【第二章 春】(五)
「――やめろよ」
ぼくは口にした。
裏路地の奥にいたそいつらに向かって。
あまり毅然とした格好いい声ではなかったと思う。でもぼくからすれば上出来だ。震え声になるのを食い止められたのだからそれだけで賞賛に値する。
「あん?」
刈谷がこちらを向き、それに呼応するように全員が一斉にこちらを向く。
四人とも高校の制服姿だった。刈谷たち三人の制服は見覚えがなかったが、少女の身に着けていた制服にだけは見覚えがあった。それもそのはず、その制服はぼくの通っている西高のセーラー服だったのだ。セーラー服のスカーフは赤。西高は学年によってスカーフの色が違っていて、赤いスカーフは一年生であることを示していた。つまりぼくの一つ下の後輩だったようだ。少女も音楽をかじっていたのか、一メートルくらいはある黒のギターケースを左の肩から提げている。
「ああなんだ、伊角ちゃんかよ。久しぶりじゃねえか。ていうか今なんつった? なあ、ひょっとしてやめろよって言ったか?」
少女を金髪とグラサンに任せ、刈谷は舌打ちを連続でしながらこちらに近付いてくる。
ぼくの身中に巣くう不安の虫たちは、空襲警報でも聞かされたみたいに算を乱して逃げ回っていた。おかげでぼくはこれまでにないくらい恐怖していた。心臓の鼓動は馬鹿みたいに速度と激しさを増幅させていて、もうすぐ耳で聞こえるんじゃないかと思うくらいだった。
「……そうだよ」
それでも、ぼくは引かなかった。
引くわけにはいかなかったから。
それに感心でもしたのか、刈谷が愉快げに口元をほころばせる。
「ははあ、言うようになったじゃねえかお前。でもんなこと言われてもなあ。別に今からゴーカンしようってわけじゃねえんだ。ただちょっとこいつと取引してただけなんだよ」
「……取引?」
「おうよ。街歩いてたらこいつのこのギターとぶつかっちまってな。実はギターって前から興味あってよお。いい機会だしこのギター、慰謝料として一本丸ごと貰おうとしてたところだったんだよ」
後ろでグラサンが「どこが取引だよ」と言いながら薄ら笑いを浮かべた。
予想はしていたが、清々しいくらいにろくでもない顛末だったようだ。
もういい。これ以上こいつの相手をしていたって何のメリットもない。さっさとやるべきことをやろう。そう決めた。
もちろん今から殴り合いの喧嘩をおっぱじめるわけではない。そんな大それた考えは微塵も抱いていない。ここ最近運動っぽいことを日課にしていたとはいえ、所詮は始めて数ヶ月程度だし、そもそも武道の鍛錬でもなんでもないし、おまけに三対一。まともに殴り合ったところで勝ち目なんて天地がひっくり返ってもゼロだ。さすがにそれくらいわきまえていた。
ぼくがやろうとしていたのは至極単純、以前深原さんが行ったあれと同じだ。今から全力で大声を出して助けを呼ぼうと思っていたのだ。少女を助けるためにぼくにできることといったらそれくらいしかない。しかし効果は実証済みだ。
大丈夫だ。やれる。
大声を出すなんて小学生でもできることだ。
何も難しいことなんてない。
必要なのはほんの少しの勇気のみ。
ぼくは意を決し、大きく息を吸い込んでいった。そして、刈谷たちの慌てふためく顔を想像しながら、一気に声を吐き出した。
「たすっ…………!!」
だが、吐き出したかに見えたぼく渾身の大音声は、残念ながら不発に終わった。
腹部に生まれた突然の衝撃。一足遅れでやって来た盛大な鈍痛。
こちらに近付いてきた刈谷のやつに、どすんと、いきなりみぞおちに拳を叩き込まれたのだ。
「おおっと危ねえ危ねえ。また前と同じ目に遭ったらつまらねえからなあ」
腹部を抱え、深く静かに苦悶していたぼくの目の前で、刈谷がせせら笑うようにそう言った。こちらの手の内はお見通しだったらしい。
時を待たず、刈谷の右腕がぼくに向かって伸びてきた。尋常ならざる腹部の痛みのせいで満足な抵抗もできず、ほどなくぼくは後ろから首に腕をかけられてしまう。これ以上大声を出させないための措置ということか。
「で、どーすんだよ刈谷、その伊角ってやつ」
「そうだなあ、確かこいつ結構いい家に住んでたはずだし、うまいこと金ヅルにしちまおうぜ」
「つーか伊角ってよ、前にお前がイジメ倒したせいで大事になっちまったやつだろ? いいのかよ。今度こそネンショー送りになっちまうぞ?」
「じゃあそうならねえように徹底的にいたぶっておくわ」
「うっわ、こいつマジ外道。引くわ~」
などなど、刈谷と金髪とグラサンがぼくの処遇について口々に話し合っていく。連中はちょうど真後ろにいたので顔こそ見えなかったが、その会話から漂うこの上もなく楽しげな空気ときたらない。絶対に笑顔で言い合っていたはずだ。容易に想像できる。
ああ。
なんというか、あれだ。
ムカついてきた。
なんだか無性にムカついてきてしまった。
