人が前へ出た。
右手首へはめられていた銀輪が外される。
拘束が消えた右手首だけが、不自然なほど軽い。
「隧道を抜けた先に、アンフェルス側の迎えが待っています。我々が同行できるのはここまでです」
そう言ってランタンと、水筒を差し出した。
「ここから先は、お一人でお進みください」
つい笑いそうになった。
「最後まで親切ね」
返事はない。
風が峡谷を吹き抜け、低く唸った。
エレオノールは水筒を布袋にしまい、ランタンを受け取る。
隧道の奥へ目を向けると、そこには光を飲み込むような闇があった。
奥から吹きつける風は、冷気というより刃物に近い。頬を撫でるたび、皮膚の感覚が削がれていく。指先まで痺れるような寒さに、エレオノールは手袋を引き上げ、外套の留め具をきつく締め直した。
張り詰めていた呼吸が、少しだけ落ち着く。
エレオノールはランタンを握り直すと、揺れる灯りを連れ、そのまま闇の中へ踏み込んだ。




