【第三章 夏】(三)
それから一ヶ月とちょっとが経った、二〇二一年の八月某日。
「……こりゃすごい」
車椅子に乗ってその広場を訪れるやいなや、あたしは圧倒されたような声を漏らした。
JR長町駅の西口の広場。あたしの記憶だとそこはさほど人で賑わうような場所ではなかったはずなのに、今ではうって変わって雨後のタケノコのように人であふれ返っていた。八月の午後の日差しはただでさえ強烈なのに、人いきれも相まって熱気が凄まじいことになっていた。じんわりと額から汗が浮かび上がってくる。
「あら? おかしいわねえ」
車椅子を押していた母さんが唐突に声を上げた。
「どうしたの?」
「お財布がないのよねえ。多分車の中だわ。取りに行ってきてもいい?」
「うん、いいよ、行ってきなよ」
「ごめんね、すぐ戻るから。何かあったらすぐにブザー鳴らすのよ?」
そう言って母さんはあたしのもとから離れていった。途端に一人きりになってしまったが、今ではもう車椅子を自走させられる程度には身体も回復していたのでそこまで問題ではなかった。
「子供じゃないんだからさ」
そうつぶやき、あたしは広場の端のところへ目を向ける。
そこには伊角くん、町田くん、花井くん、まひるちゃん、有栖川さん、川瀬さんと、西高の元軽音部のみんなが勢揃いしていた。その手元や足下にはギター、ベース、キーボード、カホンといった様々な楽器及び各種機材があり、ちょっと豪華な路上ライブといった趣がそこにある。彼らは楽器や機材を入念にチェックしたり、あるいは打ち合わせなんかをしたりして、各自本番に備えていた。全員例外なく真剣そのものといった様子だった。みんなずいぶんと大人びた顔をするようになったものである。感慨深く思うあたしだった。
そんな彼らを遠巻きに眺めるように大勢の人々が赤茶色の石畳の上に佇んでいた。何故ならもうすぐここで伊角くんたち主催のチャリティーコンサートが開かれるからである。あらかじめそのことを知っていた人間ももちろんいただろうが、今日ここで偶然そのイベントの存在を知り、興味を惹かれて足を止めた人間もそれなりにいそうである。
「ねえなにこれ?」
「分かんない。誰かのライブ?」
「そういえば今日ここで、チャリティーコンサート? みたいなのが開かれるってお母さんが言ってたっけ」
「あたしこれ見たい! てかこれあたしらも見てっていいやつ!?」
「いいやつっぽいな」
それを証明するように、あたしの右方からあずき色のジャージ姿の女子高生軍団がやって来た。何か面白そうなイベントでも始まりそうだと思ったらしく、彼女たちは全員その場にかしましく足を止めた。
キャッキャと談笑し、じゃれ合う彼女たちを横目で盗み見ていると、我ながら大人げないことだとは思うのだが、ちょっとした嫉妬を覚えた。
もはや自分は、あそこまで若くはないからだ。
「……子供じゃないんだよなあ、もう」
二度目のつぶやきは、どこか卑屈めいた感情が混ざっているかのようだった。
「深原さん?」
「……え、あ」
女子高生軍団に気を取られていたせいで、あたしはまったく気付かなかった。いつの間にか伊角くんが目の前にまでやって来ていたということに。
喋り方も朗々としていたし、外見にも気を遣うようになっていたし、二十歳になった伊角くんは、率直に言ってとてもいい感じの青年になっていた。
「ご、ごめんね伊角くん。なんかぼーっとしちゃって。どうかした?」
あたしは声のトーンを意識して上げて喋り出す。
「……その、深原さんが、なんだか元気なさそうに見えたから」
憂いを帯びたような表情で、伊角くんはそんなことを言ってきた。
あたしが元気なさそうだったから、心配で様子を見に来たと。
まったく、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。いい男になっちゃったもんだねほんと。
「元気ないって、あたしが? いやいやそんな。こんなじゃじゃ馬つかまえて何をおっしゃるかね君は」
自分でじゃじゃ馬とか言わないでください。
という突っ込みを期待しての発言だったのだが、残念ながら、当てが外れた。伊角くんは妙に深刻そうな顔でこう言った。
「……でも、聞いてるんですよね」
「聞いてる?」
