【第二章 春】(六)
とりあえず、大人たちに捕まるようなことにはならなかった。なんとか逃げおおせた。あれからぼくたちは走って走って走りまくって、やがて人家のほとんどない場所、広瀬川の土手の下の高水敷のところまで移動していた。
「このたびは本当にありがとうございました。伊角さんがいなかったら今頃わたしどうなっていたか分かりません。全部伊角さんのおかげです」
「いや、あの、えっと」
すっかりタジタジになりながら、ぼくはまひるさんの前に立ち尽くしていた。
先ほどは状況が状況だったため、いまいち詳細を確認できずにいたのだが、たった今しかと確認した。まひるさんはとても可愛らしい女の子だったのだ。
清潔感を感じさせるセミロングの黒髪、子猫を思わせるぱっちりとしたつぶらな瞳、愛嬌も実に豊かで、花井くんが猫可愛がりしたくなる気持ちも今ならすごくよく分かる。
ただでさえ可愛らしい外見をお持ちで、ただでさえ愛嬌を振りまくことに躊躇がなかったのに、まひるさんはその上さらにボディタッチにも躊躇のない子だった。まあその、要するにまひるさんは、さっきからぼくの両手をひしっと掴んで離さずにいたのである。
もう慌てるような時間だよこれは。陰キャには刺激が強過ぎます。ああああそろそろ手汗が出そう。
「おい花井、お前落ち着けって」
「……何を言っている。おれは落ち着いているぞ。……そう、仕事を目前に控えた暗殺者のように落ち着いている」
「駄目だこのシスコン」
町田くんと花井くんは高水敷にあった木製ベンチに腰掛けていた。殺気のたっぷり込もった花井くんの視線がさっきから痛くてたまらない。兄妹が二人がかりでぼくの心臓を仕留めにかかっていた。町田くんも役に立たないし(失礼)、本当にこれはどうしたものだろう。ちなみに深原さんはというと『当てられちゃうなあ』とか言いながらぼくとまひるさんのことを上から見下ろしていた。そこにあったのは実に小憎たらしいニヤニヤ顔。うん、とりあえず深原さんからの助けも期待できそうにない。
まひるさんに面と向かって感謝の言葉を贈られるのは嬉しいけれど、本当に身に余るほどの光栄だけれど、このままだと心臓が荒れ狂ってしょうがない。どうにかして話題を変えた方がよさそうである。
「そ、そうだ。まひるさんたちって、バンドでもやってるんですか?」
まひるさんが肩から提げていたギターケースを見て、これだ、と思い、早速まひるさんに尋ねた。まひるさんはにっこり笑いながらはいと答え、ようやくぼくの手を離してくれる。
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしは花井まひるっていいます。そこにいる花井翔介の妹で、西高の一年です。まあ色で分かっていたかもしれませんが」
「あ、うん、まあね」
ぼくはうなずいた。制服のスカーフのことを言っていたのだろう。
「わたしは兄のたっての希望により、兄が部長を務める軽音部に入りました。兄の影響でわたしもギターはちょっとだけやっていましたので。楽器はわたしがアコギで兄がエレキ、町田さんがベースです」
「あ、ベースなんだあれ」
ぼくは勘違いをしていたらしい。町田くんが肩にかけていたギターケースは、実はベースケースだったらしい。とはいえ花井兄妹が肩にかけていたそれと一体何が違うのやら。玄人が見ればすぐに判別できたのかもしれないが、色も形もそっくりだし、素人には見分けがさっぱりつかない。
「はい。ああやっぱりあれギターだと思いました? まあぱっと見のシルエットはそっくりですからね。よくギターやってるんだって勘違いされているみたいです」
うんざりするくらいにな、と町田くんがげんなりとした顔つきで口にした。ベーシストのあるあるだったらしい。
『長さが違うんだよねえ』
深原さんが頭上から、勝手知ったるみたいな声で言う。
「……そうなんですか?」
『そうそう。ベースはネックが長いから。あとでよく見せてもらうといいよ』
「……はあ」
ぼそぼそと、まひるさんたちに悟られぬよう、こっそり会話を繰り広げる深原さんとぼくだった。
まひるさんは一瞬訝しむような顔をしたが、すぐに元通りの顔になって話を再開した。
「ええと、他にもあと二人、一年生でキーボードとパーカッションの子がいます。メンバーは以上の五人です。本当なら今頃部室で練習しているところなんですけど、わたしたちの部室は防音措置がほとんどなくて、両隣と下から苦情が相次いで、どうしたものかと悩んでいたら、叔父が『じゃあうちの地下を使いなよ』と言ってくれたんです。なので今日は各々楽器を持参してこの近くの叔父の家に行くことになっていたんですが……」
