閑話
海坊主、鎌鼬、不死人、九尾の狐
虎は軽く唸り、夜は更ける
おれが日本に行ってから、三十年位で都は平安京に遷された。其処には紆余曲折の何かしらが有ったのだろうが、おれはそんな事は知らん。何せ玉藻さんに連れられてふらふらと彷徨っていた訳だからね。
何時の事だったかは覚えて無いけど、多分この頃の話だと思う。変な奴と先には言ったが、かなり断片的な、そう言う話。聞いて面白い話なのかも分からない。まあ、聞き流してくれ。
…………そんな話はする意味有るのかってか。それを言ったら、おれの過去何て、君には全く関係無いじゃないか。本許では知識が偏るから、こうしておれの実地調査的話をしているんじゃないか。
本と言うのは確かに素晴らしい物だが、作者の偏見だって、知識不足だって全て書かれている。勿論、おれの語りの方が偏りが有るのは言う迄も無い事だが、君は外に出なくて情報インフラが死んでるんだから、もっと情報を疑うべきだね。
…………おれを疑えと言った訳じゃないぞ。何だよその目は。
まあ、君はおれの事も疑った方が良いとは思うけどね。毎度毎度、飽きもしないでおれと丈喋ってさ、おれは今夜で居なくなるんだぜ? 其処ちゃんと分かってるの?
ん…………うん、有り難う。でもそう言ってくれるのは嬉しいけど、おれは…………、否、うん、然だよな。
飽きたら言ってくれ、どうせ脇に逸れた話だ。
「あーもう、苛々する!」
舟の上、金色の髪を散らして、行ったり来たりと忙しなくしている女性が、苦々しげにそう言った。ふさふさの、九つの尻尾が後を付いて右に左にと揺れているのを眺めながら、側に伏せている小柄な虎が欠伸交じりに宥める。
「若藻さん、少しは落ち着いたら如何だ。流されたのは最早如何しようも無いだろう?」
「其れも然だが、其れじゃない!」
狐は行ったり来たりするのを止めて叫ぶと、底が抜けてしまわない程度に足下を蹴りあげる。小さな舟がゆらゆらと揺れて一瞬近くなった水面を横目に、虎は首に巻いた赤いスカーフを気にする素振りを見せた。
「…………貍の事か?」
「何で勝てないだよ、此の国の狐共弱すぎるだろ!」
先日、佐渡にて狐と狸の大戦争を目にする羽目になった虎は溜め息を吐いて、いかにも驚いたように言う。
「然か、寧ろ勝つ心算で居たのかと己は驚いている。結果として彼の島からは狐は全員追い出されたがな」
事実を述べただけなのに狐が殺気を込めた目でじろりと睨んできて、虎は軽く首を竦めた。狐が好戦的な性格でないのは知っているが、それでも生きてる年数の違いは絶対的で、わざわざ怒らせようという心算ではないのだ。
勿論狐も、まさか自分で連れて来た道連れに八つ当たりするようなことはしなかったが、それでも腹の虫が収まりきらぬようで舟の縁を靴の先で叩く。手のひらを自分の膝に打ち付けて、うーあー、と気の抜けた声を出していた。
虎、皎月はそんな師匠の様子をちらりと見て、荒れてるなぁ、と唸った。
「…………其れ寄り、制御する事不能と成った此の舟を何とかしよう」
「ふん、海流の関係で大陸から島には何もしなくても行けるさ。放って置いても構わん」
「良く知ってるな」
「昔船乗りに聞いたんだよ」
若藻はどっかりと腰を下ろしてそう言う。荒んだ目でぎろりと皎月を見て、目の前を先を白い毛で被われた尻尾がゆらゆらと揺れているのを視界に入れると、釣られたように手で追いかけ始めた。左右に振ると、目線がついてくる。
狐は猫好きで、良く虎を撫で回すことが多々あった。今みたいに尻尾を追いかけているのは、猫が猫じゃらしで遊ぶのに似ているな、と皎月は思う。狐はイヌ科の筈なのだが。
「…………所で皎月よ、若藻さんって何だ」
「てゐに、以前の兎に、此方では敬称は“子”ではなく“さん”だと聞いたのでな。何か間違っているか?」
「間違っちゃいないが可笑しいって」
然だろうか、と皎月は首を傾げて、てゐにもっと詳しく聞いておけばよかったと思った。それを言っても仕方はないので口にはしないが。
虎と狐、二匹を乗せた小舟は帆も櫂も無いままに、海流にのってゆらゆらと進む。狐が言った通り、日本海側では海流にのっていれば確かに日本には着けるが、どこに着くのかもいつ着くのかも分からない。
虎はちらりと視線を落として、果たして海の魚は旨いだろうかと考えた。旨いだろうが単身では捕れないと結論付けた。
「暇だな。おい、此の前に教えた彼れ、練習してるか?」
言われて、皎月は顔をしかめる。
「双六の規律を口頭で教えて置いて、練習しているかと問うとは如何言う事だ。手元に無いのに練習する何て出来る訳無いだろう」
もっともな意見の筈だが、若藻はにやにやと笑って、双六なら此処に在るぞ、と言った。懐から大きな盤をひょいと取り出して舟の真中に渡してある木板の上に置くと、さあどうだと胸を張る。
どういう術なのかは分からないが、まあ暇潰しの道具が出てきたので、二匹は盤を囲んで座り、双六をやりだした。現代に伝わっているような物とはかなり雰囲気が違うが、賽と碁石のような物を使うバックギャモンのような物を想像してくれるといいだろう。
微かに揺れる舟の上で、手と前肢でぱちぱちとやる。ルールを教えて貰った立場である皎月が負けるのは仕方がないが、相手が弱くても手を抜かない若藻も若藻である。負けず嫌いなのだろう。
ふと、霧が濃くなっていることに気が付いて、皎月は鼻をひくひくとさせた。ちなみに彼女が化けていないのは、純粋に獣姿の方が気が楽だからだ。
ゆらゆらと霧が揺れる。嫌な雰囲気だと感じつつも、暢気な二匹は気にもしないで双六を続ける。
「ちょいと」
若藻は話しかけてきた誰かの手を邪険に振り払って、試合に集中出来ないから向こうに行けとつっけんどんに言う。それでもしつこく話しかけてくる声の主に、対面の皎月を無言で指差して、相手をしてやれと目線で言った。
「ちょいと、君」
「…………誰だ」