「お医者さんや看護師さん、あと、深原さんのお母さんから」
……あー。
なるほど。
聞いてるのか。そうか。じゃあ誤魔化しは無駄ってことかな。
「……せっかく目が覚めたのに、なんだかあたしが元気がないみたい。そんなふうに聞いてるってこと?」
「はい」
伊角くんは大真面目な顔でうなずいた。思わず長嘆するあたし。
うーん、どうしたものだろう。一瞬迷ったが、まあ、伊角くんにならいいか。全部話してしまおうと思った。
「……こんなことを言うのは我ながらあれなんだけどさ、やっぱりね、気付いたら時間が大幅に経ってたっていうのは、結構、キツいものがあるんだよね」
誰にも語ることのなかった胸の内を、あたしは初めて語り出した。
「いや、贅沢なことを言ってるのは分かってるんだよ? 後遺症は何もなかったみたいだし、身体は日を追って回復してるし、その気になれば歌だって問題なく歌えるみたいだし、でも、代わりに時間がずいぶんと経っちゃってあたしは今もう二十四歳なわけですよ。年内には二十五歳になっちゃうし。プロの歌手を目指していた身としてはさ、ほら、キツいなーって思っちゃうんだよね」
「……ああ、そういう」
伊角くんの目がかすかに見開かれた。察してくれたらしい。
「男性歌手はどうかは知らないけど、女性で歌手としてデビューするにはさ、やっぱり若さってどうしても大事なんだよ。悲しいけどそれが現実だからさ。でも、あたしが満足に歩けるようになって歌えるようになったときには、多分若さなんてもうない。ただでさえ難しいプロデビューがさらに難しいものになってるはず。そんなわけでさ、あああたし、これからどうやって生きていこうかなーってなっちゃってるんですよ」
と、他人事みたいな調子で言う。
辛く厳しい現実はいつだってあたしたちのそばに待ち構えている。歌手という大願、それを成就させるための難易度は、以前よりも格段に跳ね上がっていたことだろう。それと向き合わなければならないというのは容易いことではない。楽天家で通っていたあたしでも弱音の一つも吐いてしまいたい気分だったのだ。
自分よりも年下の男子を相手に弱音を吐くなんて、本来なら恥ずかしいことだろうか。でも、伊角くんの前では、不思議と抵抗なんてこれっぽっちもなかった。
「親にも迷惑かけまくっちゃったし、これ以上無謀な夢を追い続けるっていうのもやっぱちょっと気が引けるし、もうこの際全部すっぱり諦めて、親がやってる旅館でも継ごうかなーなんて最近では考えたりしてさ、うん、ごめんね? こんな重い話しちゃってさ」
「……あ、いえ、そんなことは」
伊角くんはそう言って首を振ってくれたが、やはりこれは重い話だ。絶好のアドバイスはなかなか見つけられなかったようで、眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
だが少しして、伊角くんは口を開いた。
「……少し、ぼくたちの話をしてもいいですか?」
「え? ああ、いいよ」
ぼくたち。それは、西高の元軽音部のみんなのことを言っていたのだろう。
「前も話しましたけど、ぼくは今大学の三年生です。学部は教育学部で、将来は学校の先生になりたいって思ってます」
「うん、いいじゃん。似合ってると思うよ?」
「文香からは似合ってない似合ってないって言われまくってますけどね」
そう言って伊角くんは苦笑した。あたしもつられて笑う。相変わらずあの妹さんはお手厳しいようだ。
「それで他のみんななんですが、まひるさんは大学二年生です。将来は保育士さんになりたいって言っていました。町田くんは高校卒業後に知り合いの楽器店で働き始めました。いずれ自分の楽器店を持つのが夢なんだそうです」
説明しながら、伊角くんはその場から横合いに一歩ずれた。おかげであたしの視界が開け、広場の端、各々の作業に従事中の他のみんなの姿がよく見えるようになる。
まひるちゃんはうっすらとだが茶髪になっていた。持ち前の愛嬌の方も依然として継続中で、おかげでより明るい印象を感じられるようになっていた。
町田くんは爽やかな短髪の青年になっていた。爽やかでありながらその目元からは妙なる色気が醸し出されている。さぞかし女子からモテていたことだろう。
