妲己、苗生(前編)
妲己、苗生
虎は知己を思い出し、船は出る
狐と言うのはあの国では馴染みの深い獣でね、昔から怪談と言えば狐と幽鬼が主役を張っている訳だ。後は道士とか龍とかかな。
怪し気な術を遣い、人を惑わせ、取り付いて、殺す。ずる賢く、酷い事をしても空知らぬ、そんな風に言われている。中には仁を尊び恩に報いる良い奴もいるんだが、人間は狐と見破ると謂れが無くても殺そうとして仕舞う。どちらが畜生何だか判らんがそれは兎角、狐の話だ。
先の話で、人間に化ける方を習ったと言ったがね、それは態々教えて貰いに行ったんだ。狐と言うのは兎やら犬やら何やらとは違い、妖術に長けているからね。
おれ達動物は長生きすりゃ、術が使えるように成ったり、まあ成らなかったりするんだが、早めに妖術が欲しくてね。否、人間に化けて街に行ってみたかったんだけど、とんと方法も分からなくてさ。だから狐を探したんだが、皆おれを見ると逃げて仕舞う。
突然自分を取って食う奴が藪から顔を出すんだ、まあ逃げられるのも道理かと思い、危害は加えないと言いつつも彼方此方を彷徨っていた。
西に狐の憑いた家が在ると聞けば行き、東に某の気が違ったと聞けば噂を辿り、南から冥界の判官が来ると聞けば逃げて、北で虎が狩られたと聞けば無言でこれを悼んだ。
然して居る内に安禄山が首都の長安を占領したと聞き、又籠城しているようであると聞き、彼の者の横暴を聞いた。
おれはこれを聞いて、奇異に感じた。安禄山なら、既に死んで、又新しく皇帝が就いている筈だ。如何して未だ彼奴が生きているのかと疑問に思い、次いで如何してそれを疑問に思ったのかと疑問に思い、それから何だか分かんなく為って考えるを止めた。
思えば、彼は、未だに名が思い出せないが、袁は“李徴子と別れたのは十年程前の事だ”と言っていた。時の皇帝は玄宗、楊貴妃に惑され国が傾いた。李白が諫めたのに聞かず、只最愛に現を抜かし、最後にはその最愛すら亡くし、独り哀しく庭を眺めるのみ。
如何しておれはそんな事を知っているのか、記憶を無くしても矢張り知識は無くならないのか、為らばおれは何を無くしたのか…………。
意味分かんない? じゃあこの話は切り上げよう。おれも分かんないから。
…………否さ、君の言う通りだよ。待ってれば良いなら、待ってたら良いんだ。だが、ほら、自分は一体人間だったのだろうかと疑問を深めていた時期だったから、如何しても街に行ってみたかったんだ。如何しても、ね。
実際、人間に化ける方を習った後に街に行って、それで自分は人間だったに違いあるまいと確信するに至る訳だ。
…………手厳しいな、だがそれを論じても答えは出ないだろ、何が本当か何て誰にも判らないんだから。どんな問いだって、論理的に正しい事が常に真理だとは限らない、正義何て物が定義不可能なのと同じように。
ん、違う? 然じゃなくて?
……………………あー、うん、把握。
じゃあ訊くけど、君…………の姉が、姉が外に出る時は如何して、…………知る訳無いって、又そんな事を言う。行き場無いからっていじけたって良い事無いぜ。
ふむ、君には余り縁の無い話だったか。虎の姿の儘、街に行ったり何かしたら大騒動に成るよ、当たり前だろ。兵隊が来るって、だって腐ってもおれは泣く子も地頭も咬み殺す、天下の虎様だぜ? 絶対的に敵視されざるを得ない、狐に次ぐ、否、凌ぐ程の猛獣だ。そんなのが街にやって来たら普通は矢と刀で以てもてなされるに決まってる。虎とは然言うものなんだ。
話を続ける。
誰も彼も虎と見ると脇目も振らずに逃げ出し、ないしは武器を振り上げ、やりきれない気分に為っていた頃、或夜半に行き会った女仙人、確か武の娘だと名乗ったか、何やら呟きながら歩いていた。
『やっぱこっちは詰まんないわね、帰って来た意味本当に無い』
薄青の髪をした仙女の出で立ちの者が、如何してこんな所に居るのか訝って、良く見ると、釵の代わりに小さな鑿を挿している。不思議そうなおれを見ると、俄に愉快そうに笑い出した。
『あなた何をしてるの。虎がうろうろとして、狩人に見付かっても知りませんわよ』