皎月の唸るような誰何に、少し怯んだようだったが、声の主は諦めずに虎の肩をつつく。
「柄杓貸してくれよ」
「柄杓? 何に使うのだ?」
「何だって良いだろう、貸しておくれよ」
良く分からないが貸せと言われたら貸してやろう、と皎月は相手も見ずに、側に転がっていた柄杓を渡してやった。変な奴だなぁ、と欠伸をして、自分の番になったので賽子をふる。
声の主は礼を言うと、皎月と舟の縁を挟んで座る。双六の盤を隣で覗き込みながら、片手で柄杓でばしゃばしゃと音を立てた。
暫くして、漸く皎月は違和感を覚えて顔を上げた。
「……………………貴様何をしている」
「え、今更?」
今更というか今更。二匹の乗る舟にせっせと水を汲んでいたそいつを睨んで、皎月は唸る。さりげなく話しかけてきたから見逃してしまったが、どう考えても状況がおかしい。
「皎月、相手しても良い事は無いぞ。只の幽鬼だ」
柄杓を片手に、舟の縁に体重を預ける年若い少女は悪びれない様子でにやりと笑う。船乗りが良く被っているような庇のついた帽子を指先で突いて、少し訝るような、怪訝な視線で自分を見る虎を嗤う。
身体の無い彼女には、恐れるものなど無いのだ。虎なんて言うに及ばない。まだ力が弱くて、ただの幽霊とそうは変わらないが、行き違う舟を事故に遭わせるくらい訳は無い。彼女は最早何者も、何物も、恐れてはいなかった。
幽鬼は獰猛に口の端を吊り上げて、どうでも良さそうな顔で賽を振る狐を見る。
「良いのかい? 私は幽鬼は幽鬼でも、沈める奴だよ? 妖獣如きが、此処から泳いで岸に着けるのか?」
「出来るのならやって見るが良い、御託は要らないよ」
するともなしに挑発して、若藻は少女を見もせずに軽く手招きした。さすが二千年近い年月を生きる大妖怪、思わず皎月も息を飲んで自分の旅の供を見た。
いつもの狐の戯れの軽いものとは少し違う、重苦しくまとわりつくような殺気を浴びせられ、幽鬼は歯を食い縛る。ここで押し負かされるものかと張った意地をそのままに、なんとか笑ってみせた。
「…………はっ、後悔すんなよ」
で、数刻後。
「ぜぇっ、はぁっ、何で、水が、溜まらないんだっ!」
舟は相変わらずゆらゆらと揺られながらどこへとも知れず進んでいる。幽霊が頑張って、柄杓で掬った水を舟に注ぐが、底にすら溜まらない。汲んでも汲んでも、どこからか漏れていっているようだ。
うがー、と頭を抱えてしまった幽霊を横目に、狐は嗤う。
「如何した? 沈めるんじゃなかったのか?」
「むがーっ!」
一体何をすると舟が沈まないのだろうか。柄杓を渡してしまってよかったのだろうかと少し悩んでいた皎月は、そう思っていたことも忘れて若藻の意地の悪い笑みを見ていた。考えられるとするなら幻術の類いだが、どうにも皎月には見破れそうにない。見破れるとも思っていない。
虎が落ち着かなげに、自分の番になったので賽子をふって、狐は先刻から全く変わらぬ調子で双六を続ける。ちなみに盤上を伺うと既に大局は決しているのだが、狐は止めようとも言わずに虎を更に追い詰めていた。苦しくなってきた虎が自分の赤いスカーフに目を落として、現実逃避気味に唸る。
九尾の狐と、それから虎が、なぜか仲良く同舟で彷徨っているのは、遠目でも分かった。だから幽霊は、その舟を沈めたら、自分の心も少しは軽くなるかな、と思ったのだ。
人に恐れられ、それによって妖怪となってしまった彼女は、皆が恐れる通り、船を沈めるくらいしか出来ない。行動が制限されて、しかも特定の場所から動くことも出来ず、巣を架け獲物を待つ蜘蛛のように、船が通りかかるのを待つだけ。一人、待つだけ。
きっかけはただの偶然だったと思う。そう、ただの偶然だ。たまたま、船に乗っていて溺れて死んだ少女が、たまたま思いが重くて幽霊になっただけのこと。そしてたまたま、彼女を見た人が、船を沈める幽霊だと思った。ただの偶然だ。
全ての妖怪は人間の妄想と、思い込みと、恐怖から生まれる。彼女もその一人だった、ただそれだけのこと。妖怪になってしまった以上、存在が滅するまで、磨耗するような時間をかけて消えていくまでは、生き方に従うより他は無い。だから、格の高い奴の乗る船を沈めれば、自分の妖怪としての格も上がる筈だと、彼女は思っていた。
…………そんなことをしても無意味だと、知らなくはなかったのだけど。段々と何をしようとしていたのかもぼんやりとしてきて、自分自身、その“人の念”に縛られて、動けなくなりつつあると、分からなくはなかったのだけど。
しかし少女は諦めない。沈めると言ったからには沈めるのが舟幽霊の流儀だ。意固地になっていると自分でも分かるが、彼女は幽霊であり、妖怪である。沈めなくてはならないのだ。
そう、通りかかりの誰かが言っていたじゃないか。“妖怪とは抑人の固定観念、其の物である”と。
「ふ、…………ふふっ…………」
不気味に、というかかなり怖い調子で口元に笑みを刻んで、少女は柄杓を脇に、背中に手を回す。爛と輝く瞳には、どう見たって危ない光が灯り、笑っている筈の口元はひきつっている。
その様子を、やっぱり全く眼中にも置かないで若藻は賽をふるが、皎月は気が気じゃなかった。何をするにしても、若藻ほど長く生きてる訳でもなく、まだ“ちょっと力の強い虎”でしかない皎月には、彼女ほど超然と構えることが出来ないのだ。しかさそれは責められるべきではなく、皎月もまた、暢気なことには若藻と変わりなかった。
…………まあ、最悪、泳げば良いだろう。遠いが、行けない事は無さそうだ。
楽観的にも程がある。彼女は早死にするタイプなのかも知れない。
ともあれ、不気味に笑う幽霊を脇に置いていたのは確かに良くなかった。
「――――死ね!」
気合い一声。空手割り、いや一般的に言うとチョップ。真上から降り下ろされた豪速チョップは、双六の盤を真っ二つにして舟底を割る。底を割断された舟は水面を騒がせて揺れて、
「…………何でだよ」
