鯖の南蛮漬け 2
「俺が社長宛に書いた意見書を止めたの、あれ課長……坂本さんでしょ」
「なんだ、バレてたのか」
「こっちがクビを覚悟で書いた意見書を、どうしてなかったことにしますかね」
「あのなぁ。王様ってのは不愉快な報告をしてくる部下のクビを斬るもんだ。あれはお前を守るためにやったんだぞ。俺の思いやりに感謝しろや」
「まあ結果的に無駄な思いやりになりましたけどね」
「どのみちお前がどう意見しようと、平の意見と部長の意見、どっちが受け入れられるか結果は見えてただろ」
「だからって握りつぶさなくても」
「いや、あれ役に立ったぞ」
「は?」
「イトカワがライバル会社に身売りすることになった時に、実はこんな意見があったのを部長が葬ってましたって専務に渡しておいた」
「……おい」
「おかげであの件は部長の失策のせいだってことが決定的になったわ。いやーあの意見書、役に立ってくれたわ。下手すりゃ俺が泥をかぶるところだったから」
「マジ最低だな」
「そう言うな。会社はこれから大変なんだ。希望退職者を募っているからな」
「……そんなに大変なんすか」
「ああ」
店主は少し考えて先に用意したお通しを出すのをやめ、別の料理を小鉢に盛る。
「へい、お通しお待ち」
「これは?」
「鯖の南蛮漬けです」
「へえ……鯖ね」
坂本は箸で摘まんで口に入れる。
「美味いな」
「そりゃどうも」
「もっと素直に喜べよ。せっかく褒めているんだから」
「あんたに褒められると大抵ろくなことにならなかったもんで」
坂本はひとつ息を吐くと「俺もその希望退職の応募を受けることにしたんだ」と問わず語りに語り始める。
「勘違いするなよ。イトカワの件がなくても、会社はそのつもりだったんだ。まだ体力のあるうちに人件費のかかる中高年を早急に何とかしなくてはと思っていたんだよ」
喋って口が渇いたのか、ビールで喉を湿らせる。
「ところがイトカワの件で来期以降の売上の見通しが悪くなってな。もう人減らしは待ったなしなんだ。それで俺もまだ条件のいいうちに応募に応じることにした」
「意外ですね、あんたは最後までしたたかに会社にしがみつくタイプだと思っていました」
「ひでえ言いようだ。元上司に」
「会社辞めても上司風吹かせる人に言われたくないですね」
「なあ……最近、杉浦君は来ているのか」
「……ここ最近来てないですね」
悦子は大抵は平日の夜に店に来て一杯だけ飲んで帰って行くが、ここ一週間以上来ていない。店主は風邪でも引いたかと思っていた。
「会社内でリストラ候補に挙げる社員を選別するんだけどな。俺も総務課員から何人か選んだんだよ」
「……杉浦もその候補に挙げたんすか」
店主の目が少し険しくなる。
「勘違いするな、俺だって仕事を熱心にやってくれる、課内のムードメーカーは残すべきだと考えていた。だがなぁ」
坂本がビールを一口飲み、少し話が途切れる。
「お前も知っての通り、総務は得意先の縁戚とか、結構コネの人材を受け入れているだろ」
「……」
「俺が推薦しなくても、結果的に彼女が選ばれることになると思ってな。杉浦君にこの話を受けるかどうか考えておけ、と言っておいたんだ」
「いやだって、まだあいつは若いし」
「そうは言っても、そろそろ中堅だ。若いほど転職に有利だからな。これでも親心みたいなもんなんだぜ」
そう言うと、坂本は小鉢の料理を平らげ「本当に美味いな」とため息を吐いた。
「お前にこんな料理の才があったなんてな」
「そりゃどうも」
「俺も他に手に職のつくようなことしておけば良かったわ」
そう言ってビールの残りを飲み干す。
「この歳になると、もう大してスキルも身に付かない。学歴も職歴も、中途半端だから再就職の役にも立たない」
「そうっすかね」
「そうさ」
店主は少し迷ってから、今坂本が食した料理について口にした。
「坂本さん。南蛮漬けっていうのは多少鮮度の落ちた魚でも、美味く食えるようにと考えらえられてる料理なんです」
「え?」
「粉を付けて高温の油でじっくり揚げて、調味液に浸す。小魚で作るのがよく知られてますよね」
「ああ。そうだな」
「まあうちでは昨日売れ残った魚を使って、前の晩に仕込んでますけどね」
「そうなんだな。でもこの味付け、すげえ美味いぞ。これは鮮度は関係ないだろ」
「それ、らっきょうを漬けたつけ汁の残りなんですよ」
「らっきょう?」
「そう。らっきょうのつけ汁は、南蛮漬けのマリネ液にぴったりなんです」
「……そっかぁ。多少鮮度が落ちても、残り物でも、美味く食えるってか」
「ま、あんたは社会の出がらしかもしれませんがね」
「……お前は昔っから一言多いんだよ」
坂本は席を立った。
「じゃあ俺も杉浦君に倣ってお通しだけで帰るとするわ。ごちそうさん」
「え、ちょっと。もっと飲んでって食べてってよ。金落としてくださいよ」
「いや、だって、俺は転職でこの先いろいろと物入りだし、大変だし」
「昔の部下をねぎらう気持ちはないのかよ」
「……ある分けねえだろ、お前みたいな奴」
「悪かったっすね」
「ああ、お前って奴は本当に可愛げがなくて、なのに血気だけは人一倍で、俺は余計な苦労をさせられた。だからここはごちそうになるってことでいいな」
「よかねえよ。金払っていけよ」
「なんだよ、杉浦君の近況を教えてやっただろ」
なるほど、会社員時代あまりウマの合わなかった二人だが、今夜はどうして坂本はここに来たのかと引っかかっていた。彼なりに悦子を心配し、そのことを店主に伝えに来たようだ。
「部下思いなんだな」
「知らなかったのか」
「初めて知った」
「じゃ、そういうことで」
「金払っていけ」
坂本はわざとらしく渋々と財布から金を抜き出し、嫌そうに店主に渡した。
「毎度。またのお越しを」
「二度と来るか、こんな店」
そして坂本は、振り向きざまに笑顔で「じゃあな」と別れを告げて去って行った。
◇
「人に歴史ありってことね」佳枝が坂本の去った後の席を見て呟く。「マスターがこんな熱い男だったなんて、全然知らなかったわ」
「大将ってずいぶんと向こう見ずな奴だったんだな」
「つうか上司を殴るかよ、普通」
「あら、ロマンチストじゃない。会社のために我が身をなげうって上役を諫める。なかなかできることじゃないわ」
店主は客たちの話を聞きながら、坂本のいた席の後片付けをする。
「しかしエッちゃん、心配だな」
「最近顔を見ないと思ったら」
「何、そのエッちゃんって。さっき話に出てきたマスターのいい人なの?」
佳枝と悦子はまだ顔を合わせたことはない。
「別に俺とあいつはそんな仲じゃないですよ」
「そうよね、彼女さんならこんなこと知らせてもらわなくても、とっくに相談されてるわよね」
「……大将に相談しないってことは、やっぱりエッちゃんのほうに気がねえのかな」
「いやそんなことはないだろう。大将が素っ気ないからもう見限ったとか」
「うるさいよ」
「ははは、マスター、おかわり。ジョニ黒のハイボール」
客たちの勝手な会話を聞き、店主は悦子のことを心配しながら、ほうじ茶の準備に取りかかった。