そこでおれが妖術を習いたいので師を探している旨を伝えると、仙人がにやにやと笑いながら遠くを指差して言う事には、
『向こうに暫く行けば肝の座った狐に会えますよ。まあ、師として如何なのかは知らないけどね、逃げられはしないでしょう』
礼を述べて立ち去ろうとすると呼び止められて、弟子に成らないかと誘われたが、当たり前だが仙人に成る心算も不老不死にも興味は無いと断り、それで言われた通りの方角に向かった。
言われた通りにずっと進んだら、まあ長安の近く迄来てしまった。おれはその時首都を遠く離れて肅、今で言う甘肅州の玉門の辺りかな、其処に居たから、えっと一里が大体五百六十メートルで彼処から長安迄は、えっと七百、否八百キロかな? 一里は約四キロじゃないかって、それは日本単位だろ、何で君が知ってるの? 本で読んだ? へぇ。
一気に駆けたから流石に疲れてね、木陰に臥せて休む事にした。序でにお腹も減ったから、側の木に生っていた何かの果物をかじりながら、うつらうつらとしていた。 首都近く迄来たとは言え、未だ郊外だから人通りは無い。村の灯も無く、辺りは風の音丈が聞こえる、静かな場所だ。
と、痩せた月の照らす森の中、自分の毛皮とは違う、金色の輝きが視界に入った。驚いて目を凝らすと、果たしてそれは狐だった。
細く痩せた月が森を照らす。人の住む村から遥か遠く、鳥の啼く声が響いているだけで、他には風の音と虫の声以外には何も聞こえない。
虎が伏せている木から少し離れた所に、彼女はいた。絶世の美女、それこそ古風に言えば、国を傾けるに足る、それ程の美女だ。
眉目秀麗、線の細い輪郭は凛としつつも柔らかく、まさに美女が美女である、誰もが美しいと思うだろう。鋭く絞られた瞳は冷たいという印象を与えるが、実に気だるそうな様子がその印象を弱めている。
スタイルも良く、遠目からでもそれと分かる。虎は、成る程、美人さんだと頷き、体を少し起こした。
その美女、まあただ者ではない。
と、言うかこの美女、人間ではない。
長めに伸ばした髪はアジア圏では中々見られぬ金色をしていて、細められた瞳は濃い碧だ。更にはお尻からは惜し気もなく顕にした尻尾がわさわさと揺れて、己の存在を誇示している。
狐だ。無防備にも気を抜いて、のんびりと森の中を歩いている。綺麗な毛並みが僅かな月明かりを受けてきらきらと輝いた。
数えてみるとその尾の数、何と九つもある。これには虎も驚いた。
元来中国では、部位を普通より多く持っているのは他の者より優れている、という考えがある。だから猫又は尾が二つに裂け、奇形は重宝がられる。ここで言う奇形というのは、背中から毛が生えてるとか、翼があるとか、足が一本多い(だから速く走れる)とか、かなり良い意味に加味しているので悪しからず。
つまり、この美女は相当な実力者である、ということなのだ。仙狐にはなっているのか分からないのだが、ともあれ、ただの虎くらいなら歯牙にもかけぬだろう。
成る程成る程、あの仙人、中々面倒な奴に逢わせるな。然しおれは臆したり等しない、堂々と声を掛けてやろう。
虎は心中そのように思いながら、軽く伸びをして、こちらも全く無防備に、無警戒にその美女に近付いていった。
「……………………む?」
驚かせないように遠くからわざわざ姿を見せて、前から歩いて行ったのに、美女はかなり近付くまで無反応だった。鈍いのか、それとも考え事でもしていたのか。
若干小柄な、若そうに見える虎が目を輝かせ、赤い大きなスカーフを揺らし、てけてけと歩いて来るのを見ると、流石に注意を引かれたのか、狐はどうでもよさげな目付きを改めて、少しは意識を入れてしゃんと立った。そして虎が近くに来るのを待って、威圧的に言った。
「虎如きが何用だ。無用に側に寄った訳では無いだろうが、疾く立ち去れ」
こいつ何様だ、と虎は思った。だがよく考えると、高圧的にも為らざるを得ないってものだ。虎はちよっと考えて、一つ頷く。
「ニャー」
「……………………っく、お前卑怯だぞっ! 私が猫好きなの知ってるのか!?」
効果は抜群だ!