そんな折にあいつらに絡まれたということか。
「……災難だったね」
「いえいえ、こうして無事ですから。お陰様で」
まひるさんがにっこりと笑いかけてくる。
まったくもって災難なことだが、最悪の事態にならずに済んだのは不幸中の幸いだろう。この無邪気な笑顔を守ることができて本当によかったと、ぼくは心から思った。
「あの、実はわたしも、伊角さんにお聞きしたいことがあるんですけど」
おずおずと可愛らしく挙手しながら、まひるさんがそんなことを言い出す。
「うん、いいよ。なに?」
「ええとですね、その、ちょっと、言いにくいことなんですが」
「?」
まひるさんの話し振りは訥々としたものだった。表情にも迷いのようなものが見られた。一体何を言い出そうというのだろう。ちょっとだけ不安に駆られる。
ややあって、まひるさんは顔を上げた。
ぼくの頭上、深原さんのいたあたりをそっと指差しながら、こう言った。
「そちらの方、どなたですか?」
爆弾発言だった。
聞くところによるとまひるさんはいわゆる『見える人』だったらしい。ぼくほどはっきりとではなく、あくまでうすぼんやりとだが、声もろくに聞こえなかったようなのだが、それでもぼくに追随する深原さんの存在には登場当初から気付いていたらしい。
呆気に取られる暇もなく、どういうことだよ、おい詳しく話せ、と男性陣による熱烈な追求も加わり、気の小さいぼくが降伏するまでそう時間はかからなかった。
これまでのいきさつ。
深原さんとの出会い。
それをぼくは三人に、ゆっくりと説明していった。
取調室の椅子のごとく木製ベンチに一人座らされていたぼくは、ようやくすべてを話し終えた。
「そうだったんですか。大変でしたね、伊角さん」
「ローレライさんの歌の教室か。なるほど実に興味深い」
労をねぎらうように言うまひるさん、得心がいったようにうなずく花井くん、目の前に佇んでいた花井兄妹は反応こそ微妙に異なっていたが、ぼくの言い分をすべて信じ込んでいたという点だけは完全に一致していた。
もちろんすべて事実だし、疑われたらそれはそれで困るけれど、そんなに簡単に信じちゃうのかよと思わずにはいられなかった。兄妹そろって純粋過ぎやしないか。
「あの、本当に信じるんですか? こんな話」
「信じますよ。もちろん」
「伊角が妙な独り言を言っていたのはおれも前に見たことがあったからな。ローレライさんと話していたというのであればそれにも説明がつく」
『あら、見られちゃってたみたいね』
「……ぐぅ」
ぼくの左隣にいた深原さんが脳天気な声で言う。ぼくは自分の表情が曇っていくのをはっきりと悟る。深原さんとの会話は誰にも見られないよう可能な限り気を配っていたつもりだったのだが、配り切れていなかったようだ。だとしたら他にも色んな人たちに見られていた可能性がある。表情も曇ろうというものだ。
「お前ら馬鹿かよ。そんな話簡単に信じるなよ」
と、ぶっきらぼうに言ってくれたのは町田くんだった。
「幽霊なんてそんな非科学的なもんがいてたまるかってんだ。俺は信じねえぞ。悪いけど俺は今の話はもちろん、まひるちゃんが見える人だっていう話だって懐疑的なんだからな」
町田くんの反応を冷たいと言ってはいけない。これこそが普通の反応というものだろう。ぼくだって立場が逆だったら感想は町田くんとそう変わらなかったはずだ。簡単に信じたりなんて間違ってもしない。
だが、とりあえず、町田くんにはひとこと物申したいことがあった。
「あの、町田くん」
「なんだよ」
「なんでそんなに遠くなの?」
「ここが居心地いいんだ。気にすんな」
町田くんはそう言った。ぼくたちのいた場所から十メートルくらい離れた草地にぽつんと佇みながら。あいつ幽霊とか駄目なんだよ、と花井くんが小声で耳打ちしてきて、なるほどと思った。誰にでも苦手なものはあるらしい。
「なあ伊角、おれには姿も見えないし声も聞こえないんだが、そこに確かにローレライさんがいるんだな?」
「う、うん」
「そいつは重畳!」
花井くんがぼくの背中に手を回し、ばしばしと力強くはたきまくってきた。何が重畳なのかは分からないけれど、とりあえず普通に痛い。もっと手加減して欲しい。
