【第三章 夏】(完結)
母さんが車から戻ってきて、三人で取り留めのない話をしていると、イベントの開催の時間はすぐにやって来た。
「えー、皆さんこんにちは。司会進行を務めさせていただきます花井まひると申します。本日はお暑い中お越しいただきまことにありがとうございます。……ていうか暑っ! いやーほんと暑いですよね今日は! 皆さん暑さ対策は万全でしょうか? 冷たいおしぼりをあちらに用意してありますので、まだの方はどうぞ手に取っていってください」
まひるちゃんがみんなを代表してマイク片手に軽快な喋りを披露する。兄と違ってやはりアコースティックギターがお気に入りだったようで、機械っ気のない焦げ茶色の愛器を肩からストラップで吊り下げていた。
「さて、知らない人たちのために、まずは我々のことについて簡単に説明したいと思います。我々はチャリティーバンド、『リンガディンドン』と申します。県内各地でたまにコンサートを開き、そこで得たお金を白石市立総合病院の方に寄付するという活動を行ってきました。何故かと言いますとですね、わたしたちのかけがえのない友人が、そこでずっと入院していたからなんです。彼女の容態が少しでもよくなってくれることを祈って我々の活動は行われてきたんです」
「……っ」
どきりとした。
思わず後ろを振り返る。
後ろにいた文香ちゃんが、聞いてなかったんですか? とやや呆れ顔で反応する。
伊角くんたちは高校を卒業後、各々の進路へと向かう傍ら、チャリティーバンドを組んで活動に励んでいたという話はもちろん聞いている。
でも、それがあたしの容態の回復にほんの少しでも寄与しようという狙いがあったなんて、まったく聞いていなかった。
……ああもう。
伊角くんたら。ずるいよ。そんなの聞かされたら、涙腺が緩んじゃうじゃん。
まひるちゃんのMCはなおも続く。
「彼女は交通事故に遭ってずっと昏睡状態になっていました。ゆうに五年もの間そんなふうになっていました。……ですが、そんな彼女はつい先日、なんと、奇跡的にも目覚めることとなりました!」
『うおー!』
何人かの観客がまひるちゃんに向けて喝采を送った。
「なので今回お届けするチャリティーコンサートは、病院側に対してありがとう、彼女に対してありがとう、そういう気持ちを込めてお届けいたします。彼女のことを知っている人も知らない人も、どうかみんなで盛り上がって、彼女の回復を祝ってくれたら、とっても嬉しいかなって思っていまーす!」
『イエーイ!』
『フゥー!』
『いいぞー!』
再度の喝采が起こる。おそらくは事情をあらかじめご存じだったこのバンドのファンの人たちだろう。中には「あの子だよな?」と車椅子のあたしに興味ありげな視線を送ってくる人もいた。ううむ、気恥ずかしい。
「だいぶ待たせちゃいましたし、彼女の紹介やメンバーの紹介は後にして、まずは早速一曲おっぱじめたいと思いまーす! みんなー! 準備はいいですかー!」
『イエーイ!』
景気のいい歓声を浴びた後、まひるちゃんはマイクを足下の充電器にぶすっと挿した。まひるちゃんを含めた西高の元軽音部のみんなが各々の楽器を構えて束の間の静寂に入る。マイクスタンドはどこにもなく、マイクを持っている者も誰もいない。あくまで生歌で勝負ということらしい。いいじゃないか。あたし好みだ。
訪れた束の間の静寂を断ち切るように、やがてまひるちゃんが声を張り上げた。
「ワーン! ツー! ワンツー!」
タンッ、タンッ。
止められないこの想い 光に繰り出していこう
君と描くこの未来なら 何も怖くはない
それぞれがそれぞれの楽器を一斉に鳴らしながら、それぞれがそれぞれの声を一心に響き渡らせていった。
それは、かつて伊角くんに話した、あたしが自分で作詞作曲した思い出深い曲だった。
そして、あたしが目覚めたときに、伊角くんに歌ってみせてくれと頼んだ曲でもあったのだ。
『FUTURE』
それがこの曲の名前だった。
二の足踏んでちゃ始まらない 慎重もいいけど
もっと高く飛び立てば 景色は見違えるさ
二人合わされば最強無敵 ほらお手を拝借
君とじゃなきゃ嫌なんだ うまくリードしてよね
ギターをかき鳴らしながらまひるちゃんが陽気な声で独唱し、かと思ったらベースの重低音を刻みながら町田くんが高らかに吠え叫ぶ。歌のバトンは続々と継がれていき、有栖川さんがキーボードを打鍵しながら涼やかな歌唱を披露し、そして川瀬さんがカホンとシンバルを打ち鳴らしながらキレのある美声を轟かせる。
彼らの演奏を聴いたことこそあっても、彼らの歌を聴くのはこれが初めてだった。見くびっていたつもりはなかったのだが、まさかここまでのものだったとは予想外だった。
