八章六節 - 嵐雨と水龍の領域
その直前、何とも言えない嫌な予感を感じて大斗は川底の石を強く蹴った。行く手を阻む華金兵を一閃で退け、数歩で雷乱と相手の間に下りたつ。
急に現れた大斗と彼の着地で跳ね上がった水に、相手は左手に持っていたものを放つ瞬間を逃した。その手にあったのは小さな刃。棒手裏剣だ。
「暗殺者きどり、かい?」
その剣の使い方も、手裏剣などという暗器にも似た武器を持っていることも。
「どうでしょうね」
相手が薄笑いを浮かべる。
正面から見ると彼は予想よりさらに若かった。
大斗と同じくらい。せいぜい二十歳すぎだろう。
彼が再び放とうとした棒手裏剣を、大斗は鋭く跳ね上げた。キンと鋭い音がして、棒手裏剣が宙を舞う。
にもかかわらず、彼は笑っていた。
大斗自身も強い相手と手合せしているときに自然と笑みが浮かぶことはある。
しかし、それはあくまで稽古時だけだ。こんな血のにおいと剣戟、悲鳴の響く中で笑みを浮かべられる余裕はない。
強い相手と戦うのは楽しいが、幾人も人を斬る状態を楽しめるわけがない。
しかし、彼はこの血にまみれた異常な状況を楽しんでいた。心から。
大斗の背を冷たい汗が伝う。
「邪魔だ」
その瞬間、雷乱が大斗の襟首をつかみ、味方にするとは思えない乱暴さで後ろへと放り出した。
危うく流れに足を取られそうになった大斗を背後から支えてくれたのはおよそこんな戦場に似つかわしくない白く細い腕だ。しかしよく見ると、その腕にはしなやかな筋肉がついており、稽古中につけたらしきあざが見えた。手に握られているのは良く使いこまれた長刀だ。
「華奈」
大斗は自分を支える腕の持ち主の名を呼んだ。顔を見なくても、腕と武器でわかる。
「戻りましょう、九鬼大斗」
華奈が言う。しかし、大斗はそれに応えなかった。
「戻ろう、雷乱」
代わりに雷乱にそう呼びかけた。
「お前だけもどりゃあいいだろ」
雷乱は大斗の方を見ずに言う。
そこで気づいた。雷乱は戻らないのではなく戻れないのだ。
相手が巧妙に攻撃を仕掛けてくるために、逃げ出すことができず、相手が強いために倒すこともできない。大斗を押しのけたのは、大斗を逃がそうとしたからなのだろう。
自分が加勢すれば倒せるだろうか。
そう思い大斗は一歩踏み出そうとしたが、華奈に引き留められた。
「華奈」
いらだち交じりに言っても、華奈の手は緩まない。
力づくで振り払えないことはないが、振り切り方を間違えれば大斗ほど身長も体重も筋力もない華奈が、この急流に流されてしまいかねない。
すでに水は大斗の腰のあたりまで増えていた。
気づけば、彼らの周りにいる兵も少ない。中州兵はほとんどすべてが避難を終え、華金兵も逃げはじめている。




