【第二章 春】(四)
放課後校内に残って若干の時間を捧げたとはいえ、今日は午前授業だったためあたりはまだ全然明るかった。空は雲一つない晴れ模様で、気温はぽかぽかと暖かく、吹く風も爽やか。文句のつけようのない実に心地のいい午後だった。どんよりとした曇り空が広がっていたのはどうやらぼくの心の中だけだったようだ。
「……どうしよう」
学校からの帰り道、ぼくは自転車屋で修理してもらった自転車を漕ぎながら、一人途方に暮れていた。多分普段の運転の半分くらいのスピードしか出ていなかったと思う。
本当に、どうしたものだろう。
あんな恥ずかしい場面をクラスメートに見られてしまった。しかも見られた相手があの二人ときた。運がないにもほどがある。
あの二人はリア充だし、不良寄りだし、どうしたって思い出してしまうのは刈谷のことだった。何故ならあいつも中学時代はそんなポジションだったのだ。中学時代の悪夢の再来はないとは思うけれど、それでも卒業するまでからかわれ続ける程度の憂き目には遭うかもしれない。ずーんと気分が急下降していくのが手に取るように分かる。
『考え過ぎだよ。伊角くんをいじめてたあいつとあの子たちは違うでしょ? もしかしたらこれがきっかけで友達になれるかもよ?』
……と、楽天家の深原さんが今ここにいたらきっとそんなふうに言ってのけるのだろう。確かに刈谷と彼らは違う。もちろんそこまで彼らのことを知っていたわけではないが、それでも刈谷なんかと同一視してしまってはさすがに失礼が過ぎるというものだ。
とはいえ、刈谷の幻影をそう簡単に振り払うことができずにいたのも紛れもない事実だ。
小花さんの件もあるし、刈谷のことは今後もトラウマとしてぼくの中に居座り続けるのだろうか。気の滅入る話だなと思いながら、ぼくはなおものろのろと自転車を漕ぎ続けていく。
「――――て」
「……え?」
そんなとき、ぼくは唐突に自転車のブレーキをかけた。背後を振り返る。
そこは既にぼくの地元である長町駅周辺だった。スマホに没頭している女子高生、携帯ゲーム機で対戦中らしい小学生たち、台車の荷物を運搬中の運送会社のお兄さん、少なくとも視界の中の街並みには、およそおかしなものなど何もなかったように思えた。
しかし、ぼくは嫌な予感が拭えなかった。
……気のせいかな。
今誰か、助けて、って言ったような。
ぼくは無言でスタンドを立てて自転車をガードレール脇に停車させる。きょろきょろとあたりを見渡しながら、声が聞こえたとおぼしき方向へ慎重に足を運んでいく。
――ややあって、
ぼくはその場面に遭遇した。
建物と建物の間にある、薄暗くて狭苦しい裏路地。日当たりの悪さが原因か、カビ臭さにも似た嫌な臭いがほのかに立ち込めている。
そんな裏路地の奥の方に、彼らはいた。
刈谷と金髪とグラサン、いつぞやの三人の不良連中が、とある一人の少女を取り囲んでいるところだったのだ。
ぼくは速攻で物陰に隠れた。
集中力を総動員し、刈谷たちの動向を耳だけでうかがう。
耳に入ってくるのは、刈谷たちの下卑た笑い声だった。どうやら少女にちょっかいをかけた際の、その反応を楽しんでいたらしい。ぼくにはそれの何が楽しかったのか一向に分からなかった。分かりたくもなかった。
今はまだ刈谷たちも、あくまでちょっかいをかける程度の行為にとどめていたようだが、それだけで満足してくれるとは思えない。そんな保証なんてどこにもない。いや、だいたい刈谷という男の悪玉っぷりはぼくが誰よりも知っていたことではないか。希望的観測なんて愚の骨頂だ。可及的速やかになんらかの手を打つべきだろう。
そう、頭では分かっていたのだ。
だというのに、ぼくは金縛りに遭ったみたいにその場に凍り付いて動けずにいたのだ。
やはり、トラウマは根深かったようだ。自分が標的になっていたわけでもないのにこの体たらくである。まったくざまあない。
やめてください、と、少女の悲痛な声が響く。
その声により、ぼくはあの日のことを、数ヶ月前の夜のことを否応なしに思い出させられた。
形こそ若干違えど、かつてはぼくも刈谷たちに、あんなふうに取り囲まれて、窮地に立たされていたことがあったのだ。
それを救ってくれたのが、深原さんだった。
深原さん。
はっきり言おう。彼女はぼくの憧れだ。
明るくて、いつも笑顔で、他人のために全力で一喜一憂することができて。
なれるものならあんなふうになりたい。
ずっとそう思っていた。
――馬鹿め。
違うだろ。
何が、なれるものなら、だ。
そんな他人事みたいな考え方ばかりしているからいつまで経ってもなりたい自分に手が届かないのだ。
ぼくは今岐路に立たされている。
おそらくはぼくの人生に大きく関わる極めて重要な岐路。
このままずっと臆病者の伊角洸一として惨めに生きていくのか。
それとも、そんなくそったれな人生に反旗を翻すのか。
決断するときは今なのだ。
――ぎりっ。
ぼくは奥歯を噛み締めた。