何やら苦しそうな顔で悶える狐。勝ち誇ったように鼻を鳴らす虎。
ともあれ、虎は狐の前にお座りの格好で座ると、頭を心持ち低く下げる。
「一つ問いたい。貴様、噂に聞く白面九尾の狐か?」
虎の言葉に狐は顔をしかめて、億劫そうに唸った。正体が知られたことには大した反応も見せず、面倒だと言わんばかりに欠伸をしてみせる。
白面金毛の九尾。
中国、殷代の末王の后、妲己は王を唆し、酒池肉林でひゃっはーだった。無実の民を炮烙の刑にかけてそれを笑って観賞したり、暴政をしたために、殷は周の武王等に討たれ、代は周に移る訳だ。
その妲己というのは、実は齢千を越える九尾の狐であり、その後の周代の幽王の后も、彼の狐だったと聞く。後何年も噂を聞かないので、どこかで野垂れ死んだのではないか、というのが獣での間での、専らの意見だった。
しかし今、虎の前には絶世の美女にして金毛の九尾の狐がいる。噂は所詮、噂でしかない、ということなのか。
…………この虎、いつから話せるようになったのだ、等と思ってはいけない。虎は人間の言葉を理解していたが、動物の声帯では勿論人語を操れはしない。当たり前である。
ではどうやって話しているのかと言うと、ある程度以上の知能を持つ獣が使う、言葉と言うより、ジェスチャーに近い物で意志の疎通をはかっている。大体の意味はそれで通じるのだ。あまり深く考えてはいけない。
虎は言った。喋った訳では無い。
「まあ、其れは如何でも良いのだが」
「えっ…………」
どうでもいいなんて言われてしまった狐は何故か寂しそうな顔をした。先程までの何もかも興味無いです的態度から一変、歳に似合わない子供じみた哀れっぽさで虎を見る。
どことなく期待を裏切られたと言いたそうな顔をしている狐を見て、成る程、事情を聞いて欲しかったのか、と虎は思い、ちゃんと聞いてやることにした。
「ふむ、では貴女が其の昔に国を傾けた理由を…………」
「誰がお前何かに話すか!」
「…………本題に入ろう」
「むぅ」
この狐、構って欲しいのだろう。かなり豪奢な着物の端を押さえてその場に座って、虎と正面から目を合わせる。沢山の尻尾がわさわさとしていて、座り心地がよさそうだなと虎は思った。
「今日は貴様に頼み事が有って、会いに来たのだが」
「頼み事か、聞いてやらない事も無い。然し、良く私の居場所が分かったな」
「否知らん、通りすがりの仙女に聞いた。其れに、貴殿の居場所を聞いた訳では無い」
「…………詰まり私を訪ねて来た訳では無いんだな」
「…………まあ、悄気るな」
「悄気て何かないんだからなっ!」
二千年近く生きている割には、狐は所謂老いた様子もなく、逆に言うと虎より落ち着きが無い。矯とした物腰とは裏腹に、先程まで大儀そうに半分閉じられていた瞳をぱっちりと開いて、子供みたいに拗ねている。
妖獣というのは往々にして精神的に幼かったり、逆に見た目相応だったりするが、この狐はどうにも無邪気な性格をしているようだ。いや、邪気が無いというのはかなり違う。無いのは思いやりとか、想像力とか、そういったものだ。人を惨い刑にかけて、それを笑って見てる何て、普通じゃない。
おれの知ったことではないがな、虎は心中呟く。狐がどんな性格をしていようと、所詮獣の成り上がり、虎も狐も大した違いは有るまい。
「ちっ、速く用件とやらを言いなよ。天下の虎が、狐に何の用さ」
促されて、虎は一つ頷く。
「然だ、用と言うのは他でも無い。――――――――人間に化ける術を教えて呉れ」
ほう、と感嘆とも皮肉とも付かない声を洩らして、狐は目の前の虎を改めて見る。それこそ奇妙な頼み事だ、歳を重ねるなり何なりすれば、人に化ける術など直ぐに手に入るだろうに。
虎は濃い金色に輝く瞳を凛と開き、自分を見詰める狐を臆することなく見つめ返す。毛皮や、その瞳の色からして、この虎はまだ若いのだろうと推測して、狐は考え込んだ。
「人に化ける術、ね。…………言わんとする事は無論分かるな?」
「歳を重ねれば如何の向き不向きが如何の、か?」
「分かってるなら今更言わんぞ。態々習う様な物でも無かろうに、如何して師事を仰ぐ?」
虎は少し考えて、諸事情でな、とだけ答えた。元々人間だった云々と事情を話すのも憚られたのだ。嘗めた態度を取ってはいても、相手は自分よりも遥かに長い年を生きている妖狐なのだ。
暫く考えて、狐はその碧の瞳で虎を見る。指を頤に当てて、ふむ、と一人ごちる。
「然だな、…………お前、歳は幾つだ」
「分からん」
「…………分からん? お前年月も数えられないのか?」
馬鹿にするなと虎は鼻を鳴らした。
「経書なら覚えてるぞ」
「意味無っ!」
