★悪魔は来たりて
騒がしさを増す虚空には無数の鴉が飛び交い、空を見上げれば西の方角から嵐の到来を告げる厚い雷雲がこの地を飲み込もうと勢力を増している。
この季節の嵐は非常に厄介なモノで、土地柄として強風を伴う豪雨は土砂崩れを誘発する危険を孕むだけでなく、排水が難しい昔ながらの林道は溜まった泥濘に車輪が嵌まる危険性が増す為に馬車などの移動手段が困難となり必然的に砦を含めた近隣は隔絶された、とは言わぬまでも半ば陸の孤島と化してしまう。
それは嵐が過ぎ去るまでの一時的なモノではあるが、現在の砦がおかれた状況を鑑みれば残された渦中の者たちの心中が穏やかざるのは言わずもがなであり、ゆえに砦全体を落ち着かぬ不穏な空気が支配してしまうのは致し方がない事ではあった。
そんな中、迫る嵐の気配を避けるが如く正門の内、五台の荷馬車が並んでいる。役目を果たした空の荷台から察せられる様にそれは物資の搬入の為に砦を訪れていた荷馬車であり、御者役を務めた冒険者たちも帰路に着くべくこの場に集まっていた。
★★★
「本当に俺たちだけ先に戻って良いのか?」
「嵐も近づいているしね、降り出す前に帰してあげてってのがクリスちゃんの意向なんだから。まあ良いんじゃない?」
見送りに姿を見せた赤毛の青年、アベル・リナヴェルが肩を竦め軽い調子で言い放つ様子に俺は同様に肩を竦めて見せる。
正直に言ってこの判断は意外であったからだ。
今や砦では祟りや呪いと言った話が兵士や下士官の間でも終始持ちきりになる程に情報の統制が効いていない。俺たちの如く外部の人間、しかも冒険者などにまで情報が筒抜けになる様では滞在していると言う調査団の存在すらも最早、箍とは成らぬ程に信を失っているのだろう。
それだけ畏怖と共に兵士たちから語られる悪魔の存在が現実の驚異として迫り来る中で、即戦力である俺たちを頼る事なく遠ざけようとする意図がどうにも不可解でならぬのは言うまでもない。
「あんたらの実力を軽んじての判断じゃない事だけは確かだと思うけどね、恐らくクリスちゃんの性格からしても危険を伴う厄介事にあんたらを巻き込みたくなかったんじゃないのかなあ、と思うけど」
「巻き込む? 一束幾らで命を遣り取りされる俺たち冒険者の身をか? それは……」
実に面白い冗談だ、と返そうとする俺の脳裏に旅の道中での光景が過り言葉を飲み込む。
マクスウェル商会の会頭を名乗り旅路を共にした恐ろしく容姿の整った少女とは結局旅の間でも二言、三言しか会話を交わした記憶しか残ってはいない……が、思い起こせば宿場では必ず食事を共にしていたし酒宴にも隅でげんなりしながらも参加していた気がする。
身分も卑しい冒険者とは同じ空気を吸う事すら厭う依頼主も多い中で、あの年頃の金持ちの娘が、良家の令嬢であろう少女が見せた不可解な行動や態度は今の発言を訊けば気づかされる事もある。
「なるほどな……夢想家の博愛主義者って訳かい」
「んっ? 違う違う、正解とは程遠い解答だねえ、それは。あの子はさ、そんなんじゃないんだよね、言ってみれば面白く箍が外れてる……本当に興味が尽きないよクリスちゃんはさ」
もう少しだけ近くで付き合って見れば分かる、と愉快に屈託なく笑うアベルの姿に、そうか、としか言葉を返せぬのは、其処に誰もが知る血塗れ狼の面影は無く素の表情を見せる年頃の青年の姿に軽い驚きを抱いていたからだ。
「あの『赤狼』が個人の身辺警護などと信じ難い話に耳を疑っていたものだが……随分と御執心な様子で何よりだな、変わり者同士気が合うのかい?」
「まあね、クリスちゃんの初めては頂戴する予定になってるよ」
その発言に思わず、ぷっ、と吹き出してしまう。
右から左、街娘も娼婦も所構わず手を付けてきた、と自他共に浮き名で知られる生来の色男が餌を待つ子犬の如く真顔でそんな言葉を宣う事が愉快でない筈もなく……俺は堪らず腹を抱えて笑ってしまう。心の底から笑うのは随分と久方振りで静まるのに少々の時を必要とする程に。
色々と面白い話も訊けた、であればこの辺りが引き際であろう。
「確かに仮に悪魔とやらが実存してもあんたが居れば問題はないだろうしな、ならば俺たちはお言葉に甘えさせて貰おうか」
今の言葉はアベルにと言うよりも既に各荷馬車の御者台で待機する仲間たちに向けてのものではあったが、内容に偽りは含んではいない。
冒険者にとって上級位のその先……最高位とは一握りの人外を指す言葉。ゆえに例え本物の悪魔と対峙したとしても、正直『赤狼』の異名を持つ最高位冒険者、アベル・リナヴェルが後れを取るとは同業の者として思い描ける絵図ではない。それだけ最高位の称号とは冒険者にとって特別なモノであるのだ。
「ああ、それと、此処だけの話、今年の昇級審査、上級位に上がる最有力候補はあんたらの一党だとあの嫌みな組合長が漏らしてたのを訊いたよ、中級位卒業おめっとさん」
去り際にさらっと掛けられた何気ない言葉……しかしそれが只の祝辞では無いことは明らかで、『知っているぞ』、調べは付いているぞ、と暗に含んだ物言いに俺は別れの挨拶を返すこと無く胸元の小瓶に手を添える。
「そりゃ本当の話なら嬉しい限りだな、あんたの倍は生きてるおっさんが今更何を、と思うかも知れんが仲間には若い連中も居るからな、組合長の期待に応えられる様に精々精進させて貰うとしよう」
開き直るつもりはないが俺はそう不敵に嗤って見せる。
「それと番犬君の御主人様に感謝と共に伝えておいてくれるかい。あんたの回復薬は本当に凄え代物で、だからこそ気を付けろってな。今回の件にしたってどの勢力の誰の思惑が裏でどう繋がっているのか知れたもんじゃねえってさ」
「ふう~~ん」
「聖堂に派遣されていた司祭が悪魔に喰われちまったって話、兵士からあんたも訊いただろう? けどよその司祭様が殺されたのは城主が組合に使いを出す前の話でな、つまり神殿も今の砦の状況を始めから全部知っててあの聖女様をこんな危険な場所に送り込んだってことだ。随分とそれはおかしな話だとは思わないかい」
「それで?」
「簡単に言えば誰も信用するなって事さ、当然……冒険者ギルドもな」
「で、あんたたちの本当の依頼主と目的は?」
「ぺらぺらとそれを話すとでも思うのかい」
ごくり、と息を飲む……が、一瞬の間を空けて、そりゃそうだ、と今度は何時もの飄々とした姿で笑うアベルから追求の言葉が及ぶことはなかった。
「王都に戻ったら御者役を務めてくれた事への対価として追加の謝礼を払うから商会に顔を出して欲しいってさ、忘れてたけどこれクリスちゃんからの伝言ね」
それが別れの挨拶。
用は済んだとばかりにあっさりと向けられる背を前に俺の視界に鬱陶しい鴉の羽ばたきと姿が映り込み、まるで一部始終を見られていたかの様な錯覚を覚える光景に俺はまた肩を竦めていた。