もしかしたらこれは、伊角くんが関与していたのかもしれない。
あたしが教え込んだ歌の基礎を、今度は伊角くんが彼らに教え込んだ。
もしそうだとしたら、なんだかすごい、誇らしい気分だった。
変わりゆく街の中で 変わらないもの探してた
そして見つけたキラキラ夢 君にも分けてあげたいんだ
歌のバトンはレスポールを華麗に爪弾く花井くんへと渡された。その歌声は伸びやかで張りがあり、抜群の安定感がそこにはあった。ギターはともかく歌の方はいまいち苦手みたいなことを言っていたはずだが、なかなかどうして見事な歌声ではないか。きっとこの四年の間に必死で努力し続けてきたのだろう。部長としての面目躍如といったところか。
そしてBメロのトリを伊角くんが飾った。一人だけ楽器も何も持っていなかった伊角くんのことを、もしかしたら観客の誰もが何のためにあいつはいるんだみたいに思っていたのかもしれない。しかしそんな懸念は一瞬にして消し飛ばされたはずだ。ここまでの誰よりも、伊角くんの歌は上手かった。ピッチ、リズム、響き、情感、すべてがパーフェクトであたしは心臓を途端に鷲掴みにされた。あたりは馬鹿みたいに暑かったはずなのに全身から鳥肌がぞわりぞわりと立ちまくっていく。観客のテンションも輪をかけて上がっていった。
大声で歌おうよ 辛いことなんて忘れて
君の歌が聴きたいんだ ほら息を吸い込んで
止められないこの想い 光に繰り出していこう
君と描くこの未来なら 何も怖くはない
伊角くんも、他のみんなも、上手かった。本当に上手かった。歌も楽器もびっくりするくらい上手くなっていた。
しかし、何が一番すごいかって、この演奏、合っているのだ。これでもかと言わんばかりに。つまり周りとのズレがまったくと言っていいほど生じていなかったのだ。
たとえ個人の技量がどれだけすごかろうと、たとえどれだけ当たった声や粒のそろった演奏が繰り出せようと、周りとの調和が取れなければいともあっさり崩壊してしまうのが音楽だ。
その調和を取るという行為はもちろん簡単なことではない。普通に至難の業だ。それが今あたしの目の前で何の危うげもなく執り行われていた。この曲をこれまで気の遠くなるような回数練習してこなければとてもこうはならなかっただろう。
どうしてこの曲をそんなにも練習してきたのか。
やっぱりそれって。
あたしに聴かせるため、って思っていいのかな? 伊角くん。
笑いたいのと泣きたいのが同時にやって来て、どうしたらいいか分からなくて、今のあたしはさぞかし滑稽な表情になっていたことだろう。
「ワン! ツー! スリー!」
まひるちゃんがノリノリで熱唱していき、曲はCメロへと突入していく。
人の波からはぐれ すがるものもなくて
暗闇に 負けそうにもなるよ
……え?
えええええええええええええ!?
たまげた。
おったまげた。
あたしの目が限界近くまで見開かれる。
だって、だってだってだってだって。
こんなサプライズ、反則だ。予想外にもほどがある。
あたしの後ろ、車椅子のグリップを握って静かに佇んでいた文香ちゃんが、Cメロに入ったその直後、突然ソロで歌い出したのだ。
でも人生一度きり 未来常に不透明
楽しいコト いっぱい やらなきゃね
文香ちゃんは歌いながら、あたしの傍らを通り過ぎ、伊角くんたちのところへ向かってゆっくりと歩を進めていく。
その途中、文香ちゃんは振り返った。後ろ歩きで伊角くんたちのところへ近付いていきながら、しかし視線だけはあたしを真っ向から捉えながら、なおも一人で歌い続けている。それはそれは安らかな表情で妙なる歌声を響き渡らせている。
そうか。
きっと文香ちゃんは、伊角くんたちと関わっていくうちに、自分も歌をやってみたいと思うようになり、紆余曲折を経て彼らの仲間入りを果たしたのだ。あたしにそれを内緒にしていたのは、他ならぬこのサプライズのためだったのだろう。
ずるい。
反則である。本当に。
伊角くんはどれだけあたしの涙腺を刺激すれば気が済むというのだ。こんなの感極まるしかないではないか。
文香ちゃんは六人のもとに合流。六人は七人となって、七人は一丸となって、渾身の合唱を惜しみなく披露していく。
文香ちゃんというサプライズのおかげもあったのだろう、観客のテンションは最高潮に達していた。
大声で笑おうよ 辛いことなんて忘れて
君の笑顔が見たいんだ そんなに悪くないよ
一人じゃない君だって またここから始めればいい
君と描くこの未来なら 何も怖くはない
ずっと悩んでいた。
