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関東騒乱(後北條五代記・中巻)  作者: 田口逍遙軒
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河越夜戦(六)

 武蔵国府より行軍する中、まだ日も高く春の日差しが心地よい頃。

 馬の背に揺られて眠気が出始めた時に、思いがけない朗報が氏康の耳に届いた。

「武州岩付の太田全鑑殿(資顕又は資時とも)から、主家上杉朝定を離れて北條家に内通するとの確約、受けてまいりました」

 岩付に差し向けていた調者の一人が氏康の行軍に追いついてきたのである。

 これは各地にばら撒いた調略の一つが実った瞬間でもあった。

「でかした。これで河越、寺尾の両城を東の後背から突かれる心配も無うなったわ」

「ただ、残念な事が」

「どうした?」

「全鑑殿の御舎弟資正殿の説得には失敗し申した」

 この太田全鑑と資正兄弟は元々の仲も良くなかったようで、兄全鑑が岩付太田家を家督してからはその城を出ていた。そして舅である難波田善銀を頼り、主人朝定が籠る善銀の持ち城となっていた武蔵松山城に間借りをしているような状態だった。

 また今回の河越城攻めにも主朝定に付いて参戦していたのだが、先ごろ氏康からの内通の誘いが兄全鑑に届いたところで河越の陣から岩付の城まで呼び出されていたようだ。

「そうか、兄弟で割れたか」

「元々御兄弟のお仲が宜しくなかったこともあってか全鑑殿が我ら北條方に付くと明言されると血相を変えて立ち上がられ、我が主は上杉朝定公只お一人と声高に叫ばれて岩付の城から出て行かれました」

「忠義の者故苦しゅうはない。そのような者が居ても良いものぞ」

 岩付城主である全鑑の舎弟、資正がどちらに転んでも現状では影響がないと踏んだ氏康の顔には陰りは無かった。

 そして武蔵国府より凡そ五里。

 河越近くの赤間川(現新河岸川)の寺尾の城に接近する頃は既に日も落ち、辺りは暗くなっていた。

 夜陰にまぎれ寺尾城下まで進み、寺尾城に籠る諏訪右馬亮と大道寺盛昌、笠原信為を糾合すると、そこで一度軍を留めた。

「元忠、康英、綱景、直勝、綱高、盛昌、信為を呼べ」

 伝令を其々の部隊を率いている七人に使わせるとまもなく、全員が馬を走らせて近い遠いの別はあるものの、ばらばらと集まりだした。

 本陣にいる氏康の前には盾を使った簡易な台が設えられており、氏康を含めた八人分の床几も用意されているのだが、直近に布陣する公方・上杉方に悟られないよう陣幕は張らず、また篝火も松明も使わなかったので微妙に暗い。

 今宵は月も雲に隠れて朧にしか出ていないため、不意に黒雲に月を隠されると手探りで床几を探す程に辺り一面暗闇に塗りこめられてしまう夜だ。

 天文十五年四月二十日のこの日、武蔵野には風雲急を告げる宵雲が流れていた。

「皆、集まったようじゃな」

 氏康が集まった七人を見渡した。

 前立ても美しく飾った兜を背中に跳ね上げた具足姿の大将七人が、眼前の氏康に一度首を垂れてから床几に腰かけた。

「今宵の朧月夜、公方達はこの月を見ながら未だに酒を喰らっておるのでござろうか」

 真っ先に声をあげたのは多目元忠だった。生真面目な性格なのか、敵を目の前にして酒盛り等をして遊興に耽る公方達を快く思っていないのだ。

「酒宴などで油断する公方勢、有難いものではござらんか。自らの陣の目の前一里も無い目と鼻の先にいる我らに気付く様子もござらぬ」

 場を和ませようとしているのか、笑いながら遠山綱景が続けた。

 ここは最前線である。合戦に及ぶ事十数度と言われる武者でもやはり初めは緊張を覚えるものだ。部下を持つものなら尚更である。ましてや相手は自らの軍勢の十倍、普通に考えれば勝ち目は全くないのだ。その中でのこの綱景の笑いは皆の緊張を解くように一様に響いた。