しかしそれだけだった。割れた筈の箇所から水が流れ込むことも、バランスを崩すこともなく、舟はただ揺れるだけだ。
「何でだよ!」
少女の叫びに皎月も同意して、割れてしまった箇所には触らぬように、舟の後ろの方に下がる。ちらりと若藻の方を見ると、九つの尾を揺らす狐はつまらなそうに、しかしおかしそうに笑っている。
改めて、狐がただ者ではないのだと感じて、虎は少し身震いした。そしてうなだれる幽霊に同情して、それからどうして自分はこの狐と一緒にいるのだろうかと首を捻った。
確か、変化の術を教えてもらいたかっただけなのだが。成り行きで日本まで来てしまい、更に成り行きで一緒にいるが、この狐は自分をどうしようというのだろう。
「うーあー、私の存在意義がー」
「…………落ち着け、此んな奴に意地を張っても仕方が無いぞ」
「おい誰が此んな奴だ」
若藻の突っ込みは置いておいて、皎月はため息を吐いた。沈まなくて良かった、という安堵よりも、正直良くわからない事をするのは止めて欲しい、という意味合いの方が強かったが。
「死んでから此の方、失敗した事は無かったのに!」
「はん、此処いらで失敗して置いて良かったじゃないか。感謝しろよ」
「何だと手前!」
皎月はもう一つ息を吐いた。
所変わり話変わり、虎と狐は山中を歩いていた。人里が程近いので、二人共尻尾と耳を隠した人間の姿だ。すらりとした美人体型の若藻の隣を、背の低い皎月が歩く。二人共いわゆる漢服の着物を着ているが、人里に行けばそれはそれは目立つだろう。何せ絶世の美女と髪色のおかしな少女だ、目を引かない方がおかしい。
二匹は道無き道を歩く。日暮れ時の山の中には陽の光りはあまり届かず、橙色の空が木々の隙間から垣間見える。段々と暗く沈んでいく木々は手を広げ、まるで覆い被さるように空を隠していた。
逢魔が刻、この時間から、世界は闇を滲ませ始める。魑魅魍魎が闊歩するようになる、昼と夜の境界線。越えれば、きっと人間は形を保つことなど出来ないのだ。
「先の人に依ると、此処の辺りは越後と信濃の間にある山らしいぞ」
若藻がそう言うのに、皎月は全く興味も無さそうな様子で近くの木の皮をがりがりと爪で掻いている。若藻もそんな皎月には全く関心が無い様子で、言葉を続ける。
「ふむ……………………腹が減ったな」
先の地名からは関係ない話題に移ったが、今度は皎月も、応、と同意した。確かにお腹は空いていたが、皎月は先程生っていた良く分からない果物―――イチゴの原種だったのが、皎月には何だか分からなかった―――を摘まんだのが、余計に空きっ腹を強調するので辟易していたのだ。
ところで少し関係ないが、基本的に肉食の動物ほど消化器官は短く、草食動物ほど消化器官は長いというのは、まあ一部の人には周知の事だろう。人間は雑食なのでその中間で、大体腸の長さは二十メートルくらいであると一般に言われている。
猫は肉食なので、腸の長さはそんなになく―――勿論体の大きさに対して、であるが―――お腹もそんなに強くない。だから素麺等の消化の悪い物をあまりあげても意味がない。消化不良で腹を下すかもしれないから、きちんとキャットフード的なものなどをあげてあげよう。あと魚のあらばかりあげてると塩分過多で死ぬからそれも止めよう。
しかし虎という動物は、狩りの成功率がかなり低いためにほとんど雑食に近い。木の実は勿論、魚も食べるし、何も無ければ虫だって食べる。彼女達にとっての食料事情は、かなりきついものだということを分かって欲しい。同じネコ科のライオンやチーターに比べると、皆が思っているほど楽天な生活ではないのだ。
何が言いたかったのかと言うと、虎は肉が好きだけど雑食で、肉が無ければなんでも食べる、ということだ。無駄に長くなってしまったが。
「所で皎月、お前、此の国の飯は食べたか?」
「否、未だだが…………其れが如何かしたのか?」
聞き返した皎月に、やや歯切れ悪く若藻は答える。
「うーん…………まあ機会が有れば食べる事にも成るだろうが、…………凄い地味だから驚くなよ」
「…………地味?」
「質実剛健? って言うのかな、魚と穀物と山菜許で、然も味付けも大した事無いし。正直故郷の食事が懐かしく成るよ。…………ああ、でもお前は確か内陸の方の出身だっけ?」
「まあな、一応は」
「はぁ、矢張りしたいよなぁ……………………酒池肉林」
駄目だこいつ、と皎月は思わなくもなかったが、黙っていることにした。沈黙は金成り。余計なことを言っても仕様がない。
さて、二人がどうでもいい事をどうでも良さげに話ながら歩いている、前方、静かに潜む影があった。気配を消し、息を潜め、獲物を狙うその影達は、暢気に歩いている二人の、大きい方に狙いを定めた。
こそこそとアイコンタクトを交わし合って、飛び出るタイミングを見計らう。二人との距離が近くなり、必殺の距離になるまで影達は待つ。悪戯に、命をかけている。
しかし間抜けな妖怪である彼女達は、こそこそと言い合いをしており、それが皎月の耳にまで届いていた。
「いい? もういい?」
「未だだっつの。ちょ、音立てんな」
「いっちゃんいっちゃん、もうちょっと前に出てよ、こっち狭いって」
「ねーまだー?」
「煩ぇ、未だだって」
「女の子の方がこっち見てる気がする。これは…………失敗?」
「言うな、狙いは大きい方だ」
「ねぇ行ってもいい? 早くしようよ」
「黙れ」
不思議と響かない少女の声が三つ、草葉の陰から洩れ聞こえる。皎月は、こいつらは本当に隠れられてる心算なのだろうかと軽く首を傾げたが、どうやら若藻の方はこの国の食事についての文句を言うのに夢中になっていて彼女達には気付いていないらしい。
…………意外と抜けてるんだな。それとも、何をされても大丈夫だと自信があるのか。皎月は少し前を歩く若藻を見て、そう思った。
と、暫くざわざわと風が吹いていたのが、一瞬止んだ。皎月には物音一つ聞こえない静寂の中、しかし何かが聞こえたらしく若藻は少女達の隠れる草むらの方に目を向けた。
