貧民街
比較的気候に恵まれている西方域でも暦も中頃を過ぎ、初夏の季節を迎えた先頃は薄着でもじわり、と汗が滲む真夏日の如く日は例年を見ても少なからず訪れる。それは西方域最大の都市であり、列強として知られるこの国の王都でも繁栄の度合いとは関わりなく暑さとは平等で……。
私は額に滲む汗を右手で拭う。
恨めしく見上げた先、燦々と輝く陽光が青空で主張する……今日は正にそんな日であった。
「オットー、何をしている先を急ぐぞ」
路上に馬車を止め、既に地上の人となっている我が主人の呼び掛けに私は御者台を離れ馬車から降りる。
私の名はオットー・ロドリゴ。
少し苛立った様子で私を待つ背の低い小太りの中年の名はダグス・エルマン。我が主にしてエルマン商会の会頭である。
…………。
少々、表現に問題があったかも知れないので誤解が無いように訂正しておくが、私はこの主人の事が決して嫌いな訳ではない。彼は決して善人とは言えないが然りとて悪人と呼ぶ程に性格が歪んでいる訳ではないので、こうして時折起こす癇癪を除けば基本的には使用人たちにも偏見や差別を持たない、まあ、良い部類の雇い主である。それに商人としても優秀で一代で自身の商会を中堅と呼べる規模にまで育て上げた手腕は何れは独立を考えている私としては見習うべき点の多い良き教師とすら言えるのだ。
周囲を見渡せば平凡な街並み。
大通りに面したこの辺りの歩道も車道も決して整備が行き届いているとは言えぬ些末さはあるものの、新たに新築された家屋や建物がちらほら、と視界に映る街の光景は後の発展を想起させるある種の空気を感じさせる。それは期待感と言う別の言葉に置き換えても良い確かな商機の臭いであった。
王都の郊外の内でも最大の面積と住民の数を有する地域、貧民街は今や変貌を遂げつつあり、急速な成長の兆しを見せるこの街の変化に着目する者は未だ少ない。そうした意味合いでも早期の段階でこの街に進出しようと目論んだ我が主人の目利きと先見の明はこうして肌で街の空気を知った今では流石と呼ぶべきものだと感心すらしている訳だが……。
しかし。
「旦那様、少し休憩を挟んでは如何でしょう、この炎天下で日中こうも休みなく移動を重ねては体調を崩してしまわれますよ」
自分とは異なりもう若くも、まして緩んだ体躯を見れば知れる通り体力も余りないのだから、と思いはすれど火に油を注ぐだけなので最後の本音の部分は当然口には出さない。
「馬鹿者っ、商人が満足に商談も纏められず何を呑気に休息なぞ、まだまだ自覚が足りんぞ若造め」
いや、少し冷静にならねば纏まるモノも纏まらんでしょ、と流石に諌めたくもなるが……癇癪を起こしているこの人に何を言っても聞き入れないだろう事は短くはない付き合いで十分に知っても、思い知ってもいたので、此処は素直に、申し訳御座いません、とだけ軽く頭を下げておく。
「まあ……良い、此処での交渉の後で少し遅いが昼飯にするとしよう、それで良いなオットー」
はい、と頷く私に顰めっ面を崩さぬ主人は無言で背を向け、目的の店へと歩き出し私もその後に続く。
言葉と態度は時に横暴ではあるが、最後は感情に流されず私の気遣いを察して受け入れる、こうした根っ子の部分では素直な主人の在り方は間違いなく美点と呼べるものであると私は思っている。
それに、と向ける視線の先、今日四件目となる店が視界に映り込み、破談……とさえ言えぬ先の三件の店での取り付く暇もなく交渉にすら至らぬ冷たい対応が思い起こされ、はあ、と内心で溜め息が漏れる。予期出来るこの先の展開を前にしてまた主人の焦りと癇癪に拍車が掛かるのではないか、と。
そんな私の耳に、路上にたむろしている幼い子供たちの笑い声が聞こえて来る。
それは一服の清涼剤の如く、純真無垢な幼子たちの無邪気な語らいは小鳥たちの囀りの様に陰鬱な私の気持ちを僅かばかりではあるが晴らしてくれる。意識せず声の方角に顔を向けた私は恐らく十歳にも満たぬであろう、一人の少女と偶然にも視線が合い……此方の存在に気づいた少女は屈託のない満面の笑みでそれに応えてくれる。
他の子らも少女の様子を見てから倣うように私に手を振って見せてくれ、その友好的な姿に私も自然に手を振り返していた。排他的な大人たちと比べ余所者である自分たちに対しても線を引かない子供たちの様子に荒んだ心が癒されるのをこの時私は確かに感じていた。
のだが……同時に強い既視感に襲われる。
貧民街は広く、この刻限まで北に南に、東に西に、私と主人はかなりの距離を馬車で移動を重ねてきた訳なのだが、降り立つ通りには、路地には、決まって今の様に子供たちの姿が在った事を思い出したのだ。
これは偶然なのか……これではまるで幼子たちに自分たちの行動を観察され監視されている様ではないか。
と、漠然と生じた不安に、いや、そうじゃない、と一瞬の刻思考を巡らせ相反する判断を私は下す。
この街は貧民街の由来の通り、人種を問わず王都に集う貧者たちが寄り集まって出来た街であり地域である。多くの差別と偏見に晒されてきた歴史的な経緯ゆえにこの街の住民たちは他の地域に住まう者たちに対して極めて排他的な特性を持つのだ。
そして貧民街が経済的な側面で成長の兆しを見せ始めたのは今年に入ってからであり、相対的にはまたまだ生活に困窮する貧しさから多くの者たちが脱却出来ているとは思えない。ましてこの街で多く見かける幼子たちの年齢を考えて遡れば、過去に置いて更なる貧しさの内で下世話な話ではあるが彼らに許された金の掛からぬ娯楽など精々が子作りくらいであったのだろうと推察出来る。
つまりは統計的にもこの街は他の郊外の地域や中心街に比べても人口の内で子供たちが占める割合は群を抜いて多いのだろう、と。そう考えれば何処に向かっても必ず出会うと言うのも偶然と断じても不自然ではないのかも知れない。
成長が著しい街に多くの子供たちの存在……果たして商人としてこれ程魅力的な商いの場が他にあるだろうか。一年先、二年先では無理だろう、だがこの街の幼子たちが成人を迎える十年、十五年と言った先の未来、この地を貧民街などと蔑む輩は一掃されるかも知れないと私は思う。何れは中央街と並ぶ王都の二大拠点として、この街が西方域の経済を担う可能性を私は幻想や願望ではなく実現し得る未来として強く期待を抱いていた。
流石は我が主人……目の付け所が違う。
自分が将来独立した折にはこの街に商会の基盤を設けよう……そしてその為の布石としても今は優秀な師匠である我が主の商談を成立させる為に尽力する事を改めて思い定め、つかつかと前を闊歩する小太りの背に追い付く様に小走りに歩みを進めるのだった。
背には目は無くゆえにこの時の私は気づけない。
友好的な笑顔で私たちの姿を見送る子供たちの瞳の奥に宿す想いの色に。小声で囁き合い、申し合わせた様に頷き合う子供たちの行動に。
子供とは純真無垢な存在であり嘘など付かず他者を騙し偽る様な真似などしないのだ、と言う先入観から来る馬鹿げた思い込みに……。
お久しぶりでございます。