「皆」

 氏康が七人の将を見回した。

「今宵これより砂久保に討ち入る」

 愈々河越城を囲む八万六千の軍勢を僅か八千の軍勢で攻める決断が下された。

「皆々に申し置く。此度のこの戦で上杉憲政、朝定の首を上げよ。公方を討ち取る覚悟でこの戦に臨むのだ」

「それは言われずとも心得てござる」

 北條綱高がきらりと光る眼で氏康を見る。

「儂も共に戦場を駆けまわる故、近くでその方達の働きを見ておるぞ」

 これには七将全ての顔に戦慄と感動・興奮が入り混じり、言葉を失ったようだ。

 当然この合戦で主人氏康が討たれれば自らの領地や家族全てを失う。また主人の目の前で働きを存分に見せる事が出来、戦に勝利すれば領地や家族を守れ、地位や恩賞が約束される。まさに乾坤一擲の合戦であると氏康に突きつけられたのだ。

 氏康がゆっくりと言葉を続ける。

「我が兵を二千づつ四隊に分ける。その内の一隊の指揮を多目元忠に任せて後詰とし、富永直勝、北條綱高、清水康英を其々の部隊として攻めかからせようと思う。遠山綱景は儂の本隊に組み入れる」

「某は後詰でござるか」

 多目元忠は少々不服気である。後詰にされた事が少々気に入らないようだった。

「左様。戦が終わるまでは決して動いてはならぬ、ゆっくりと見物をしておるが良い。それとな元忠、儂が不用意に深追いをしたと見えたら過たずに貝を吹く役目、申しつけるぞ」

 この北條軍本隊を指図するとも云える役目を申しつけられた元忠、既に不服気な表情は微塵もなくなっていた。

 氏康は江戸城からの本隊に指示を出し終わると、次に寺尾城合流勢の指示を出した。

「諏訪右馬亮と大道寺盛昌、笠原信為の隊は公方勢に切り込め。公方と上杉が退却する素振りをみせたら我が本隊に合流して追撃する部隊となるのじゃ」

「また」と言った氏康には他にも策があるようだ。

「各々の着用しておる甲冑の袖(そで:両肩にある錣状の板)、背中、胴に白い紙を裂いて張りつけ目印とせよ。この白い紙を見たら敵の様に見えてもこれを討つな。また敵の大将以外の首は取るべからず。討ち捨てにせよ」

 一同は氏康の下知に応の返事で答えた。

「今一つ、貝の音を聞き洩らすな。如何様な時でも貝の音を聞いたら首を打ち捨ててでも退け」

 丁度下知が終わろうとしていたとき、小太郎から砂久保の情報がもたらされた。

 少し離れた場所で小太郎が片膝付いて氏康を待っていたようだ。暗がりから声をかけてきた。

「小太郎か、して砂久保の陣はどうなっておる」

「公方様と憲政殿がいがみ合って陣を分けたようにござる」

「なんと申した」

 一瞬ではあったが氏康の脳裏には陣立てを変える事も必要かとの考えが過った。

「我が方への陣立てを憲政殿が公方晴氏様に言上したとき、いざこざがあった様にございます。今は陣を変えたとは申しても同じ砂久保におりまする。また朝定殿は東明寺の陣所に引き上げた様にござる」

 氏康はこの事に胸をなでおろした。特にこちらの陣立てを変える必要もなかったからだ。また晴氏・憲政の諍いで北條方に眼が向いていない事は幸運だった。未だに公方方に悟られていない事の要因の一つであろう。

 この寺尾城、今は埼玉県川越市下新河岸に流れる新河岸川のほとりに、日枝神社として佇んでいる。神社側から川に向かって崖状になっており、そこから清水の湧きでる様はなんとも良い風情がある。

 また寺尾城からほぼ真西に向かい、東武東上線新河岸駅を越え、さらに国道254号線を越えて1.2キロほど行った所に砂久保と云う土地がある。

そこが砂久保の陣だ。公方晴氏と上杉憲政の陣は、今は砂久保稲荷大明神として神社が祭られているのだが、既に当時から築かれていたものが仕寄り場ともいえる陣城だったせいか遺構などは何も残ってはおらず、案内板だけが当時を知らせてくれている。