「有栖川さんは音大に行きました。将来はピアニストになるんだって言っていました。川瀬さんは専門に行きました。美容師になるのが夢なんだそうです」
有栖川さんはその性格に違わぬ生真面目な風貌と装いをしていたが、ほんのりピンク色の縁あり眼鏡に変わっていた。彼女なりの垢抜けの表れだったのかもしれない。
川瀬さんは髪が大幅に伸びていた。ふわふわのあのウエーブっぷりは今もなお健在。もふもふさせてくださいと頼みに行ったら怒られるだろうか。
「最後に花井くんなんですが、彼は高校卒業後、本格的に宮内守みたいなミュージシャンになるんだって言って、高校卒業後はバイトをしながら地道な練習とレコード会社への売り込み活動に励んでいます。でも、あまりうまくはいってないみたいです」
花井くんは金髪になっていた。ツーブロックの短い髪が燦然ときらめいている。もともと日本人離れした外見の彼なので黒髪よりもこっちの方が似合っていたかもしれない。芸能人のような雰囲気を遺憾なく放っていた。
できることなら本当に、芸能人の仲間入りはしたいとは思っていたのだろうが、少なくとも今はまだ、それの実現には至っていなかったようだ。
「ぼくも花井くんから結構聞いているんです。あの世界がどれだけ厳しい世界なのかを。東京の一等地に住んでいて、幼いころから音楽の英才教育を受けていて、ボーカル教室にも通って楽器だって弾けてライブ経験だって何度もあって、そんなエリートが血眼になって努力しても日の目を見ないのが当たり前。それがプロの世界だって言っていました」
その通りだ。あたしはかつて経験したオーディション会場の一幕を思い出していた。あそこは本当に嫌になるくらいの鬼の棲家で、なんでこの人プロじゃないんだ? っていうのがうじゃうじゃいて、ずいぶんと自信をくじかれて東京からとんぼ返りを余儀なくされたのである。
「そんな話をよくよく聞かされていたから、ぼくは深原さんに、簡単に夢を諦めるなよとか、そんな無責任なことを言うつもりはありません。別に夢を諦めることを選択したって、ぼくはそれもありだと思っています」
でも、と伊角くんはそこで言葉を一旦区切った。
ミーンミーン、とセミがやかましく鳴いている。
うだるような暑さが猛威を振るう中、やがて伊角くんが再び口を開いた。
「……でも、深原さんには、笑っていて欲しいんです」
「……え」
「せっかく目覚めたんだし、歌も普通に歌えるみたいだし、深原さんがどんな選択をするにせよ、深原さんには、その、笑って人生を送っていって欲しいんです」
「…………」
伊角くんはあたしのはす向かいに立っていた。恥ずかしさからかあたしと目を合わせようとはしなかった。それでも伊角くんは言葉を紡いでいった。一生懸命に。心を込めて。
「そ、それに、歌うなら笑顔だよって教えてくれたのは深原さんじゃないですか。歌をこれからもやっていくんだったらそれって大事だと――」
おーい伊角ー、と、花井くんの呼びかける声が上がった。伊角くんが途端に口をつぐむ。あたしたちがそろってそちらに目をやると、花井くんがにんまりと笑いながらこちらに向けてちょいちょいと手招きをしていた。
「……あー、すいません。そろそろなんで、ぼく、行ってきます」
「うん。頑張ってね」
「はい!」
毅然とした声で返事をしてから、伊角くんは花井くんたちのもとへと駆けていった。開始時間まであといくばくもなかったし、呑気に雑談なんてしていられる身ではなかったのだろう。
しかし、それにしてもあれだ。
あたしは思い出していた。
『歌うなら笑顔だよ』
それは昔、あたしが伊角くんに教えた言葉だった。
しかし、今ではあたしが伊角くんに、逆に言われてしまった。
あたしがぐーすかと寝入っていた間にずいぶんとまあ育ってしまったものである。負うた子に教えられるとはこのことか。嬉しいような寂しいような、複雑な心境であった。
伊角くんは変わった。いまやびっくりするくらい成長していた。
じゃあ。
あたしは一体、どうしようか。
「深原さんですよね?」
「え?」
突然の呼び声を受けて左横を向くと、そこに立っていたのは、意外な人物だった。
黒のショートボブ、幼げな顔立ち、強い意思を感じさせる凛としたまなざし。そこまでは記憶にあった姿とほとんど違わなかったが、身長が違っていた。以前は一四〇センチくらいしかなかったはずなのに、今では一六〇センチくらいにはなっていただろう。見違えるようだった。