刈谷には中学時代に散々虐げられてきた。今ではめでたく疎遠になることができたが、それでもぼくは当時の酷遇が生んだトラウマにいまだ悩まされ続けていた。友達の一人も満足に作れなくなり、文香にもぞんざいな扱いをされるようになり、おまけに小花さんまで取られた。新たなトラウマまで植え付けられてしまった。
なんという疫病神っぷりだろうか。
よく考えたらムカつかないでいる方がおかしな話ではないか。
もちろんこれまでも、怒りを感じなかったというわけではなかったのだと思う。
それを上回るような圧倒的な恐怖で蓋をされていたというだけで。
だが、
その蓋は、以前に比べると、何故だか少しばかり軽くなっていたように思えた。
以前はあんなにも重くのしかかっていたというのにだ。
もう、いいんじゃないかな。
もうこの蓋は、持ち上げて取っ払ってしまってもいいんじゃないかな。
そう思った。
今なら持ち上げられそうな気がするのだ。
「……ぶふっ」
肘に走る気持ち悪い衝撃。
ぼくの髪に、刈谷の苦悶の声と、唾とおぼしき水滴がかかる。
刈谷はぼくが大声で助けを呼ぶことこそ想定していても、反撃をすることなんてまったく想定していなかったに違いない。そんなふうに舐め腐ってくれたおかげで、刈谷のどてっ腹のだいぶ深くに、ぼくの肘鉄は綺麗に決まってくれた。
多分、だが、
ぼくはキレていたんだと思う。
ぼくの人生に災厄ばかりを与えてくれた刈谷に対し、いいかげん我慢の限界を迎え、俗に言うキレるという状態に入ったんだと思う。胸中に生まれていたのはもうどうにでもなってしまえという自暴自棄にも似た感覚だ。なんならこのまま殴り合いの喧嘩に発展したって一向に構わないくらいだった。
だが、ぼくにもまだ一抹の理性が残っていた。ここには刈谷たちに怯える例の少女がいる。彼女を助け出すのが最優先事項だ。ぼくは刈谷へのあふれる殺意をどうにか押しとどめ、ターゲットを変えることにした。
「こいつ!」
「やりやがったな!」
金髪とグラサンがぼくの凶行に気付いて憤怒の形相へと変わるが、そんなの知ったことか。多分今のぼくの方がよっぽど怒り狂っていたはずだ。
「うああああああああああああっ!!」
荒々しく咆哮しながら、ぼくはそいつらに向かって獣のように突っ走っていった。
両手を上げ、二人の喉首を勢いよく鷲掴みにしようとする。
がしっ。ばしっ。
さすがにモーションがバレバレ過ぎたか、ぼくの両手は二人の男たちの手によってそれぞれガードされてしまった。が、別にそれでも問題なかった。ちょっとでもぼくから気を抜いたらまずいことになるぞ。そう認識させられればもうそれでよかったのだ。
「……逃げろ!」
ぎりぎりと男たちと押し合い合戦を繰り広げながら、ぼくは男たちのすぐ横にいた少女に向かって、引き絞るような声で言い放った。
「で、でも」
「いいから逃げろ!」
「……っ」
再度言い放つと、躊躇いの表情を見せていた少女は今度こそ決意してくれたようで、こちらに背を向けて裏路地の奥へと駆け出していった。それを見届けると、身体から力が一気に抜けていくのが分かった。火事場の馬鹿力タイム終了のお知らせのようだ。
「……この野郎が!」
「いつっ」
力が抜けたせいか、ぼくはグラサンによってあっさり体勢を崩され、仰向けに寝転ばされる。
「……伊角、てめえ!」
肘鉄のダメージから回復したのだろう、刈谷がこちらにずかずかと近付いてきた。ぐいと胸ぐらを掴まれる。至近距離で見る刈谷の顔にはまんべんなく朱が注がれ、見るからに怒り狂っているようだった。
ああ、やれやれ。
ぼくの人生のハイライトが、もう終わりを迎えたようだ。
ちょっと短過ぎやしないだろうかと思わなくもないけれど、しかしそれは確かに存在した。その事実だけで十分だった。
これからぼくはこの三人の男たちによってボコボコにノされることだろう。
だが、それがなんだというのだ。
ぼくなんかのようなダメダメな男が、あの刈谷に逆らって、不意打ちの一撃さえ決めて、一人の少女を不良どもの魔の手から救い出したのだ。信じられない偉業ではないか。とても晴れやかで誇らしい気分だった。果てない高揚感があった。後顧の憂いなんて何一つとしてあるものか。あまりの気分のよさに歌の一つも歌ってしまいたいくらいだった。
そうだ。歌といえば。
「何笑ってんだよてめえ!」
自然と笑顔になっていたらしい。それが刈谷の気に障ったようだ。なんだかそれが妙におかしくて、ぼくはふっと鼻を鳴らす。
「……別に。ただ、ピアノの前でお上品なボイトレばっかりしてなくてよかったなって思っただけだよ」
そして、そんなことを口にしてみる。
深原さんとの歌の特訓が、あの筋トレの日々が、この偉業を可能にしたのではないかと、そんなふうに思ったのだ。
「おい、てめえ、どういう意味だよそりゃ」
「お前には関係ないことだよ」
「……っ!」
調子に乗ってそんなことまで口走る。すると刈谷もとうとう我慢の限界を迎えたらしく、拳を大きく振りかぶった。反射的に目をつぶるぼく。
そして、
ばこぉん!