 これ程に近い距離に、二つの勢力が犇めいていたのだが、油断しきっていた公方・上杉の勢力では北條の接近を知る事が出来なかった。

「わかった。どうやら運は我が方に向いておる様だ。これよりすぐさま備えを済ませて一息に打ち寄せる。皆支度せい」

 暗闇のなかで七将が具足の音も鳴らさぬよう気を使いながら自分の部隊に戻って行った。

 馬の嘶きを押さえるためにばいふくませ、蹄には藁を巻き、槍には鞘を、足軽の持つ打ち刀は敵の目前まで抜き身にさせる事を禁じた。

 寺尾の城を朧月夜に出陣した北條勢、具足に切り紙を張りつけた姿は鎧の代わりに紙でできた肩衣を着ているようだ。

 どこぞの神社に詣でる氏子の列の様にも見えるが、これほど物騒な氏子の集団もあるまい。

 四月二十日の宵闇の中、北條軍八千がひたひたと押し寄せて行った。

砂久保の地に所狭しと並べられた公方勢二万と山内上杉憲政勢三万の軍勢は、至る所に掘立の寝小屋や陣幕が押し並べられている。

 しかし、大人数による油断であろうか、哨戒の人数は全くいない。これほどの油断も古今なかったであろう。これを見た氏康、いざ合戦の機運は満ちたとばかりに伝令を呼んだ。

 三人の伝令が氏康の傍に片膝ついたとき、氏康は続けざまに下知を始めた。

「良いか、これより公方と上杉の陣に夜襲をかける。次の事を先の康英、直勝、綱高に伝えよ」

 氏康は床几に腰をかける事もなく立ったまま下知を続けた。

「先鋒を清水康英とする。康英が半ばまで押し行った頃合いで富永直勝、同じく頃合いを見て綱高じゃ。その後儂も切り掛かる故、敵陣を抜けた隊は引き戻って縦横無尽に切り廻れ。よいか、決して一所で留まるべからず。槍の鞘を捨てよ。抜刀を許す。我が本隊の鬨の声を合図に攻めかかれと伝えるのだ。分かったら松明一本のみ回して知らせよ。行け」

 返事が早いか伝令は颯っと足音も立てずに走り去っていた。

 待つ事暫し。三隊の居る方向から一本、また一本と松明がくるくると廻るのが見えた。

「頃合いも良し。者共、鬨を上げよ!」

 氏康の号令で朧月夜の武蔵野の空に、不意に湧きあがった轟く鬨の声。

 酒に飲まれて寝静まっていた彼方此方の仕寄り場や寝小屋からは何事ぞと置き出してきた足軽が目を擦っている。

 朧月夜の宵闇に目が慣れず、松明を点けない北條勢が黒い塊にしか見えなかったようだ。間近に迫って来る白い肩衣を着けた武者を見てようやく何事かを察知した公方・上杉勢の足軽は悲惨だった。

 具足も付けずに寝ていた為に攻め込まれてから月夜の薄明かりの中で具足を探し、刀を探す程の狼狽ぶりを見せ、味方と得物の取り合いで争う最中に北條勢の餌食となって行った。

 修羅の形相で迫っていた怒涛の黒い集団が抜けて行ったが、ほっとするのもつかの間、第二陣の暗黒の集団が押し寄せてきた。

 小田の陣も梁田の陣も例外なく浮足立ったようで裸で逃げだす者、同志討ちを始める者も現れた。

 また、氏康自身も長刀を振って切り込み、獅子奮迅の働きで十余人をなぎ倒し、清水、小笠原、諏訪、橋本、大藤、荒川、大道寺、石巻、富永、芳賀、内藤と云った幕下の勇士も十字に馳せ、巴に駆けて敵を蹴散らしたと関八州古戦録にもあるように、公方・山内の旗本達も散り散りに討たれ逃げ出し、砂久保から東明寺の扇谷上杉朝定の陣所に助けを請うために雪崩を打って走り出した。

 氏康は一度、多目元忠の所に戻り、寺尾城合流勢と多目の一隊を含めた全軍で東明寺の陣所まで攻めのぼる事を命じると、即座に元忠隊と寺尾城合流勢も氏康に合体して北上を開始する。

 砂久保の陣から北に一里程の東明寺までの道には、北條勢に追われた数万の人数が宵闇の中を走り抜けていた。

 この喧騒が河越城にも届かないはずはない。

「あの騒ぎは何じゃ」

 そう問うた綱成が物見の櫓、追手門間際、東明寺が見える外曲輪南・北側の土塀に人を遣ると、間もなくその答えが返って来た。

「小田原勢が城を囲んでいた公方・両上杉勢を切り立てているようにございまする」

「なんじゃと!?」

 驚きを隠せなかった綱成は自ら櫓台まで走り行き、城下の事の次第を自らの目で確かめた。

 具足も得物も満足に持たない何処かの兵達が後ろを振り返り振り返り、必死になって河越城の追手門の前を北に走り去ってゆく所が朧げながらに見える。するとその後ろから武者声鬨の声も一際大きく馬上の白き肩衣武者、足軽の白肩衣兵が打ち物の穂先を揃えて追いたて切り立て走り抜けた。

