キャロット・ラペ
入り口の開き戸がカラリと鳴った。
「こんはんはー」
「おお、エッちゃん。毎日ご苦労様」
「ありがとう源さん」
「また来たのかよ」
「……あんたはもう少し愛想良くならないの?」
店主が悦子の前におしぼりを出す。
「ご注文は?」
「グラスビール」
「他には」
「お通しだけで」
やれやれ、と店主がビールサーバーに向かう。
「エッちゃん、この店の客が少なくて寂しいとよ。たまには彼氏でも連れてきてやれや」
ロクの遠慮ない物言いに、店主が視線を会話の主に向ける。
「えー、彼氏いませんしー」悦子が苦笑いで返す。
「なんじゃ、そんなに可愛いのに彼氏もいないのかい」
「……ロクさん。それ、セクハラですよ」
彼女がジト目でロクを睨む。店主が見かねたのか、口を挟む。
「ロクさん。悪いがあんまり際どい発言はやめてくれ。あんたらが現役だったころとは時代が違うんだよ」
「なんじゃい、堅苦しいのぅ」
「まあまあ、ロクさん。ルールを守って楽しく飲もう! ね?」
悦子が空気が悪くなりかけた雰囲気を取りなした。店主がぶっきらぼうに言う。
「そうそう。セクハラしたけりゃそういう店に行ってくれ」
「なんじゃい、そういう店ってのは。ワシはもうそんな色気のある店には要はないぞ」
「あっそ」
「……あんたね、もうちょっと空気読みなよ。せっかくあたしが大人の対応したってのに」
「へいへい。できる女はすごいよな。ほれ、お通しとビールお待ち」
店主が悦子の前にビールと小鉢を置く。
「……これ」
「キャロット・ラペ。いわゆるニンジンのサラダ」
小鉢の中には細切りになったニンジンが色鮮やかに盛り付けられていた。上にはパセリなのか、刻まれた少量の緑の葉が彩りを添えている。
「……あたしがニンジン苦手なの知ってて、どうしてお通しにニンジンを選ぶかなー」
「おや、大人の対応ができる奴なのに、ニンジンが苦手とは」
「ほかのお通しはないの?」
「今日のはそれだけ」
くっ、と悦子は涙目になる。
「食えないなら残してもいいぞ」
「食べるわよ。食べなくてもお通し代を取るんでしょ」
「当たり前だ。お通しとはそういうものだ」
「この守銭奴め!」
悦子は割り箸を割ると、それでも「いただきます」と行儀良く箸でつまんで、渋々ニンジンを口に運ぶ。
「……これ」
「どうだ?」
「美味しい……ちょっとニンニクの風味がして、ニンジン臭くない」
「ニンニクとオレンジジュースを入れたドレッシングで和えてあるんだよ」
「へえー。ニンジンとオレンジジュースなんて、合うんだー」
「野菜ジュースも少し果汁入れると飲みやすくなるだろ。あれとおんなじだ」
老人二人はその様子を見て、感心する。
「エッちゃんの苦手なものも食わせるようにできるなんてな」
「さすがだな」
「愛かな」
「愛だな」
「ちょっと! 何変なこと言ってるんですか! セクハラは……」
悦子が顔を真っ赤にして怒る。老人たちはニヤニヤ笑う。
「別にあんたが大将を愛してるとは言ってねえよ?」
「大将の、料理への愛を感じるって言ったんだよ」
悦子がうぐ、と口ごもり、財布から千円札を引き抜いた。店主があらかじめ用意しておいた小銭を受け取ると、席を立つ。
「ご、ごちそうさまっ!」
「おう、こっちもごちそうさま」
悦子は年寄りを睨むと、そそくさと店を去った。
「いやー、若いってのいいねー」
「エッちゃんがフリーってのがわかったぞ、大将。感謝しろよ」
「俺には関係ないし」
「またまた」
「気になってたくせに」
「……あんまり若い女をからかわないでくれよ」
「いや、その」
「つい、な」
「最近の女の子は職場では、ああいうのは言われ慣れてないからさ」
源は苦笑いして謝った。
「すまんな、気をつけるわ」
「酒癖も程々にな」
「でもニンジンのサラダ。エッちゃんがニンジンが苦手って知ってて作ったんだろ」
「……」
「苦手なもんでも美味しく食わせたい。美味しさを知ってもらいたい。それってやっぱり愛だろうが」
「……出入り禁止にすんぞ、クソジジイども」
「ははは。出入り禁止は勘弁な」
「大将、熱燗お代わり」
「今日はもうお終いだ。飲み過ぎだよ」
「そんな殺生な」
「うちじゃババアが飲ませてくれねえんだからさ」
「……しょうがねえなぁ」
店主は徳利に酒を注ぎ、燗酒を付けた。
うちではセラミック製の細切りスライサーを使ってキャロット・ラペを作っています。