そして突然に風が吹き、
「おい」
若藻は膝下の辺りを軽く払った。風は通り抜けようとした上から叩かれて、地面に落ちる。ぺしゃりと落ちた毛玉の塊を三つ踏みつけて、若藻は皎月の方を振り返った。
「なあ、此奴等食えるかな?」
「…………否、無理だと思うぞ?」
「おい手前、足退けやがれ!」
「ちょっとカイ、重いんだから私の上に乗らないでよ!」
「きゅう~」
若藻の足の下を見てみると、どうやら鼬らしい。三匹の鼬がキューキューと鳴き声をあげながら、若藻と皎月を見上げている。
「糞狐の女郎に踏み付けにされるなんて、何たる屈辱っ。斯く成る上は…………切り刻む!」
「いっちゃん口悪いよー、でも同意」
「そもそも足を退けられないという。やっぱり化けることもできる奴を襲うのは無謀だったのかも」
「痛い痛いよー、肋骨折れる。足退けてー」
「おい貴様、足を退けないと切り刻むぞ! って言うか姉貴が潰れるから体重をかけるな!」
口々に言う鼬を見下ろして、狐は肩を竦める。食べるという選択肢は諦めてくれたのだろうかと考えながらも、虎はしゃがんで騒いでいる鼬の内の、一番喚いている奴を取り上げてみた。
栗毛に黒い線の入った小柄な鼬は、翡翠の瞳を勝ち気に細めて、じっと自分をみつめる小さな少女を威嚇する。少し低めの、声変わりのしていない少年のような声で、きゃんきゃんと吠えたてる。
「何だ手前、やんのかこら」
それはさておき、皎月は鼬というのを初めて見た、貂なら見たことあるが。この国に来てから物珍しい物ばかり、といっても皎月にとって目新しく無いものは無いのだが、知識においても知らないものというのは、かなり新鮮な気分になる。
鼬の太く短い尻尾を掴んで逆さに吊るす、というかなりアレな感じの扱いをしながら皎月は、この鼬は何の妖怪なのだろう、と疑問に思った。若藻にも訊いてみるが、やはり知らないという。
すると皎月に尻尾を掴まれて逆さに吊るされている鼬は、鼻を鳴らしてせせら笑うように言う。
「あー? 僕等が何の妖怪かとかどうでも良いだろう?」
何の妖怪だろうが、お前等には関係無いだろうが、と鼬は嗤う。道理の分かっていない虎を、完全に馬鹿にしたように、嗤う。
成る程、確かに関係無い。しかしそれを言ってしまえば、区分など人間が勝手につけただけのものだ。それらに縛られて、妖怪というのは暮らしているのだ。それが分からずに、ただ何となく区分を聞いた自分は、確かに馬鹿かもしれない。
少し前にも若藻に、お前は畜生らしくないと言われたが、皎月はどうにも考え方が人間臭い傾向にあった。物事について深く考え、自分に忠実に動こうとはしない。理性をしっかりと保った、獣らしくない行動。協調性こそあまり無く、思いやりは欠けるが、その行動倫理は非常に人間寄りだ。だから、皎月がそんな風に鼬に聞いたのも、無理からぬことなのである。
しかし、そんな風に頷いた皎月をおいておいて、若藻の足の下から声が答えた。一番大柄で、全長二尺半(約80cm)ほどもある白毛に黒い線の入った鼬は、若竹色の目を輝かせて言う。
「あたし達は、鎌鼬っていうんだよー」
「何で言っちゃうんだよバカイリ! 空気読め!」
「え、理不尽」
「カイはカイだし、今更そんなの言っても仕方無いよー、いっちゃん」
鎌鼬。皎月は勿論、若藻ですら知らないが、風斬りの伝承は、日本各地で伝えられる割りとポピュラーな話である。
走っている途中で頭を軽く木の枝にぶつけ、気にしないでいたら実はぶつけた部分が大きく裂けていた。道を歩いていて何もないのに転んでしまって、気が付けば膝の辺りが大きく裂けているが全然痛くない。
それらの怪異の仕業が、鎌鼬という妖怪だと言われている。諸説あるが、三匹組で現れ、一番が人を転ばせ、二番が手の鎌で切りつけ、三番が特製の薬を塗る。すると瞬く間に無痛無出血の鋭い怪我が出来る。怪我に気付かないことも多々あるが、暫くすると出血を伴い痛み出すのだという。
実は、中国の虎である皎月と、彼女達鎌鼬は、少なからずの因縁があるのだが、その話はまた後で。
鎌鼬が何かはおいておいて、鼬の三姉妹はぎゃーぎゃーと言い合っている。
「壱里お姉ちゃんが行こうって言ったのがいけないんと思う」
「他人の所為にするな。狐何て楽勝だって言ったのはお前だっつの」
「少なくとも私の所為ではないっ! 私は何にも知らないっ!」
「煩ぇ帰れ」
「帰れたら苦労はないよねー」
「…………煩い奴等だな。三人寄れば姦しいってのは此れの事か」
実にその通りである。
皎月は手に持っていた鼬を離してやった。鼬は宙で一回転してから地面に着地すると、やおら恭しく礼をして、自分達は越後の生まれの風斬という、と名乗った。
「辻斬ろうとしたのは謝るのでどうか解放してくれ。悪気が有った訳では無いのだ」
先程までの剣幕はどこへやら、いまだに二匹を足蹴にしている若藻に向かって頭を垂れてそう言う。
「断るなら―――斬る」
芯の通った言葉に、残りの二匹も軽く身動ぎした。思わない者には屈しないと、三対の碧の瞳が静かに物語っていた。真っ直ぐなのが悪いとは言わないが、正直九尾の狐と争って勝てる可能性など皆無だ。逃げることすら難しい。だが鼬はどんな時でも諦めない、と唸る。
それは、麗しの姉妹愛とか、家族愛とか、そんな上等な物ではない。ただ生き汚く、自由を求める、切実な小さな動物の心理だ。
「……………………ふん、別に、潰そうとは思って無かったさ。戦いにも成らん喧嘩は控えろよ」
若藻が足を退けてやると、下から這い出した二匹は栗毛の鼬の周りをくるくると回った。黒毛に白い線の入った鼬が浅葱色の目をしばたたかせながら、栗毛の鼬の上に前肢をかけて、狐と虎を見上げる。
「解放してくれてありがと。あんた達はどこへ行くの?」
「都へだ。新しい都は前の寄り綺麗に作ると聞いたから、どこに作るのか見に行ってみようと思ってな」