「なんじゃこれは?」

 そう呟いた綱成の目に飛び込んだのは、その白肩衣兵の背中に差された北條甍の指物であった。

「こ、これは正しく小田原勢!御屋形様が参られたか」

 この喧騒の中、河越城も一気に湧き立ち篝火も数を増やし真昼の様に煌々と辺りを照らし出した。その明かりに照らされた公方・上杉勢は、後続の小田原勢に次々と討たれてゆく。

 東明寺の朝定も目前にこの騒ぎが起こるまでは惰眠を貪っていたようで、まるで備えをしていなかった。

 東明寺惣門で門が閉まっていた為に中に入れない公方・憲政勢が鮨詰め状態になり、動く事も叶わない。

 この門前での騒ぎでようやく起きた朝定、急ぎ東明寺の門を開き討ち出でようとしたが中に逃げ込む人数に押されて討ちだす事も出来ないうちに大混乱となった。

 混乱に乗じて東明寺に雪崩込む小田原勢。

 最早公方・両上杉勢にまともに戦っている者は少なくなっていた。

 唯一と言って良い働きをしたのは、難波田善銀とその女婿、太田資正であった。資正に至っては攻め寄せる北條勢に二十四度も打ち出し斬り伏せ名を上げたとの記録が残る。

 そしてこの東明寺大混乱の中、資正と離れてしまった資正義父、難波田善銀が境内の木の根元に身を隠していた。

 既に小田原兵と幾度も斬り結んだようで体の至る所から出血し、疲れが余程溜まっているのであろう、肩で息をしていた。しかし、いくら闇夜の中で身を隠しているとはいえ朧な月が出ている。たかが木に寄りかかっているだけの人間を、暗闇に慣れた目で見つけるのは容易い。善銀に気付いた数人の足軽が善銀を遠巻きに寄って来ると、それに気が着いた善銀は歯をぎりぎりと鳴らしていた。

「おのれ氏康め、よくも降伏するなどと謀ったな。こうなれば武士の意地を見せて斬り死にするまで」

 氏康に対する恨みを吐いたのだが、しかしそうおめいた時には数の増えた小田原勢の足軽に囲まれ進退極まっていたようだ。

「これは大将首ではないか?」

「着用している具足も煌びやか。間違いあるまい」

 囲む足軽が善銀を舐めるように品定めしていると、その後ろから馬で乗り付けた者が居た。

 善銀はこれを見て、足軽に首を取られるよりはと思ったか、木から離れて名乗りを上げた。

「儂は武蔵七党の一つ、村山党は金子小太郎の流れ、難波田憲重である。手柄が欲しくば我がしるしを見事取って見よ」

 そう言って槍を隆々と扱いて馬上の武者に構えると、馬上の武者から声が落ちてきた。

「その方が善銀であるか」

 この物言いに何か妙なものを感じた善銀、「如何にも、御手前も名乗られよ」と夜目を利かすために眼を凝らした。

 その馬上の武者は答えることはなかったが、更に後方からやって来た騎馬武者が先の武者に声をかけた。

「御屋形様、御無事でござるか。この東明寺の陣の兵もほぼ逃げ散り後は追討の兵を差し向けるのみになりましてございます」

 この言葉を聞いた善銀は、一瞬頭が真っ白になり、顔面が蒼白になった。

「御手前はまさか、小田原の、氏康殿か」

「その方何奴じゃ」

 後から来た騎馬武者に槍の石突で胸を突かれた善銀、足を縺れさせてふらふらと二、三歩後方に下がると、それを見た足軽が、わっと槍を付けてくる。

 これを間一髪で交して闇夜に駆けだす事ができた。

 それから数町、切れる息に自らを叱咤しつつ走る事ができたが、朧月も雲に溶け初めると辺り一面が漆黒となり足元も不如意となった。走って先に進むのが難しい。

 それでも後方には獲物を求めた足軽の声が聞こえるのだ。走るのも難しいが危急を告げる本能に逆らうことは更に難しい。

(逃げねば)