そこにいたのは、伊角くんの二つ下の妹の文香ちゃんだった。
「文香ちゃん、どうしてここに……あっ」
口にしたそばから、しまった、と思った。顔が一気に強張る。
あたしの馬鹿。伊角くんがあたしのことを文香ちゃんに話していたとは限らないだろうに。なんであたしのことを知ってるんですか? と詰問されたらどうするというのだ。実は幽体状態になっていたときに一方的に目にしていて、なんて素直に説明なんてできるものか。
だが文香ちゃんは、あたしに詰問してくることはなかった。
「……やっぱりあたしのことを知ってるんですね。安心してください。兄から全部聞いていますから。最初聞かされたときは、こいつ頭おかしくなったかって思っちゃいましたけどね」
代わりに文香ちゃんは訳知り顔を浮かべ、そんなふうに説明してくれたのだった。あたしに関する話はすべて聞いていたらしい。それをちゃんと信じていたかどうかはさておきだが。
「ど、どうも。深原藍衣です。その節は伊角くんには本当にお世話になりました。もうなんてお礼を言ったらいいのか」
「……どうも、伊角文香です。てかいいですよお礼なんて。……多分、お礼を言わなきゃならないのは、こっちだと思いますから」
「はい?」
「後ろ、失礼します」
「あ、ああ、はい」
文香ちゃんがあたしの後ろに回った。車椅子のグリップをがしりと握る気配がする。
なんだか少し、緊張する。
「あたし、兄のこと、ぶっちゃけ嫌いだったんですよね」
文香ちゃんは突然そんなことを言い出した。
「知っていると思いますけど兄はいじめに遭っていました。そのせいで兄はすっかりウジウジとした性格になっちゃって、あたしはそんな兄がすごく嫌いでした。ずっとそう思ってました。……今にして思えば、両親があたしのことをほとんど見てくれなくなって、それで拗ねていただけだったんですけどね」
どこかぶっきらぼうな口調で文香ちゃんは語っていく。あたしはその意図がいまいち掴めず、瞳を何度かぱちくりさせていた。
「まあウジウジしていたのは事実ですが、でもある時期から、兄は変わっていきました」
「え?」
「それまではずっと死んだ魚みたいな目をしていた兄でしたが、ある時期を境に、まあ、そこそこ見れるような目をするようになっていった気がします。多分、あなたに会って歌を始めるようになったのがきっかけだったんじゃないかって思ってるんです」
「……そう、かな」
「そうですよ、きっと」
文香ちゃんは即座に肯定した。そのとき初めて、文香ちゃんの声に親しみと温かさのようなものを感じた。
…………。
……あたしに会ったおかげ、か。
そうなのかな。正直自信はあまりないけど。
でも、もし本当にそうだとしたら。
なんか、すごく嬉しいな。
文香ちゃんが再び喋り出す。
「友達を自分と同じ趣味にハマらせるのを沼に引きずり込むなんて言いますけど、今回の場合は、海に引きずり込んだって言うんですかね」
「え? 海?」
「はい。ローレライだけに」
「……っ」
思わず息を呑む。
「お陰様で今ではだいぶ充実した大学生活を送っているようです。おかしなことを言うようですけど、うちの兄を海に引きずり込んでくれて、ありがとうございます。ローレライさん」
「…………」
思えばひねくれ者のきらいのあった文香ちゃんである。その謝辞も妙にひねくれていて、少ししてからあたしはつい吹き出してしまう。文香ちゃんもくすくすと静かに笑い声を上げた。
あたしは笑みを浮かべたまま後ろを振り返る。
「二人とも、ずいぶん仲良くなったんだねえ」
「いえ別に。普通です」
涼しい顔で否定された。素っ気なさが猫みたいで逆に可愛らしいと思った。
「でも、今はもうお兄ちゃんのこと、そこまで嫌いってわけじゃないんでしょ?」
ちょっとだけ意地の悪い問いかけをしてみた。
「……今ですか。そうですねえ」
文香ちゃんの視線がある一点に固定される。
その先にあったのは広場の端、相変わらずの犬猿の仲だったらしくなにやら言い争っていた有栖川さんと川瀬さんの二人を、町田くんと一緒になってまあまあとなだめていた、伊角くんの姿だった。
「今はまあ、ぼちぼちですかね」
どこか自慢げに、文香ちゃんは答えた。




