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魚河岸揚げ

 土曜日にはいつも、スナックのチイママをしているという花子が来店する。

 その日も早いうちから店に来ていて、客たちに愛想を振りまいていた。


「ハナちゃん、こっち来て一緒に飲もうよ」

「えー、あたしお酒は強くないからカウンターでいいよ」

「そんなこと言わないでさ」

「じゃあそこの卵焼き一切れくれたら、一杯だけお酌してあげる」


 そう言いながら他の客の肴をつまみ、この店の味を覚えていく。その様子を呆れながら見ていた店主は、客を窘める。


「お客さん、花子さんにエサあげてこの店から盗むものなくなったら、もう来てくれなくなりますよ」

「そうか、あんまり甘やかしちゃならねえな」

「ちょっと大将、エサなんてあんまりじゃない」


 花子は笑いながら文句を言う。


「食べたいものがあったら自分で注文しなよ」

「だってぇ。そんなことしてたらお腹がいっぱいになっちゃう」


 そんな会話をしていたら佳枝が来店した。


「こんばんわ、マスター」

「いらっしゃい。早いっすね」


 佳枝は経営しているギャラリーの閉店時間が遅いので、大抵は夜八時以降にやってくる。こんなに早くに顔を出したのは初めてだった。

 カウンターに座る女同士、花子と軽い会釈をする。


「土曜日は店を早く閉めているのよ」

「なるほどね」

「お、佳枝ちゃんが来てくれたな」

「これでエッちゃんが来たらこの店の三大美女がそろうのに」

「いやあね、ロクさん。美女だなんて」


 花子は照れつつも笑った。美人の自覚があるらしい。 


「……別にあいつは美女じゃねえだろ」

「いやいや。こんなしょぼい店に来てくれるだけで充分に美女の資格がある」

「……ちょっと。なんとなく聞き捨てならないことが耳に入ったような気がするんだけど」


佳枝は三十半ばなのだが、年齢相応の身だしなみを身につけており、ルックスも良い方だ。もちろんその美しさは彼女の画廊経営という職掌上、洗練された所作のせいもある。


「私はお店にかかわらず、充分美しいわよ」

「あー、そうでしたそうでした」

「マスター。そのエッちゃんっていう人、音信不通なの?」

「ああ、いや。そうだな。メッセもしてないしな」

「そう……いいなって思う人がいたら、ちゃんと捕まえておくものよ」


 佳枝はなんとなく遠くを見る目で言った。

 

「そんなんじゃねえっすよ」


 この手の話題が苦手な店主は、さりげなく話題を逸らした。


「ところで今日は絵の売り込みはしないんですか?」

「なに、買う気になったの?」

「いえ、いつも無駄に仕事熱心なので、今日はどうしたのかと」


 そんな会話をしていたとき、入り口の開き戸がカラリと開いた。


「よう、俊ちゃん」

「あれ……親父さん」

「カウンター、いいかな」

「ええ、どうぞ」


 店主は今来た客におしぼりを出す。


「珍しい……いや初めてですか。この時間帯に来てここに座るのは」

「今日は配達も早く終わって、店の方も売り切れちまったんで、あんたのところに来てみたわ」

「へえ。商売繁盛でよかったすね」


 なんとなく聞き耳を立てている常連たちに、店主は簡単に紹介してやる。


「こちら、うちに豆腐を卸してくれている杉浦豆腐店の店長さん」

「え、ということは」

「エッちゃんのお父さんかい?」


 老人たちが少し驚いた声を上げる。

 

「え、ああ。いつも娘がここで世話になってまして」

「ああ、いや。最近顔を見せないからどうしたかなーと思ってね」


 店主が注文を聞く。

 

「飲み物は?」

「ああ、冷酒をもらおうか」


 店主は日本酒用冷蔵庫から冷酒用の酒を取り出す。


「娘は来ているか」

「え、いえ。最近は全然ですね」


 ここ一月近く悦子の来店はない。もうここに通うのを止めたのだろうとなんとなく店主も寂しく思っていたが、その感情が表に出ないよう努めて平静に振る舞っていた。


「会社をね、辞めることになりそうなんだ」

「そうですか」

「聞いてたかい?」

「いえ。ただ前の会社の上司が、ここに来て悦子……さんの状況を教えてくれましたので」

「そっか」

「へいおまち。冷酒です」


 杉浦は冷酒のグラスをじっと見つめる。

 