 体が自然と声とは反対の方向に向いていた。と、漆黒の中を手さぐりで暫し走ったその時、不意に甲冑の重さを感じなくなった。

 足元に大口を開けていた古井戸が闇夜に溶けて消えていたのだ。

「あっ」

 この声を最後に武州難波田の豪族、難波田善銀の魂は浄土の橋を渡って行った。

 同地で倅、隼人正も討ち死にし、難波田氏はこの日を持って没落することになる。

 この難波田善銀が世を去った頃、扇谷上杉家当主、上杉朝定も北條勢に周りを囲まれていた。

 馬上の武者が三騎、朝定を取り囲みくるくると回っている。

「その美しき兜の前立てと色々脅しの鎧を見るに、さぞ名のある武者と見覚える、名を名乗られよ」

 そう北條方の馬上武者が朝定に声をかけると、供の者を失っても自尊心を失わなかった扇谷最後の当主、朝定は気丈にも大将然としてこの無礼な馬上武者を一喝した。

「おのれ下郎共、我を何様と思うてか。馬を下りよ」

「故に何様なりや?」

「我は扇谷上杉家当主、上杉修理大夫朝定なり。下がれ」

 馬上武者三騎は顔を綻ばせた。この日最高の獲物に出会えたからに他ならない。

 関東管領家の分家とはいえ、この河越合戦の首謀者の一人を偶然にも囲んでいたのは天恵だったろう。

「畏くも上杉朝定公にござったか。これは丁度良い手柄首、いざいざ潔く御腹を召しませい。さもなくばこの槍を馳走せねばなりませぬ」

 美々しい兜の下には若い朝定の額に汗が零れ、三騎を見る目が忙しく動いている。

「推参なり下郎!我が目の前より疾く疾く失せよ」

 この朝定の言葉を聞いた囲む三騎から其々に声が降りかかる。

「失せること叶いませぬ」

「潔く御腹を召さぬと仰せなら、僭越ながら我らが槍を馳走致しませねばなりませぬ」

「御覚悟なされませ」

 最早助からぬと思ったか、朝定は太刀を抜き、大音声を発すると三騎の馬上武者の一人に切り掛かって行った。

 上杉朝定、享年二十二歳。若き扇谷上杉当主はこの東明寺の地で討ち死にする。この合戦で扇谷上杉家は命脈を絶たれて滅亡した。

 扇谷上杉家が太田道灌の縄張りをした城、河越城を取り返す事が出来ずに滅亡したのは何か古い縁のような気がしてならない。

 東明寺惣門から総崩れで雪崩込んだ公方勢・山内上杉勢も散り散りとなり、東明寺の陣所の主だった扇谷上杉家も既に滅亡した。

 公方晴氏は呆然自失となりながらも運よく東明寺惣門から河越城追手門、馬出し前に人数を集める事ができ、隙をついて戦場から離脱することを梁田晴助から言上を受けていた。

 晴氏から見た東明寺方面は火の手が上がり阿鼻叫喚の巷が現出したように見え、体が意思とは関係なく大きく震えている。すると再び東明寺の地獄から鬨の声が上がった。

 上杉憲政の供周りが残り少なに討たれながらも、重鎮の本間江州と倉賀野行政が退却戦の殿を受け持ち、松山口に向かって退却を始めたのだ。

 小田原勢は追いすがりながら斬り倒し斬り伏せ、本間江州と倉賀野行政を討ち取った。

 その頃河越城では、黄八幡佐衛門、北條綱成と幻庵宗哲が馬上の人となり追手門を開いていた。

「幻庵様、御屋形様はやはり大したお方ですなぁ」

「正しく。これほど剛毅な合戦をされるお方とは。愉快愉快」

 二人は豪快に笑うと、追手門から手勢三千を引き連れて出陣。

 追手門を開き、馬出し曲輪の南北両方から現れた河越籠城軍は、半年余りの鬱憤を晴らすかのように馬出し曲輪の目の前にいた公方勢に討ちかかって行った。

「者共かかれ!かかれ!!手柄を上げるはこの時ぞ、勝ったぞ勝ったぞ!!」

 黄八幡佐衛門のこの叫びは公方勢に付いていた北関東の諸将に、後年まで余程印象付けたようだ。

 東明寺方面の警戒しかしていなかった公方勢には、城方側面から打ちかかって来た綱成の軍勢に手も足も出ない内にみるみる打ち取られてしまう。

 中軍から南北に分断された公方勢は緒戦から指揮系統を分断されてしまい、打ちかかられた当初から烏合の衆となってしまった。そんな中で「勝ったぞ!勝ったぞ!!」と叫びながら縦横無尽に走り回り槍を捌く綱成に畏怖を覚えるのには難くない。