「へー、今はまだ行かない方がいいと思うけど」
「長岡京は風水てきによくないって、通りすがりの仙女様が言ってたもんね」
「怪しい仙女様がな。彼処に行っても意味は無い、別の所に遷都する迄待った方が良い。そう遠く無い話らしい」
相変わらず口々に言う鼬の言葉に、若藻は何やら考え込むような素振りを見せた。建設中の都へ行こうとしていたのだが、行くなと言うなら行かない方が良いかも知れない、と呟く。
知っての通り、長岡京は桓武天皇が建設を命じていたが、暗殺や不審死が続いたために建設を中止し、平安京へと都は移るのである。それを先見の目をもって言い当てた仙女、しかし日本には道教はあまり広がってはおらず、仙人というのはいないのである。後に何人かの仙人は出てくるが、中国に比べたら大したことはない。
暫く行かないことにしよう、と二人が決めたのに頷いて、鼬はもう一度狐に謝って別れを告げる。それじゃあ、と言い指して、黒毛の鼬と栗毛の鼬は顔を合わせてにやりと笑った。含みのある笑みが、何を示してのことなのかは分からないが、二匹は口を揃えて言った。
「「縁が合ったら、また会おう」」
言い残して去っていく三匹を皎月と若藻は見送る。
「…………何格好付けてるんだ、彼奴等」
確かに。
三匹の後ろ姿が夜に沈んでいく森の中に消えて、皎月は息を吐いた。妙な連中と逢ってしまった、と思いつつ、若藻の方を窺う。狐は特に何を考えているとも知れぬ表情で、ぽんと手を打った。
「扨、皎月、腹も減ったし飯でも食べよう」
「応、然だな」
日本のどこか、多分西の辺り内陸部。森の中にあった大きな平たい石の上に、狐と虎は差し向かいで座って、干した鰯をかじりながら酒盛りをしていた。お猪口に注いだ酒をくっと煽り、狐は息を吐く。
「平安京かぁ、如何でも良いけど最近肉食べて無いなぁ、肉食いたいなぁ」
妖獣というのは元来欲望に忠実なのである。まあ人間程邪悪な欲を持たない妖獣にとっては、やはり食欲が一等重要かつ切実なものなのだ。それは仙狐ではない若藻もそうで、そもそも仙狐にならずにいまだに妖獣として生きている方が稀なのだが、やはり仙狐であっても、道教の性質上は欲に忠実だ。“食事制限なんてナンセンス、いっぱい食べて楽しく暮らそうぜ”、実に中国らしい宗教だと思うよ、道教。仙人ってかなり私利私欲にまみれてるしね。
まあ肉が食べたいという気持ちは大体の人、半分の半分くらいの人は共感できるものだと思う。狐って肉食だし。
しかし虎はというと、狐の言ってることなんざ全く耳に入れず、狐のもふもふした尻尾を大きな前肢で掴まえて顔を埋めていた。隣には空になった徳利が幾つか転がっており、虎はごろごろと喉を鳴らしながら自前の尻尾を揺らす。狐からは彼女の様子は窺えないのだが、虎の振る尻尾が目の前に来る度に、掴まえたそうに下唇を噛む。がうがうにゃーにゃー。
簡単な話、皎月は酔っ払っていた。
「くそう、にゃーにゃーしやがって。可愛いなぁ此の野郎、抱き締めちゃうぞ、ほれもふもふ」
「うなー」
そして若藻も酔っ払っていた。
食らえ、九狐尾包虎猫! などと酔っ払い二匹はじゃれ合う。子供が遊んでいるのと変わらないように見えるが、片や九つも尾を持つ妖獣と、片や小柄とはいえれっきとした虎である。微笑ましいというよりは、シュールなことこの上無い。本人達は楽しそうだからいいのだろうか。
狐は、完全に酔っ払ってしまって機嫌よさそうにじゃれてくる虎の頭を抱え込んで、大した力は込めないまでも石に押し潰すようにしながら自前の尻尾をもふもふとする。猫好きな狐にとってはとても楽しい。
「ほらほら、参れ、参って仕舞え」
「己は其の程度では参らん!」
「もーふもーふ」
「むむぅ」
「もーふもふ、で、擽り」
「ぅニャ!? ちょ、一寸貴様何して」
「私の事は親しみを込めて、狐さんと呼ぶが良い」
「何故っ」
「ほう、お前は脇の下寄り尻尾の方が擽ったいのだな。そして腹を見せまいとする其の根性は汲むが、然し、私は猫の腹を撫でてやるのが好きなのだ。さあ引っ繰り返るが良い」
「くっ、貴様の良い様にはさせんぞ!」
「為らば、喉を撫でてやろう」
「む、むむぅ」
「ほらほら喉鳴ってるぞ。…………で、逆撫で」
「きっさまあ!」
「おぉ、皎月が怒った、珍しいな」
「己だって怒る事も有る!」
「息巻くな。ほら、詫びに私の肴を遣るから」
「む、貰おう」
「代わりに其の怪しからん尻尾を貰い受けよう」
「遣らん!」
それにしてもこの二匹、楽しそうである。
と、二匹がぎゃーぎゃーと騒いでいると、近くの藪がざわざわと音を立て、次いで人影が飛び出した。何やら急いでいる様子で走ってきて、足元に飛び出していた木の根に気付かず躓く。
「とっとっとっ、…………うわっ」
少女は足をもつれさせて転んだ。丁度二匹が座っている石の前で、転んでしまった少女は、キョロキョロと辺りを見回してから、じゃれている二匹を見て呻く。
「うわぁ、妖怪じゃん。付いてないなぁ」
心底嫌そうに呟きながらも、少し安心したような表情を見せて、少女は溜め息を吐く。頭を振って怪我していないことを確認すると元気に立ち上がり、改めてじゃれ合った体勢のままに少女を見つめる二匹を見た。
少女の髪は長く白く、その瞳は血の朱で染まっている。透明とも言える白い肌は頬を朱に色付かせ、雪よりも白い睫毛は、遠くから見るとまるで存在感がなかった。不吉な色は、恐らくどこでも忌まれるものだ。そんな色を惜し気もなく晒して、少女は無表情で二匹を睨み付ける。着ている着物は質素だが、山歩きをしていたためかあちこちに葉や小枝がくっついていた。
…………白子か。訳有りだな。
皎月はそう思い、少女をためつすがめつ物珍しげに眺める。言葉に聞いたことはある白子が実在するとは頭で分かってはいても、実際目の当たりにした時の衝撃は大きい。紅と白の少女は、虎の視線も気にしないで精一杯の力を込めてこちらを睨んでいる。