「せっかく主任になれそうだと張り切っていたのにな。一頃すごく落ち込んでてな。見てられなかったわ」

「そうですか」


 店主としても言葉を返しようがない。


「それでな、彼氏ができたらしいんだ」

「……へえ」


 カウンターの辺りが静まりかえった気がした。


「まあ、その彼と仲良くやれているから、まだ元気な方なのかもしれないがな」

「……よかったじゃないですか」

「たぶん、結婚することになるだろう」

「そりゃよかった」

「すまんな俊ちゃん」

「……何が?」

「俺が反対したから、悦子と付き合わなかったんだろ」

「……親父さんは関係ないですよ」

「上司をぶん殴るような後先考えない奴を卸先になんて、あの当時はとんでもねえと思ってな。それが悦子と同じ部署で同期だもんな。親としてつい用心しちまってな」


「そっか。親父さんから反対されてたのか」


 源がぼそりと呟く。


「俺としては美味い豆腐を仕入れさせてもらってるだけで、充分感謝ですよ。あんたの娘まで仕入れるつもりはねえし」

「そう言われると腹が立つがな」杉浦は言葉とは裏腹に、ホッとした様子で答えた。


 店主は杉浦の前にお通しを出す。


「へい、お通しお待ち」

「……おいおい、豆腐屋に他の店で買ってきたがんもどきを出すのかよ」


 杉浦は呆れる。目の前のがんもどきは自分の店が仕込んだものではない。この店には豆腐とおからと厚揚げしか卸してないのだ。


「まあ食ってみてくれ」

「やれやれ。こんな形で仕返したぁね。あんたはいつまでも大人げが……あ」


 がんもどきを口に入れて気が付く。


「これ、がんもじゃなくて」

「そう。親父さんの豆腐で作った魚河岸揚げ」

「……そうか」

「どこぞのお嬢様がこの店のお通しが貧弱だとクレームつけるから、いろいろと試してこんなもんまで作る羽目に」

「すまんな」


 杉浦が苦笑した。この店のお通しのことは悦子から聞いているのだろう。


「まあといってもそいつは試作品でね。手間とコストが合わないから、お客に出すのは止めたのさ。で、お通しに流用したってわけ」

「いろいろと工夫しているんだな」

「ああ。ひとつのところに留まってたら、商売は続かねぇからな」


 やがて杉浦はぽつりと言った。


「医者なんだ」

「え?」

「悦子が付き合っている彼氏ってのは、医者なんだよ」

「へえ。いいじゃないですか。高収入なんでしょ」

「詳しい年収は聞いてないけど、まあそうなんだろうけどな」


 少し躊躇った後に、店主に語る。


「勤務医をしているけど、実家も個人病院をしているんだ」

「ほう、将来は院長夫人かい」


 ちょっぴりチクリと刺さる感情を押し殺して、感心したように店主が答えた。

 

「いや」疲れた父親は、少し苦い顔をして話を続ける。「彼氏には実家を継ぐつもりはないそうなんだ」

「え?」

「なあ、変な話だろ」


 個人病院をしている医師は、その跡目は子どもに継がせる。病院は設備投資がかなりの額になるために、その返済が長期に渡ることが多い。そのために子どもの意思にかかわらず、医者を継がせるケースがまず普通である。

 医者の息子が親の後を継がないというのは、相当に奇妙なことだ。


「親子関係が、よほど悪いとか……」

「いや、この間実家に招待されたらしい。仲は悪くなさそうだって言ってたわ」

「……奇妙な話っすね」

「そうだろ。変な話だろ」杉浦はため息を吐く。「なんかそんなところに娘を嫁にやるのかと思うと、ちょっと、なあ」


 そもそも個人病院経営者の子息が、しがない豆腐屋の一人娘と結婚するのも奇妙な話だ。医者ならもっと良い縁談はいくらでもありそうだ。

 

 杉浦は冷酒を飲みながら魚河岸揚げを味わった。


「ちゃんと丁寧な仕事をするようになったんだな」

「まあね」

「本当に、すまんな」

「何も謝られることはないよ」

「後悔しているんだよ」


 杉浦が零す。


「あんたをもっと早くに認めたら、こんな気分にならなかっただろうなってな」


 悦子のことが相当に気がかりなのだろう。


「物事の明るい面を見たらどうだい? 病院の院長夫人じゃなくても、幸せな家庭を築けばいいことだろ」

「そうだな」

「今日はたんと飲んでくれ」

「ああ」

「お通ししか頼まなかった娘の分までな」


 杉浦は笑顔になって「ああ、そうさせてらうよ」と言った。

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