 梁田、一色、結城、相馬、原、菅谷、二階堂といった北関東の諸将は公方からの下知も聞こえず右往左往するばかりとなったため、其々で勝手に落ちる事としたようだ。自領が危うい今、この河越で倒れる訳にはいかない。槍を交える事もなく我先に逃げはじめ、蜘蛛の子を散らすように霧散していった。

 しかし真っ先に退却したのは公方晴氏の陣だったか。

 その頃になると日も昇り始め、辺りは白々と明け始めている。

 辺りが遠方まで見え始めると、小田原勢は更に松山口から山内上杉勢を追いたて切り立て、落ち武者狩りさながらに深追いを始めた。

 この夜明け前までに北條勢は公方・上杉連合軍の一万六千余人を討ち取ったとされるが、まだ物足りなかったらしい。

 勢いに乗った北條勢は、松山口から退却して行く憲政勢を追いかける。

 ばらばらに逃げ散り数少なになった憲政勢が松山城に籠ろうと遮二無二逃げ走るのだが、休む間を与えず修羅の形相で斬り立て追いたて続ける。

 この東明寺から松山の間は凡そ三里ほど。憲政勢三万が数少なに逃げ散るには丁度好い距離でもあった。

 開戦当初から大石定久は戦線を後方に離れ、藤田康邦も開戦当初から早々と逃げおおせており、また小幡憲重も憲政の側近長野業正との関係を悪化させたように振舞って、自領上野の小幡郷に戻っていた。

 上田朝直や太田資正、長野業正といった数名の側近のみに守られながら這う這うの体で松山城に駆けこんだ憲政、城に入って一息ついた。

 余程喉が渇いていたのだろう、自ら水瓶の所まで歩いて行き荒々しく柄杓を使って喉をならしている。

 それを三、四回ほど繰り返すとようやく人心地がついた様だ。

「なぜじゃ」

 憲政が呼吸も荒く、呻くように叫んでいた。

 主語の無い言葉ではあるが、ここまで共に逃げてきた太田資正にはその言わんとする意味が理解できた。

「この戦、我が方の陣立ては間違いなかったはずにござる、したが此処まで打ちのめされたるは只一つ、我が方が少々油断したことで天が氏康に味方した為でござろう」

 ここまでの負け戦でも資正は憲政に気を使った物言いをした。

 しかし天が味方したなどと云う運の良さのみで十倍の敵に打ち勝つ事などできまい。

「まだそのような事を言われるのか」

 資正の言葉に苦言を呈した長野業正、「天が味方したのではござるまい、いやさ、天も味方はしておるかも知れぬ、しかし」そう続けた。

「この合戦、我らはあまりに氏康を甘く見ていたのではござらぬか」

 一瞬ではあるが苦言と受け取った憲政の表情に険が立った。

「腰抜けの氏康ごとき、甘く見て何が悪いと申すのじゃ」

 この業正の言葉を受け継いで上田朝直が続ける。

「我らが河越の城を囲んだとき、氏康は駿河で今川と武田に攻められておりましたな。しかもそれは我が方と今川・武田との合意で氏康を挟撃したものだったはず」

「それがどうしたと言うのじゃ」

 負け戦で疲れ、気も立っていた所に長口上が始まりそうだったので憲政の表情にはますます深く険が刻まれていった。

「氏康は今川に攻められた河東の地をあっさりと諦め、瞬く間に停戦の合意を得たようにございます。いくら前後で挟み撃ちをされていると申しても、そのように未練もなく領地を手放せる者がおるでしょうか」

 この言葉に業正と資正は聞き入っていた。憲政だけが一人そっぽを向いた形である。

「そして即座に矢止め(停戦)すると、血気に逸って河越の地に攻め寄せるでもなく凡そ半年もの間小田原にて動かずにいたようにござる。これは何か我らに手を打っていた時期ではござるまいか」

