憎悪とは不毛な感情ではあるが腹いせには丁度良いモノである
私の手の内で力が抜けた彼女の……クラリスさんの手をそっと添える様に胸元へと戻す。
床に伏して眠る彼女の顔は不思議と穏やかで、涙の跡は見られるが今は苦しみからは解放されているのだろう、とそれが救いであると僅かでも思える程度には何とか己を自制出来ている。
「クリス様、何か誤解が有る様なので弁明させて頂きたいのですが」
「黙れよっ……今はね」
立ち上がる私の背に糞商人の声が届いたが、相手をするのは今でなくて良い。そう……今はまだやるべき事が残されているからだ。
「どうするクリスちゃん、回復薬なら手元に有るけれど?」
「いや、駄目だアベル君、回復薬は使用者の精神と肉体に負担が掛かる。今の状態のクラリスさんには返って逆効果になる」
其ほどに今のクラリスさんは危うい状態に在る。けれどまだ処置を施す猶予は残されているし私はその為の手段も有している。だからさっさとこの馬鹿げた舞台劇を終わらせてしまうのが結果としてクラリスさんを救う為の最も効率的で合理的な判断なのである。
だからこそ、私は努めて理性的であろう、と努力に努力を重ね何とか感情を自制出来ている。
「助祭殿っ!!」
「ティリエール助祭!!」
この地下聖堂に向かう道中で合流した修道司祭たちが遅れて姿を見せる。先行していた分、兵士たちの集団を最小限度で回避出来た私たちと通路で鉢合わせた彼らとの差が時間的な誤差を生んだのだろう。
「丁度良い、早くクラリスさんを安全な場所に、それと出来るだけ部屋を暖かくして寝台へ、少しでも彼女の体力を温存させて置いて欲しい」
機会としては頃合いでもあった。聖堂の奥、御子様とやらは膨れ上がりその影は今や天井へと肥大した影を張り付かせている。これでは最早身動きすらままならず此方から接近でもしない限りはまず能動的に行動して来る事はないだろう。
だが、修道司祭たちの反応は即断とは程遠く、視線の先、悪魔の異形を見据える彼らの表情には躊躇いが見られた。
「しかし……アレの討滅は我らが使命。見た限り遠からず自壊するにしても我らには見届ける義務がある。ゆえに此処は我らに任せマクスウェル殿が助祭殿を連れこの場を離れる方が得策ではあるまいか」
そのふざけた物言いに……握る拳に力が籠る。
今更こいつらは何を言っている……どの口が平然とそれを吐いて捨てるのか。
彼らが無能ならばそれも許せよう。
彼らに対処出来ぬ事態であったなら責める様な真似はすまい。
だが、と私は修道司祭たちの帯剣に目を向ける。刀身に帯びるのは『光』の輝き。原理としては聖水と同じ。恐らくは神殿に奉納されていた神刀、宝剣の類いなのだろう。長い年月を掛けて定着した『光』が一種の付加魔法の役割を果たしているのが見て取れる。
彼らの力量とその剣であれば、あの程度の出来損ないの対処など容易とは言わずとも可能であった筈なのだ。けれどどうだ……結果として全てをクラリスさん一人に押し付けて結局はこの様である。
彼らなりの思惑や目算があったのだろう事は別に良い。そんな話はお互い様で私が何かを言えた義理ではない。しかしその過程において何か不測の事態が起きたとしても、何か止むに止まれぬ事情があったのだとしても、そんな事情など私の知った事じゃない。こんな連中にクラリスさんの身を預けていたかと思うと我ながら己の人を見る目の無さに呆れを越えて怒りを覚えてしまう。
「時間が惜しい、無駄な問答は止めないか……そうじゃないと」
堪らなく殺してしまいたくなるから。
「それにあの木偶を自壊なんてさせないさ……俺のクラリスさんに手を出して、こんな真似をしくさった代償はきっちり払って貰う。訳も分からず勝ち逃げなんて、おれ……私がそんな終わらせ方を許す筈もないだろう」
しかし、と尚も言葉を重ねようとする修道司祭たちに私は手を翳して制止する。理由は簡単で……これ以上は本当に私の忍耐が持ちそうにないからだ。
「お前たちの使命なんぞ知った事か、これは私の闘争だっ、口を挟むな聖職者!!」
全く以て柄じゃない。私らしく無いにも程がある。だがどうにも性分なのか……親しい女性の涙を前に冷静ではいられない。普段は知った様な物言いで、生意気にも分かった様に世界の理を語ろうと、結局の所、所詮は私もその程度の人間なのだ。
だからこれはもう本当に仕方がない。
「手柄は全部くれてやる、必要ならばゴレゴリオ司祭長とも私が直接話をしよう。それでも尚、不服と言うのなら覚悟の上で剣を抜け……この場で話を付けてやる」
真っ直ぐに向かい合う三者の眼差しが私を見据える。
この三人の顔は朧気に記憶に残っている。以前司祭長と郊外に向かった折りに同伴していた修道司祭たちの内に見た顔だ。ならば私と司祭長との関係性も多少なりとは心得ている筈。それでも否と言うのなら……私の覚悟を示すまでの事。
「承知した」
簡素な返答と共に修道司祭の一人が眠るクラリスさんを抱き抱え、聖堂の出口に向かい走り出す。もう一人もその後に続き私と問答を交わした者のみが一人この場に残っている。
「使命ゆえ、私は全てを見届けさせて頂くが宜しいな」
「好きにすれば良いさ」
私は一言告げて向き直り、視界の先、牽制しているのだろう、抜刀したままエルベントさんとの距離を測っている赤毛君の背が映る。
「アベル君、彼の事は今は良い。それより君の剣を」
本音を言えばクラリスさんを傷つけた悪魔は私の手で塵芥残さず全てを消し去ってやりたいが……古来より悪魔を討つのは騎士や英雄の務めと相場は決まっている。ならば私もそれに倣おう。
私の意を汲み取ったのだろう、赤毛君は眼前に刀身を翳し、身長差を考慮して私の前で膝を突く。さながらその光景は騎士が己の剣を捧げる作劇の場面の如く、私は手を伸ばし刀身に直接指を沿わせて刻印を刻み綴っていく。瞬間、並列展開させた魔方陣が私の周囲を輝く魔紋で埋め尽くす。
手順としては『詠唱棄却』すら行わない一般的な技法と単純な術式の積み重ね。一見すれば特異な点など見られぬだろうが複合させていく付加魔法には剣の耐久限度まで私のありったけを込めてやる。
「何と言う演算速度……そして何より美しい」
それは神聖なる儀式にも似て。
まるで精霊様の祝福の様だ、と呟く修道司祭の見開く眼は信仰ゆえに幻想的とでも映るのだろう、私の姿を一重に見つめ、それを横目に最後に綴る刻印を虚空の先へと切り結ぶ。刹那に魔方陣は砕け散り、大輪の花びらが散る如く光の淡い輝きは大気に溶けて消えていく。
誰もがその光景に目を奪われている様なので、折角なので衆目の期待に応えてやる事にする。
「ぶっ殺せ、アベル君」
努めて主の御使いの如く、啓示にも似て厳かに上品に私はそう告げてやる。