ぼくは刈谷に盛大に殴られ――なかった。
「……痛っ!」
目を開くと、刈谷がぼくのすぐ前で、忌々しげに表情を歪ませて身体をわずかにのけぞらせていた。
カンッ、コロコロ……。
水がたっぷり詰まったペットボトル。それが地面に落っこちて、壁際へ向かってのろのろと転がっていった。どうやらそれが突如として飛来してきて、刈谷の顔面をもろに叩いたらしい。
「……やれやれ、間一髪間に合ったか」
声が聞こえてきたのは裏路地の向こう側、先ほど少女が駆け出していった方向からだった。
がっしりとした大きな身体、三白眼の鋭い双眸、突如としてぼくたちの前に現れたのは、クラスメートの花井くんだった。果たしてそれは偶然か、よく見ると花井くんもまた肩からギターケースを提げていた。
さらによく見てみると、そこにいたのは花井くんだけではなかった。先ほど逃げていったはずの少女もそこにいたのだ。彼女は花井くんの巨躯の陰からこちらの様子をちらちらと心配げにうかがっている。ああそうか。彼女が助けを呼んできてくれたのか。
「事情はだいたいまひるから聞いた。伊角が身を挺して守ってくれたようだな。礼を言いたいところだが、その前に、別の意味で礼をせねばならんやつらがいるようだな」
花井くんの三白眼の瞳が邪悪に輝き、その場にいたぼく以外の三人を順繰りに睥睨していく。ひっ、と金髪が怯えたような声を出す。
「さて貴様ら、おれの妹に、世界一可愛いおれの妹に、こんなにも怖い思いをさせておいて、一体どうやって償ってくれるつもりだ? まさか五体満足で帰れるなどという思い上がった考えを抱いてるやつはいないだろうなあ?」
――なるほど。
花井まひる。
少女は花井くんの、一つ違いの妹だったらしい。目の中に入れても痛くないくらいの可愛い可愛い妹だったらしい。それなのにこんな連中に目をつけられ、絡まれ、逆鱗に触れないわけがなかったのだろう。花井くんは両手をわきわきと動かしながらひりつくような殺気を撒き散らしていた。表情が笑顔なのが逆に不気味でならなかった。
「ちっ、やるぞ!」
「お、おう!」
グラサンと金髪が交互に吠え、花井くんに襲いかかっていった。
いくら花井くんが恵まれた体格をしていたとはいえ、二対一はまずいんじゃないだろうか。
というぼくの不安は、完全に杞憂だった。
ばしっ。ばしっ。
涼しい顔で、花井くんは二人の拳を掴んだのだった。
ガードしたのではなく、掴んだのである。その左右の掌で。ドンピシャのタイミングで。
どんなデタラメな動体視力をしているのだと、思わずぼくは突っ込みを入れたくなった。
「……フッ、フフフフハハハハハハハハハッ!」
「い、いでででででででで!」
「や、やめろやめろやめろ! ちぎれる!」
そのまま花井くんは魔王のごとき哄笑を上げながら、二人の男たちの拳を力強く握り込んでいく。たったそれだけのことなのに大の男二人が悶絶状態に陥っていた。まるで万力だ。花井くんの後ろではまひるさんがなんだか申し訳なさそうな顔をしていたりする。
二対一が何のメリットにもなっていなかった。例えるなら象とアリ。力の差が歴然だった。
「……ちっ!」
刈谷が大袈裟に舌打ちし、花井くんに背を向けて走り出していった。
たとえ三対一でも花井くんには到底太刀打ちできないと判断し、この裏路地から抜け出ようというつもりなのだろう。戦略的撤退というやつか。
ぼくとしては少女、もといまひるさんを助けられればもうそれでよかったので、刈谷の逃亡の邪魔立てをするつもりはなかった。
だが、それをよしとしない者が、新たにここに姿を現した。
「どこ行く気だい? 大将」
唐突にかけられた声に、刈谷がその場に立ち止まる。