 もちろん自らも調略されたとは言わない上田朝直。

「手を打つとは如何様な事か」

 憲政の険が取れてきた。

「まずはあまりに多かった陣中見舞い。如何でござろう、半年に及ぶ籠城戦とはいえ四月に及ぶほど陣中見舞いをする百姓などおりましょうか。己らの食いぶちが無くなり申す」

 憲政は唸った。その陣中見舞いの酒で日夜宴を催していた中心人物の一人だったからでもある。さらにその為に入間川の崖の陣所までも引き払い、酒の地であった要害の悪い砂久保に陣所を移していたのだ。

 これには今隣にいる長野業正に長々と苦言を呈されてはいたのだが、人数の多さに頼った憲政は、業正の苦言も聞き入れる事がなかったからでもあった。

「それと」

 朝直が続けようとすると憲政、まだあるのかと驚きを隠せない。

「今日の日の前に氏康が幾度か砂久保の地に攻め寄せた事を覚えてござろう。その時は我らが向かうとすぐに逃げ失せておりましたが、何故に北條の領地からこの河越の間に有る難波田の城・滝の城・岩付の城をすり抜けて攻めて来れたか」

 血相を変えたのは太田資正だ。自らの兄が岩付の城に籠り、北條方に味方する事を決めた事がこの河越敗戦の始まりだったからである。資正の顔には血の気も無くなっていた。

「砂久保手前までの我が方の城が全て篭絡されていたと見るべきでござろう」

「我が方に解れがあったと言うのか」

 憲政は力が入らなくなったのか、そのまま地べたにべったりと腰をおろしてしまった。

「まだござる。戦の始まる前、参集した諸将大名の自領各所で一斉に敵対勢力が蜂起しております」

「それも氏康の手であると言うのか」

「確かとは言えませぬが、そう見るのに難くありませぬ」

 腰を下ろした憲政を助け起こすように業正が肩を貸し、立ち上がらせた。

「それほどの氏康ならばこの松山城も、何がしかの仕掛けが施されておるやもしれませぬ。一刻も早う憲政の御屋形様には平井の城に落ちてもらう事が肝要であるな」

 業正が朝直を一瞥すると、朝直も目礼で返した。

 そして日も昇りきった辰の刻(八時ごろ)、松山城を北條方が囲んだようだ。

 小田原勢は清水康英・富永直勝・北條綱高の三隊を使い松山城の南の笹曲輪のみを空けて構え、松山城北の追手門前に騎馬武者数人を送りつけた。

城門前までゆっくりと近づいた馬上の北條方の使者、開口一番警告の言葉を投げかけていた。

「城方に申し上げる。今すぐに城門を開き降伏を受け入れれば勝手退散すること苦しからず。しかし、降らねば城を焼き中の者を全て根絶やしに致す!返答はいかに」

 この返事を待つように、北條方の使者は門前で輪乗りを始めた。

 門前が俄かに騒がしくなったことに気付いた朝直、それを見た朝直の直臣が見た事を伝えてきた。

 既に城は三方を囲まれ、退き口は南の笹曲輪からの川沿いの道のみである。

 これは潮時であるな、と朝直。

 この松山城、人数が籠ればかなりの大要害とも云えるのだが、この敗戦で 兵が散り散りになっていたために城に籠る人数も数える程しかいない。

 城を囲まれ打つ手がない事を憲政に報告した。

「御屋形様、既に松山城は小田原の兵に取り囲まれまして御座います、ここは急ぎ本拠平井の城に御退却遊ばされるが宜しかろうと思われまする」

 憲政の顔は血の気も無くなっている。

「朝直の言う通り、此度の戦は氏康の手の上で転がされていたと言う事か」

「無念ながら左様にござる。さぁ氏康は最早待ってはくれますまい。退き口を南に空けてくれた事は氏康のせめてもの情けにござろう」

 太田資正も悔し涙を流していた。

「憲政の御屋形様、ここは生き長らえて後日、この恥辱を晴らして下さりませ」

「さあ、上田殿と共に急ぎ平井の城へ」

 長野業正が松山城南の曲輪、笹曲輪から延びる川道に憲政を追いたてると、くるりと振り返り太田資正を見た。

「資正殿、我らは松山城近くに潜み、北條方が油断した所でもう一働き仕ろうぞ」

 業正のこの一言で資正は涙で濡れていた顔を綻ばせていた。

「おぉ、業正殿、無論じゃ。ここで逃げ出したとあっては末代までの名折れ。共に討ち出でましょうぞ」

「まずは儂の一隊が一の曲輪脇の井戸曲輪から堀切を降り、外曲輪との間の大堀を伝って追手門前の北條勢に一当たりしてから引き上げることに致す故、松山城西方一里程のところに資正殿の兵を伏せておいて下され」