年を取ってしまったこと。
夢を叶えるのがさらに厳しくなってしまったこと。
これからどうやって生きていくべきなのか、答えはいまだ何も出ていない。
でも、一つだけ、はっきりと分かったことがあった。
あたしはやっぱり、歌が好きなんだ。
本当に、どうしようもないくらい、歌が好き。
歌いたくて歌いたくてうずうずしているあたしがいた。
今ではもう、身体はずいぶんとなまって、昔ほどうまくはできないのかもしれないけれど。
それでも。
あたしは。
――――。
――ガタン。
「泣きたくてたまらない。そんな夜もあったけれどー!」
気付いたら歌っていた。
車椅子から立ち上がって、力の限り歌っているあたしがいた。
そんなあたしを見て、伊角くんたちは目に見えて驚いたような表情を浮かべたが、演奏も歌も一向にやめようとはしない。
願ってもないことだった。
簡単に中断されては困るのだ。
伊角くんと同じくらいに、
いやそれ以上に、
あたしだって歌が大好きなのだから。
「僕の笑顔を見せたいんだ。大好きな君だからー!」
歌いながら、一歩また一歩と足を踏み出していった。喉も足もびっくりするほど動きがぎこちなく、かつての自分と比べれば見る影もないような体たらくだった。
それでもあたしはやめなかった。
歌うのも歩くのも。
そっちに行きたいから。
その一心だった。
「本当にありがとう。これからもそばにいてねー!」
数歩だけ歩いたあたりで、伊角くんが慌て顔で駆け寄ってきた。
そしてあたしの顔を見て、やれやれとばかりに笑みを見せる。
おそらく、あたしにつられたんだと思う。
今のあたしは、多分、これまでにないくらいの、最高の笑顔になっていただろうから。
『君と歩くこの未来なら。何も怖くはないー!』
あたしは歌った。
伊角くんも歌った。
二人の歌は烈々と絡まり合い、魂すらもとろかすような極上無比のユニゾンとなって、あたり一帯の空気を壮大に震わせた。
いつからか、夢見ていたのだ。
伊角くんと、一緒に歌を歌ったりしたいなって。
それがこうして叶った。
こんなに幸せなことはない。
『君と歩くこの未来なら。何も怖くはないー!』
えも言われぬ幸せに包まれながら、あたしは快哉を叫ぶように、最後のフレーズを全力で歌い切った。
間髪入れずにやって来たのは、耳をつんざく大歓声。
万雷の拍手と喝采が、至る所から一斉に沸き上がった。
終わったのだと理解した瞬間、へなへなと、足から力が抜けていくのを感じた。長いこと昏睡していた身には重労働過ぎたようだ。
あたしは伊角くんの肩にすがりつき、膝から崩れ落ちてしまうのをなんとか阻止する。
「深原さん、大丈夫ですか?」
「…………」
顔を上げると、そこには伊角くんの顔があった。
優しげに微笑む伊角くんの顔が。
「深原さん?」
「……」
衝動。
おそらく、そう言う他なかった。
衝動的にあたしは、伊角くんの唇を奪っていた。
「……っ!」
伊角くんの身体が強張って硬直する。
拍手と喝采が鳴り止み、代わりに驚愕のざわめきが広場の各所から上がっていった。
それがどうしたって感じだった。
あたしは瞳を閉じ、伊角くんの後頭部に両手を回し、力の限り抱き締めながら、伊角くんの唇をなおもむさぼった。
伊角くんの唇は、ほんのりとしょっぱくて、夏の汗の味がした。
「……ぷはっ、ふ、深原さん!?」
伊角くんがあたしから顔を無理矢理引き離す。その顔は真っ赤に上気していて、声もかなりうわずっていた。かつての少年のころを思わせるようなおどおどとした立ち振る舞い。さっきまでの凜々しかった歌い手の姿とはえらい違いだ。
でも、それでいい。
それらすべてをひっくるめてこその伊角くんなのだから。
ねえ、
伊角くん。
「大好きだよ?」
これまた衝動と言う他なかった。
衝動的にあたしは、伊角くんに告白をしていたのだった。
あたしが一〇〇パー本気で言っていたのがちゃんと向こうにも伝わったようで、ただでさえ赤かった伊角くんの顔が、より一層真っ赤になっていった。
そんな伊角くんの姿がまたたまらなくいとおしくて、あたしは再び伊角くんに抱きついて、キスした。キスしまくった。押し倒さんばかりの勢いだった。そんなあたしのあられもない求愛行動は、見るに見かねた文香ちゃんがあたしの身体を手荒く引っぺがすまで続いた。
先のことなんて何も分からない。
心配事を挙げようと思ったらいくらだって挙げることができる。
でも、こんなにも幸せな時間を過ごすことができたのなら、
未来なんていうものは、思っていた以上に、悪くないものだったりするのかもしれない。
終わり