「伊角、唐突で申し訳ないんだが、ローレライさんに一曲歌ってくれるよう頼んでみてくれないか?」
「え?」
花井くんから受けたのは、思いもよらない申し出だった。
「おれはローレライ事件の話を聞いて、後学のために是非一度その歌を聴いてみたいと思っていたんだよ。こう見えておれはいまいち歌が苦手なもんでな。どうだ? なんとか頼んでみてくれないか?」
「ええと、でも」
『はいはーい! やりたいやりたい! あたしやりたい! お願い伊角くん歌わせて! ね!』
答えようとしたそのとき、水を得た魚みたいに活気を得た深原さんが、猛烈な勢いでぼくに詰め寄ってきて口をつぐまざるを得なくなる。久々に生身で歌える絶好のチャンスだと思ったのだろう。その瞳は子供のようにきらきらと輝いていた。
さてどうしたものか。深原さんに一曲披露してもらうということは取りも直さずぼくが乗り移られる必要があるわけなのだが、しかし、答えは意外なくらいにあっさりと出た。
「……まあ、別にいいかな」
『ほんとに? いいの? 身体貸してくれるの?』
「深原さんがそうしたいっていうのなら」
『でも、伊角くんはいいの?』
「え?」
『だって人前で歌うんだよ? 伊角くんの身体で。嫌だなあとか恥ずかしいなあとかそういうのはないの?』
「……ないと言ったら嘘になるけど」
『けど?』
「ここにいる三人は恩人みたいなものだからね」
花井くん、まひるさん、町田くん、三人をぼくは順々に見やっていく。
この三人には色々な意味で救われた。もう今年一年分くらいの幸福感を体験し尽くしたような気さえする。ちょっとでも恩返しができるのなら、少しばかりの面倒くらい甘んじて受け入れよう。そんな気分だったのだ。
『つまり、オッケーってことだよね!? いやったー! ひゃっほー!』
深原さんが高々と快哉を叫び、軽やかに宙を舞い踊り、そして、不意にぼくに笑いかけたかと思うと、そのままぼくに向かって勢いよく――、
え。
いや、待って! ちょっと待って!
「いよーし、よく分からんが話はまとまったんだな? それじゃあ今から四人で、いや五人で、叔父さんのスタジオまで行くとすっか」
「ちょっと、駄目だよお兄ちゃん。こっちに来てってあとの二人に言っちゃったんでしょ?」
「おっと、そういえばそうだったか。仕方ない。二人が来るまでおとなしく待つか」
「あら、そんな必要ある?」
『……え?』
花井くんとまひるさん、そして町田くん、三人の声がそのとき見事にハモった。
当惑したような声になっていたのは、ぼくの口調が突然変わっていたからだろう。
「まひるちゃんが持ってるのアコギよね? ちょっと貸してくれる?」
「え、あ、はい」
「そこのでっかい君、ええと花井くんだっけ? チューナーアプリとかある?」
「え、は、はい」
花井兄妹にてきぱきと指示を出すぼく。
もとい、深原さん。
もうお分かりいただけただろう。深原さんがぼくの身体に乗り移っていたということに。
『……いきなりはやめてくれませんか深原さん』
歌ってもいいと許可した端からこれである。ぼくはぼくの中から恨み感たっぷりに言ってやった。
「もう、気にしない気にしない。男の子でしょ?」
深原さんはぼくの口を使って平然とそう述べた。男女差別もいいところだ。だったらあなたこそもっと女性らしい慎みの精神を持つべきだと思います。
「え、な、なんすか?」
花井くんがスマホを取り出し、おそらくはチューナーアプリとやらの準備をしていたとき、こちらに向かって突如としてそう言った。今の深原さんの発言を自分へと向けた言葉かと勘違いしたらしい。
「ああごめん、気にしないで。ちょっと伊角くんと話してただけだから」
「……なんと、マジっすか」
畏敬の念でも抱くかのように、花井くんはその骨太の首をわずかにすくめた。
そんなやりとりを遠くから見ていた町田くんが、慄然たる面持ちで声を上げた。
「……おいおいおいおいマジかよ、マジで今ローレライさんが乗り移ってんのかよ。伊角の身体に」
深原さんがそれに即座に反応する。
「そだよー。でも一つ、訂正してもらってもいいかな?」
「え?」
「ローレライさんじゃなくて深原藍衣っていうんだよ、あたし。深い原っぱの藍色の衣って書いて深原藍衣。卓球の愛ちゃんと名前似てるけど間違えちゃ駄目だよ? よろしくね、みんな」
視界の四分の一ほどが突如として消失したのは、多分、深原さんがぱちりとウインクでも決めたからだろう。