ここで、睨んではいても、少女は虎を知らなかったので、暢気にあれは猫だろうかそれとも大陸の動物だろうかと心中首を傾げていた。それから漸く、屏風とかに描いてある虎だと気付き、少し嬉しそうな顔で虎を見る。しかし相手は妖怪だと思い直し、少女は再度目をキッと吊り上げて二匹を睨んだ。
二匹とも良い感じに酒が入って気分がよくなっているので、不躾で無粋な少女のことも気にしないで、とりあえず落ち着いてふざけるのを止めた。今更ではあるが。
「おい、其処のお前」
「……………………何だよ」
少女は狐に声をかけられると明らかに警戒して見せる。警戒心が強いんだな、と虎は思い、警戒したくもなるかと思い直す。何せ狐の妖獣と虎だ。虎は兎に角、狐は九尾だ。警戒するのも仕方がない、と自分のことはおいておいて皎月は頷いた。
…………この頃の皎月はまだ自分はただの虎で、いつかは死ぬのだろうと普通に考えていた。死ぬまでには自分が何者だったのか思い出せたらいいなと、その程度にしか考えていなかったのだ。この時、既に日本に来てから四十年近いというのに、いまだに自分は少し経歴がおかしいだけのただの虎だと思っていたのだ。
このまま酔生夢死に死ぬのが定めだと、潔くはあるが些か諦め気味に受け入れていた皎月だが、まさか自分がこの後ずっと生き続けることになるとは全く考えていなかったのだ。
「入れよ、歓待するぞ」
そんな文句に乗るような人間はいないんじゃなかろうか。怪しげな誘い、妖しげな酒宴、人の疑いの目を向けられぬものではない。しかし少女は暫く迷っていたようだが、覚悟を決めて一つ頷くと、二匹の座る平たい石の上に座った。
場所を詰めて開けてやり、お猪口に酒を駆け付け一杯勧めると、少女は迷い無く一献呑み干し、狐にどうだと誇らしげな顔を向けた。潔い呑みっぷりに虎は賞賛をやるが、狐は軽く笑うだけで、少女は多少気分を害したようだった。
余談になるが、昔“駆け付け一杯”とか“先ずは一献”などと言う時は、お猪口で三杯煽らなければいけなかったらしいと聞いたことがある。一杯というか三杯だが、真偽は定かではない。
「三人に成ったし、酒令を決めようか。何にする?」
狐は愉快そうに笑って言う。しかし異国の地の、異国の言葉で、異国の民との酒の席だと考えると、いきなり酒令を定めるのは無礼かもしれないなぁ、と皎月は思った。一方、若藻はノリノリである。なので、なんとか上手く動かなくなっている頭を捻って、皎月は応じる。
「文字にしよう。己達の頭が回らんから、此の娘が有利に成る」
それでも酒令を普段からやっていた二匹と、酒盛りにも中々参加しない少女ではかなりハンディキャップがあるし、そもそも文字ということは漢字だ。漢字のやって来た元の国出身である二匹は相当有利な筈だ。しかしそこまで皎月は気を回せなかった。元々、気を遣うのも苦手な質なのだ。
まず若藻が得意気に口火を切った。
「田という字は締まり良く、十という字が入っている。十という字を上に押せば、古という字で一杯貸した」
それを受けて今度は皎月が続ける。
「困という字は締まり良く、木という字が入っている。木という字を上に押せば、杏という字で一杯貸した」
だが少女には酒令のルールも、何をしているのかも分からず、困った顔をして首を捻る。思い付かないなら罰杯だぞと言った若藻を制して、皎月は番をとばしてやることにした。なので次は戻って若藻だ。
「囹という字は締まり良く、令という字が入っている。令という字を上に押せば、含という字で一杯貸した」
「…………回という字は締まり良く、口という字が入っている。口という字を上に押せば、呂という字で一杯貸した」
二人が言い終わり、そこで少女を見てみると、どうやら何をしているのかは分かったみたいだが、やはり何を言えば良いのかは分からないらしい。狐は困った顔をする少女に忍び笑いをして、少女の前に大杯を差し出した。
いきなり大杯に四つも呑まされた少女は目を白黒させて、苦しそうに咳き込む。死ぬんじゃなかろうかと心配そうに皎月が声をかけるが、大丈夫だと片手で制する。全く大丈夫には見えないが、若藻が次と急かすので、諦めてまた一巡することにする。
「圃という字は締まり良く、甫という字が入っている。甫という字を右に押せば、哺という字で一杯貸した」
得意気な顔の若藻は兎に角、皎月は心中焦る。形を同じくするいい言葉が思い付かないのだ。そもそも、囗の字自体が少ない。そしてそれを上手く変えられる物となると、園や圏とかでは駄目なのだ。
「何だ皎月、もう終いか?」
「否、未だだ」
愉快そうな若藻の言葉に、皎月は意地で応えた。思い付かぬなどとは口に出来ない。これだから若僧はなどと言われはしないだろうが、それでも彼女のプライドが許さない。
皎月は暫く頭を捻って、漸く、
「団という字は締まり良く、寸という字が入っている。寸という字を右に押せば、吋という字で一杯貸した」
と言った。やはり少し酒の所為で頭が鈍くなっているようだ。自分では意識をしっかり持っているつもりでも、集中力がなくなっているのがはっきりと分かる。一方若藻はと言えば、酔っていても明晰さは顕然だった。
番が回ってきたが、少女はまた答えられず、大杯を二回煽って、次は答えてやろうと頭を捻りだす。それより皎月からすれば、そんなに酒を呑んで死んでしまわないかが心配である。特に彼女の事情を全く知らない皎月はそのことが気になって仕方がない。
「四という字は締まり良く、儿という字が入っている。儿という字を下に押せば、兄という字で一杯貸した」
今度は皎月も間髪入れずに応える。
「国という字は締まり良く、玉という字が入っている。玉という字を下に押せば呈という字で一杯貸した」
そしてまた、少女の番が回って来た。やはり少女が直ぐには答えられぬのを見て、狐はくつくつと笑う。