茶色がかった長めの髪、どこか色気のある垂れ目がちの瞳、花井くんとは逆方向の裏路地の奥から現れたのは、花井くんと常に行動を共にしていた少年、町田くんだった。
彼もまたギターケースを提げており、それを壁にそっと預けると、こちらへ向かって静かに歩いてきた。ポケットに両手を突っ込んで、威風堂々とした雰囲気を漂わせながら。
「勝てない相手と踏んだら仲間捨ててとんずらか。男じゃねえなアンタ」
なんというか、一昔前の粋な不良みたいなことを口にする町田くんだった。だがその物言いは町田くんに妙に似合っていた。
「……お、おいお前! そこどけ!」
「嫌だね」
刈谷の要求をあっさりはねのけ、町田くんは足を止める。刈谷の行く手を遮るかのように。
「どけっつってんだろうが!」
刈谷が地面を勢いよく蹴り、町田くんに向かって猛然と襲いかかる。刈谷は平静さをすっかり失っているようだった。何をしでかすか分かったものじゃない。
「ま、町田くん!」
ぼくは狼狽の声を上げた。
「……ふん」
しかし町田くんは冷静だった。刈谷の渾身の右ストレートをしなやかなスウェーであっさりかわす。
そして、
ぐごっ!
ポケットから抜いた拳を、刈谷のみぞおちに容赦なくぶち込んだ。素人目にもそれと分かるくらいの強烈無比なカウンター。刈谷の身体がふわりとわずかに宙に浮く。
一秒と待たずに刈谷は着地するが、すぐに膝を折り、どすんと前のめりにぶっ倒れた。たった一撃で昏倒と相成ったらしい。その身体は身じろぎ一つしようとしない。
「こっちも片付いたぞ」
花井くんがお気楽な調子の声を上げる。そちらに目を向けると、金髪とグラサンが花井くんの前で仲良く地面に突っ伏していた。こちらもとうに意識を失っていたようで、刈谷同様ぴくりとも動かない。まさに完封だ。二人のあまりの強さにぼくは呆然とするばかりだった。
「そうか。ったく、最近の男どもは根性がねえぜ」
ため息交じりにそう言うと、町田くんはゆっくりとこちらに向き直った。へたり込んでいたぼくのところに近付いてきて、おずおずと手を差し伸べてくる。
「……まあ、お前はちったあ、根性あるみたいだけどよ」
そんなことを言いながら。
その表情は、微妙に気恥ずかしそうなものになっていた。
正直ぼくは、まひるさんを助けることができただけで十分だったのだ。なにぶんコンプレックスの塊みたいな身であるがゆえ、自分なんかが人様のお役に立つことができたというその事実に、誰よりも救われていたのは実はぼく自身だったのだ。
それなのに、その上さらに、ぼくの行動を評価してくれる人がいる。
なんかもう、嬉し過ぎて、正直ちょっと泣き出したい気分だった。
「おい、さっさと立てよ。恥ずかしいだろうがよ」
「ご、ごめん」
ぶっきらぼうに急かされ、慌てて町田くんの手を取り、立ち上がる。
『一体何があったの!?』
「うえ!?」
叫ぶような声が突如頭上から降ってきて、ぼくは軽く跳び上がった。
慌てて空を振り仰ぐと、心配そうな表情を浮かべた深原さんがそこにいた。頭上約三十センチくらいのかなりの至近距離だ。どこで何をしていたのかは知らないが、用事を終えてぼくのところへ戻ってきたらしい。
「どうした? 変な声上げて」
町田くんが不審げに声をかけてくる。花井兄妹も訝るような顔でこちらを見ていた。
「え、ええと、その、今のは」
まずい。言い訳の台詞がまったく思い付かない。こういう予期せぬ事態には昔からてんで弱いのだ。ぼくがしどろもどろなリアクションを絶賛披露していると、花井兄妹のやって来た裏路地の向こう側から、思わぬ助け船がやって来た。
「お前たち! そこで何をしている!」
と、叱声が響き渡ったのだ。毅然とした大人の男の声だった。ぼくたちはそれぞれ顔を見合わせて、一目散にその場から駆け出していった。