「心得た。一里も走れば森の中。北條勢も思うままに走る事叶うまい、そこで斬り伏せる事に致しましょう」

 武者顔の老人業正、若い資正と共に退却戦の逆包囲とも云える戦いを始めようとしていた。しかし、既にこの業正の心は憲政から離れていた事は当人も気付いていたかどうか。

 追手門前に陣取っていた北條勢、この頃になると氏康の本陣も合流していた。

 馬上の使者が追手門前でくるくると輪乗りをしているのが見えるのだが、城からは一向に返事がない。

 このとき使者が向かってから小半時が過ぎている。

 城方ではなんとなく慌ただしく人が動いている気配が感じられるだけだ。

(なんぞ)

 氏康は松山城の雰囲気に怪しい物を感じたのか一の曲輪を凝視し始めた。

目の前の城はざわめきが聞こえるのみ。

「守りを固めよ」

 氏康が供周りに下知した直後、ふと城方のざわめきが消えた。

「皆の者、持ち場を固めよ、打ち出してくるぞ」

 氏康の言葉が全部隊に届き終わった頃、松山城東の大堀辺りから槍の穂先を揃えた人数が鬨の声も激しく城を囲む北條勢に打ちかかって来た。

 数少なになったとはいえ、武辺第一等の長野業正の人数である、打ちかかられた緒戦に富永直勝の一隊が半ばまで押し崩された。

「押せ押せ!討ち崩して本陣を突くのじゃ!」

 長野業正の武者声が地鳴りのように響いてきた。

 これを見た氏康が、富永の隊が押し崩される前に本陣を押し出すと、半ばまで崩された富永の一隊も持ち直す事ができた。

「あの檜扇の紋は長野業正殿に違いあるまい、皆々手柄首ぞ!囲って打ち取ってしまえ!」

 長野勢と討ちあっていた前線の足軽組頭で、何某と云うものがそう大音声を上げると、それを聞きとった北條勢の足軽がわっと業正の一隊に押しかかって行った。

 これが業正の潮時だったようで、これを境に一斉に引き揚げ始める。

「よし、押し出すは今ぞ。多目元忠を城攻めに向かわせ我らはあの長野勢を追う、者共続け!」

 氏康の一言で松山城包囲軍は、西に向かって敗走を始めた長野勢の追撃を始めた。このとき松山城包囲軍に上田朝直の使者がひっそりと到着したのは既に城が落ちた事の現れだったのだろう。

 長野勢を追いたてる氏康勢を見ながら、松山城攻めに取りかかろうとしていた多目元忠の前にやって来た上田朝直の使者が口上を述べ始めた。

「我が主、上田朝直からの言上にございます」

「上田殿の御使者か、して如何された」

「既に我が主朝直様は憲政公と共に城を抜け出られ、松山城を自落させられました。北條様方には何の御心配も無く城に入られますよう。また、太田資正殿の部隊が長野業正殿の逃げると見せた方面に伏せ勢を置いております。お気をつけ遊ばされますよう」

「左様であるか。知らせ苦労にござった。これより上田殿の元に帰って松山城に戻られるよう伝えられるがよかろう」

「有難きお言葉、では御無礼仕る」

 そう言い残し使者は去って行った。

 この使者が去った後、多目元忠の一隊は松山城に入城する。

 使者の言葉通り追手の門も閂が外されており簡単に開いたので、多目の人数が城に入って検分すると、確かに城には全く人数が居ない。正しく松山城はこれで自落したようだ。

 あとは先ほど知らせのあった太田と長野が仕掛けた伏兵を氏康に知らせるのみである。

「これで松山の城も落ちた。御屋形様に深追いはするなと貝を吹きならせ」

 元忠の言葉で引き上げを知らせる貝の音が、一斉に鳴り響き、松山の空を振わせた。

「もっと貝を鳴らすのだ。御屋形様が深追いをしてしまうぞ、もっと貝を鳴らせ」

 松山城から辺り一面に鳴り響いた貝の音。

 無事に氏康の耳に入り、長野・太田の挟撃を受ける前に引き上げる事ができ、無事に北條勢全てが松山城に入る事となった。

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