「思い付く迄待って遣ろうか?」
「煩い、今考えてる」
ぶっきらぼうに、そうは言ったものの、やはり既に考えていたのだろう。少女は探るような目で狐を見ると、区切るように口を開いた。
「因という字は締まり良く、大という字が入っている」
押せば如何成るんだ、と若藻が笑うと、少女は挑戦的に笑い返して、続けた。
「大という字を上に押せば、大口で人間は杯を煽るんだ」
言うやいなや、にわかに少女は立ち上がり、指をぱちりと鳴らした。途端に、
「っ!」
紅蓮の炎が三人の周りを取り囲んだ。一瞬にして紅く燃え上がった炎は、意思を持つような動きで狐に迫る。夜の森が、朱に染まった。
虎は身を低くして炎の手から逃れた状態で、その様子を見ていた。恩人ならば、危機においては助けるべきかとも思うはなくもないが、この狐においては自分が何かするのは足手まといにしかならないだろう、と考えてのことだ。
「まあ然怒るなよ」
狐は笑って炎を払った。何でもないような素振りで触れられた炎は、途端に力も熱も失って宙に消える。炎が木々を照らし出したのはほんの一時で、直ぐに夜の闇が静かに戻る。
少女は悔しさを滲ませて自分の手を見詰めていた。苦々しく、目を細めて息を吐く。深呼吸じみた呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けてから、改めて狐を睨み付けた。
「余裕だな、あんた」
「んー、然見えるかい?」
事実余裕なのだろうが。皎月は口の中だけで呟いて、眉を立てる少女に軽く同情した。同情されるようなことではないのかも知れないが、それでも二者の態度の違いを見れば、少女が些か可哀想に思えてくる。
気分を害した、と言って、少女は立ち去ろうとした。引き止める理由も無い、と皎月は見送る心算で応じたが、若藻は何やら少し考えてから少女を呼び止めて、こう聞いた。
「不見比の父は恙無く暮らして居るか?」
質問の意味が分からず、皎月も少女も首を傾げる。比べられず、とはどういうことだろうか。更に父とは、誰の父だろう。そんな二人を見てか、鈍いなぁ、と呟いて、若藻は言い直す。
「等不見比藤原の人だよ。御元気ですかと訊いているのだ」
藤原不比等とは、言わずと知れた藤原鎌足の後を次いで、藤原氏隆盛の為に尽力した人である。この頃の天皇である、桓武天皇は勿論その後の後堀河天皇までのほとんどは藤原氏の出だというから恐ろしい。平安の時代に、藤原氏は隆盛を極め、その後源氏に追い立てられるまで、長く栄華を誇るのである。
しかし何故ここで、何年前かも分からぬ藤原不比等の名が出てくるのだろう。以前に死んだと、若藻が知らない訳ではあるまい。そもそも、二人がこの国来たときには、既にこの世の人ではなかったのだ。
「何故それをっ!」
疑問に思う皎月を置いて、状況は進む。何事かを理解したらしい少女は猛然と立ち上がり、またぱちんと指を鳴らした。
一瞬で少女を先ほどと同じ炎が包む。改めてそれを見てみると、まあ火力は大したこともないが、妖術の類だとは分かる。ただの人間ではないな、と皎月は呻いた。
「剣呑剣呑、皎月、退却と行こう」
「逃げるな!」
少女の叫びも聞かず、若藻は皎月の背にひょいと飛び乗って、さあ走れと頭を叩く。顔をしかめて手を払ってから、皎月は喉の奥で唸る。
「貴様…………何故乗る」
「別に良いだろ? 足ならお前の方が速いんだし」
確かにそうだが、良くはないだろ。皎月は呻き声をあげたが、それすらも若藻は無視して頭を叩いて急かしてくる。ポンポンと気軽に叩かれるのに辟易しつつも、皎月は、じゃあ逃げるかと辺りを見回した。
ご存知の通り、猫は猫背である。故に背に乗るのは意外と難しい。乗れても、途中で振り落とされてしまうだろう。なので、若藻は虎の首にぎゅっと抱きついて、しっかりと結んである赤いスカーフを手綱代わりに掴んだ。
「…………取るなよ?」
「然言われると取り上げたく成るのだがなぁ」
絶対に止めろよ、と釘を刺して、虎はこちらを睨み付けてくる少女を窺う。軽く拳を握って腰を低くしているのは、逃げる素振りを見せたら突撃してくる心算なのだろう。見れば、既に少女の炎は辺りに広がり、逃げ場などどこにも無い。ここまで燃え広がってしまうと脱け出すのは難しそうだ。
しかし、虎は静かに炎を見詰めて、一声唸る。
「火を怖れぬのは人間丈だと、思い上がりも甚だしいと知れ」
「え、突っ込むの? 私は流石に怖いんだけど。止めてよ、ねえ」
何か背中から小さい叫び声が聞こえるが、皎月は知らない振りをして、炎が作る壁に向かって走り出した。背後から少女の声が追いかけてくるが、気にせず炎の壁を軽々と飛び越える。
…………確かに足は速いよなぁ。あまり意識はしないが、自分は虎の中でも足の速い方なのだろう。何年か前に星を追跡した時はかなり距離が要ったが、今なら直ぐに追い付けるのではないだろうか。
「うへぇ、無茶するなぁ」
狐が呟く声を耳に、ぐっ、と体を弓のようにしならせ、虎はぱっと駆け出した。方向も決めずに走り出した為に暫くすると海辺に着いてしまい、狭い国だなと改めて思った。
それから、どうしてあの少女を怒らせるような事をわざわざ言ったのか、藤原不比等とあの少女は何の関係があると知っていたのか、等々と狐を問い詰めたが、狐は素知らぬ顔ではぐらかすだけだった。
「ふむ、そろそろ御別れだな」
平安の都、羅城門の下で若藻は突然そう言った。
新たな都に着いたばかりで、皎月はかなり立派な都だと感心しつつ、あちこちを見回しているところだったため、若藻が自分に言ったのだと理解するのに時間が要った。暫くしてから、漸く振り返る。
「……………………む、何て?」
「お前は御上りさんか、きょろきょろすんな」
物珍しく辺りを見回していた皎月の頭をがっちりと掴んで目を合わせると、若藻は口を尖らしつつ、もう一度言った。
「此処等で御別れだと言ったんだよ。聞いてるか?」