「意味無く等無いだろ。…………意味無いか」
ともあれ、虎が自分の歳も分からぬと言うのは無理ない。十年は生きているのは分かるが、しかし覚えていない所まで数えるのはどうにも違うような気がする。
…………おれ、自分の誕生日も知らないんだな。虎は少し思ったが、直ぐに気にしない事にした。
「歳何て如何でも良いだろ」
「然もいかないが、…………まあ良いか」
狐は考えを纏めたのか、一つ手を打つと座る虎を指差した。すらりと細い指が真直ぐに虎の眉間を指し、所謂古風な奇談ならそこで意識が遠のいてもいいようなシチュエーションである。
狐は言う。
「教えてやっても良い。上手く出来るかは分からんが、条件は二つだ。
一つ、河南省の外れに張と言う家が有って其処には腹違いの兄弟が居る。其の弟が大変兄想いな善人で、兄が柴を刈るのを手伝って居る。明日、兄弟達が仕事を始めたら、弟が一匹の虎に連れて行って仕舞うだろうから、其の虎を追い掛けて無駄な事はするなと言ってやれ。其の子供を連れて行っても、胡氏はお前に何もして呉れぬだろうと伝えろ。
一つ、其れが終わって又夜に成ったら、此処に来い。酒盛に付き合え」
奇妙な条件に、虎は首を傾げる。よく分からないが、同族が子供を拐うのを止めれば良いらしい。胡というのは誰だろうか、狐だろうか。後半の酒盛に付き合えというのは全く分からんが。
「…………良いだろう。拐って来い等と言われたら断固やらんが、其れを止めるなら未だ良い。然し事情が分からんな」
「聞きたいのか? 良く有る親愛厚い兄弟の話だぞ?」
「然も不幸でお涙頂戴、然だろう?」
「ああ、良く有る話さ」
虎は一度月を仰いだ。
その狐が本当に白面金毛の九尾だったのかって? はん、君面白い所に疑問持つね。…………又本かよ、本に頼り限な知識は良く無いぜ、分かってるなら良いけど。に、しても良くそんな本が有ったな。
だがね、世の中には千年以上を生きる妖獣と言うのは、先ずそんなに居る訳じゃ無いんだよ。…………おれ? あー、うん、置いといて、話を聞く限りじゃあ、確かに本物らしいがね。同じ位長く生きている狐が他に居るとも考えられないし、抑々あんなに生きていて仙狐に成っていない奇特な奴何て中々居るものじゃない、と思いたいね。
何れにせよ、そんな事に興味は無かった。だって結果として人間に化けられるように成れば、それで良かったから。
そして、おれは狐に言われた通りに、張家の所に行き、近くの森で一晩過ごした。正直、走り通しで疲れたから、取り敢えず寝て、昼には起きられるようにした。
…………えっと、話を続ける前に、一つ良いかい? 只の懺悔なんだけど。
君が相手だから、白状しよう。君だから、敢えて言おう。
おれは妖術を習いたいが故に、その師として狐を探していたと言ったが、…………おれはその“教えて貰う”等と言う選択肢を思い付く迄に、相当な思考の紆余曲折を経たのだ。先ず、思い付く、そんな考えは頭に毛頭無かったのだ。只己の力で、己丈で、如何するかを考えて許いたのだ。
驚いたよ。驚いたさ。何だ、おれは彼が話してくれた人間その者じゃないか。他人と打ち解けようとせず、終始関わりを絶っていた“李徴”と、それは何が違うのだ。傲慢で高慢な人間と、何が違うのだ。
…………然言ってくれるのは嬉しいが、否事実だ。おれが如何しようも無い奴だと言うのは、皆事実なのだ。教えを乞う事を思い付かなかった許では無い、おれに師事してくれる者等居るものかと、半ば諦めたような投げ遣りな気持ちでいたのだ。
全く、何て傲慢だろう。世に聞く大罪とは斯くも非道い物なのか。喩え異類の身と成ったとしても、その心の変わる事は無いのだろうか。否それとも、おれの心がこの身に違わないようなものだったから、果たしてこのような獣に成り下がったのだろうか。
一向に分からん。おれが以前の自分を思い出して仕舞わなければ、この疑問は晴れないのだろう。然し、思い出す意味は本当に有るのだろうか。おれがおれで有る事に変わり無いのだから、そんな過去は忘れて仕舞っていた方が幸せってものじゃないか。
…………分かった、もう愚痴のような事は言わないから尻尾を引っ張って催促するのは止してくれ。
…………違うなら何で尻尾を引くんだよ。にやにやと笑って、君は何がしたいんだ、え? おれが困ってるのがそんなに面白いのか、意地悪め。…………あー、もう良いもう良い。
話を続けるぞ。
長くなりそうだったのでとりあえずここで一度切りました、
後編に続く。
元ネタの話は後編の方で。
鑿じゃないのかって? 本当は鋤の筈だぜ。
追記
2012/6/23
原文を読んだら鑿だった。俺乙。