聞いてる、と褪せた色の髪の少女は、自分の首に巻いた赤いスカーフを弄りながら、頷く。対面に立つ長い黒髪の美女を、往来の人々が目を皿にし振り返り見ているのを少し気にしながら、尚も頬を挟んで力を込めてくる手を払う。
「お前なら、きっと大妖怪に成れるだろう。私が教えなくても、構うまい」
「言葉を立てる様で悪いが、貴様が己に教えて呉れたのは、“貴様が暴れる時は邪魔に成らぬ場所で凝っとしている事”、“実力に差の有る者には、固より関わり成らない方が良い事”位な物だが」
「良かったじゃないか、其れ丈分かれば」
最早何も言うまい、と皎月は息を吐いた。この狐が自分勝手、というよりは、妖怪など皆自分勝手なものだ。それが身に滲みただけ、良しとしよう。そして自分はもう少しマシな生き方をしよう。と心に決めた皎月であった。
実際若藻は、師事と言うほどの物はしていない。彼女の側に暫くいた皎月が、勝手に彼女の生き方を見てどうこう思っただけだ。勿論、若藻に皎月に何かを教えようと気があったかは、皎月には分からない。だが、若藻は端々で、只の行きずりの同行者を気遣ってくれていた。それで十分なのかもしれない。
猫好きの狐はしかめつらをする小さな虎の頭を数度叩いて、笑った。
「女の子なんだから、物言いはもう少し砕けてる方が好いぞ。次会うまでには、な」
じゃあな李虎よ、と片手を挙げ、若藻は夕暮れの雑踏の中に消えた。皎月が留める間もなく、あっさりと。
「…………むぅ」
どうやら自分は一人になったらしい。虎は再確認して、さてどうしたらいいだろうと少し困った。自分のしたいようにしていいのだろう。国に帰ってもいいし、また今まで通り虎として生きてもいい。
いや、と頭を振って、皎月はその意見を却下する。今更、あんな人達に会って、自分への疑問を抱えたまま、昔のように生きるのは不可能だ。例え変化が少しでも、生き方は変えねばなるまい。
「…………然だな、もう少し此の国を見て回るとしよう」
呟いて、虎は気楽に肩を竦めて、行き交う人々を何とはなしに眺める。新たな都でも、以前と大した変わり無く、人々は日々を過ごしている。
…………別に何処に居ようが、変わりはしないだろう。己は己でしか、有り得ないのだから。
そうして、小さな虎もまた、狐の後を追うように、往来の雑踏の中に消えた。後には誰も残らなかった。
扨、おれはまた一人に成ったが、それは別に特別な意味は含まない事だ。所詮行きずりの道連れであり、それ丈の縁でしか無い。次に何処で会おうが、関係は無く、旧い知り合い丈が段々と増えていくのみだ。
…………と、おれはその時は然考えて居たのだが、縁と言うのは中々切れる物じゃあ無いらしい。今に語った四名、共々に再開の縁が有った。結果として、全員と再開を果たす訳だが、まあその話は置いて置こう。
所で、君は一体如何したら機嫌が直るんだい? 抑々如何して機嫌を損ねて居るんだ? 話、面白く無かった?
…………否、おれが行く事にしたのは別の理由からだ。何度も言ってるじゃないか、最早此処には留まれぬと。問答は要らないよ、もう決めた事だ。君が何と言ようと、覆さないよ。
然し、だ。
先に述べる通り自分は千年を生きる大妖怪だが、今に話した中で経ったのはほんの四十年位だ。この儘では月が沈む迄に語り終えられない。不可不能だ。
少し巻きを入れようか。うん、急ごう。
時は平安、狐とも別れた虎はその日暮らしの根なし草にふらふらとほっつき歩いていた。商売みたいな事をしてみたり、人間や妖怪の友達と呑み交わしたりして、日がな過ごしていた。ぼんやりと、自分に疑問を持った事すら忘れそうに、極平穏に。まあ、中には、平穏とは言えない様な事件も幾つか有ったが。
そんな生活は五百年近く続く。でも話は未だ其処迄行かない。虎は日々暮らし乍に沢山の人と会い、でも殆ど何事かを成し得ようと言う気も無い儘に、時間丈を重ねていった。
只の虎は、特に考え無く、只生きていた丈だからね。
扨、虎は以前に鼬の言っていた、怪しい仙人と言うのに出逢った。
然しそれは、将来随分と苦い思い出に成る物だったんだ。
〉何で短編集?
さあ、何ででしょう。
さて、漸く平安時代に入りました。ここまでが無駄に長かった。長かったよー。
週一更新を目指していたんだけど、どんどん長くなっていく文章に四苦八苦。
半分に別ければよかったんだよ。あと壱里ちゃんの話とか入れなきゃ良かったんだよ。
っていうか、藍さまのスペック高過ぎじゃね? チート乙。
しかもさっき気が付いたけど、白面九尾の狐は二千歳をゆうに超えてるよね。良く考えるとバb(r
そして妹紅たんと船長乙。
ここで重大通達。
…………妖々夢メンバーの出演は期待しないでね。少なくとも暫くは。
話の都合上、直接に幽々子様と関わるのを諦めました、ええ。
よって妖夢とかも出てきません、ええ。
その代わり永遠亭メンバーは後で出てきます。紅魔館メンバーは未だ産まれてすらないので論外ですが。
それと、風神録メンバーも、神様組みは殆ど出る予定無いです、ぶっちゃけ敵みたいなもんですし。天狗と河童は別売りね。
えー、では、
次回からは東方純度を上げてお送りしたいと思います。
以下、言い訳とか。
今回出てきた鼬の姉妹はお察しの通り、オリキャラです。
次女である壱里ちゃんは以前に考えていたオリキャラ東方の主人公でもあります。今は只の脇役ですが。
何せ性格がかなり軽いし、話として成立しなさそうなので、脇役に格下げと相成りました。
ちなみに姉妹の名前は、上から順に、千理、壱里、海厘、です。どうでもいいっすね。鎌鼬の三姉妹です。ありがちですね。
皎月とは違う立ち位置からの話を中心に展開させよう、という魂胆で今回出演決定。正直要らない子な気がした。
これからも皎月と絡む予定、予定。予定は未定。
そして“因縁”に関しては、既に分かってしまった方も多いのでは? 真相は八百年以上後。