Record: 01:越えられない壁、それ即ち『不採用』
暗雲が立ち込める空の下、切り立った岩壁の頂に、漆黒の城が聳えていた。
城門を閉ざすのは、鈍い光を放つ巨大な紫水晶の扉。その表面には幾重もの暗黒魔術による防護術式が刻まれ、許可なき者が触れれば、肉体はおろか魂までも塵へと還される。
そんな物騒極まりない城へ、その日、一通の封書が届けられた。
当然ながら、配達員が正門を叩くことはない。命がいくつあっても足りないからだ。城門脇に設けられた専用の受取口へ投函された封書を回収した小柄な魔物は、それを両手で抱えると、漆黒の羽を慌ただしく羽ばたかせて城内を飛んだ。
「魔王様! フェンリル様!」
長い回廊の先で、その呼び声に一人の男が振り返った。
フェンリル・エクリプス。
この城の主にして、正真正銘の魔王である。
灰色の髪の隙間からは、高等魔族に相応しい禍々しい角が伸び、鋭いアメジスト色の瞳には人ならざる光が宿っている。漆黒の装束を纏った長身の傍らには、膨大な魔力を秘めた暗黒の杖。窓の向こうでは紫電が暗雲を引き裂き、その姿を一瞬、青白く照らし出した。
どこからどう見ても、勇者を迎え撃ち、圧倒的な力で平和な世界を滅ぼさんとする魔界の王である。
フェンリルは魔物から封書を受け取った。
表には、すでに何度も目にした紋章が刻まれている。
『差出人・世界構築編纂局』
その名を認めた途端、フェンリルの表情が強張った。
手早く封を切り、中から取り出した一枚の書面へ目を走らせる。広い回廊を沈黙が満たし、やがて紙を握る指がわなわなと震え始めた。
「……くっ! おのれ、また書類落ちか!!」
魔王の絶望に呼応するかのように、轟音とともに城の外で紫電が弾けた。
──これは、世界構築編纂局によって魔王へ強制配属された男、フェンリル・エクリプスの成長録。
勇者適性ゼロでありながら、無謀にも現職とは対極にある勇者を目指す、努力と挫折の涙ぐましい軌跡である。
◇◇◇
「……あのー、フェンリル様。前から言おうと思ってたんスけど」
落胆するフェンリルの背後から、気怠い声が飛んできた。
声の主は、ヴェルナー・インフェルノ。
長年フェンリルに仕える側近である。
地獄の業火を思わせる赤い髪に、高等魔族の証である角。そして主と同じアメジスト色の瞳。その外見だけを見れば、彼もまた人間たちから恐れられて然るべき存在なのだが、本人から漂う気配は、魔族らしい威圧感よりも妙な気怠さの方が勝っている。
ヴェルナーは肩を落とした主をしばらく眺めた後、以前から胸に秘めていた至極真っ当な意見を口にした。
「そろそろ諦めません? 勇者枠」
「……何故だ、ヴェルナー。余は、こんなにも勇者という存在に憧れているというのに」
フェンリルの傍らにある柱には、これまで届いた不採用通知の数を示す「正」の字が、びっしりと刻み込まれていた。そろそろ柱一本が埋まりそうな勢いである。
「こんだけ送って不採用なら、もうこれ以上申請したところで──」
「ヴェルナーよ! この際、正直に申せ!」
「いや、だからさっきから言ってんじゃないスか」
フェンリルはヴェルナーの忠告など最初から耳に入っていなかったかのように、握り締めた不採用通知を掲げた。
「余のどこが不適格なのだ! 勇者に必要な条件は満たしている! やる気もある! 世界構築編纂局は、何故余の希望を悉く退けるのだ!?」
「……まぁ、最近は王道ファンタジー自体、流行じゃないっスからね。勇者が魔王を倒すとかより、魔王がサクサク畑を耕す方がウケてる時代なんで」
「余はそのようなスローライフを送る気など、毛頭ない!」
牙を剥いて声を荒らげた瞬間、窓の外で瘴気が渦巻いた。石造りの城そのものが低く軋み、空気を震わせるほどの魔力が全身から溢れ出す。
ひとたび本気になれば、人間界すら震撼させる最強魔王。
しかし、その力をもってしても「不採用」の三文字だけはどうにもならない。
「……一体、何が足りぬのだ。余は、勇者になれる器ではないというのか」
「フェンリル様」
すっかり死んだ魚のような目になっていたヴェルナーが、近くに置かれていた銀装飾の鏡を手に取り、主の前へ差し出した。
磨き上げられた鏡面には、麗しくも禍々しい魔王の顔が映し出されている。整った顔立ちに鋭い瞳、その額から伸びる角まで含め、どう見ても物語の終盤で勇者一行を待ち構えている側の顔である。
「……何が言いたい」
「ご自身の顔、よーく見てください。勇者、いけると思います?」
フェンリルは訝しげに眉を寄せ、鏡の中の自分をじっくりと眺めた。
正面から見て、少し顎を引く。
わずかに顔を傾け、今度は横顔まで確認する。
やがて、何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりに胸を張った。
「疑いようのない、紛れもなく整った顔だ」
「いや、そこじゃないっスよ」
あまりにも迷いのない回答に、ヴェルナーは鏡を持ったまま天井を仰いだ。
「フェンリル様。言っちゃあなんですがね、人には生まれ持ったスペックってものがありまして──」
「……ヴェルナーよ」
不意に低い声で遮られ、ヴェルナーが視線を戻す。
フェンリルは、それまでの絶望をどこへやったのか、妙に神妙な顔をしていた。
「この多様性の時代に、そのような偏見に満ちた差別的発言。読者から苦情レビューを書かれる覚悟はあるのか。SNSで炎上したとて、余は助けぬぞ」
「急にメタなこと言いますね、アンタ」
鋭い眼差しでヴェルナーを射抜いたものの、そこに宿っていた怒気は次第に薄れていった。窓の向こうでも、荒れ狂っていた紫電が遠ざかりつつある。
「余は……そんなにも高望みをしているというのか」
ぽつりと漏らし、フェンリルは暗雲の彼方へ視線を向けた。
「聖剣を携え、仲間とともに世界を平和へ導き、やがて聖女や女神と出会う。そして平和な世界を築いた英雄として、ひとつの伝説になる。……そんな王道ファンタジーの物語に、余もその名を刻みたいのだ」
憤りは、もうその声にはなかった。
ヴェルナーは手にしていた鏡を下ろすと、しばらく主の横顔を眺め、小さく息を吐いた。
「……まあ、希望を持つのはいいと思いますけどね。採用されない以上、どこかで折り合いをつけないと、自分が苦しくなるだけですよ」
「ヴェルナーよ。主は悔しくないのか」
フェンリルが振り返る。
「編纂局が一方的に決めた運命に、己の人生を委ねることが」
しかしヴェルナーは、その問いを深刻に受け止めるでも、反発するでもなかった。いつもの気怠げな表情のまま、軽く肩を竦める。
「……これが俺ですから。与えられた人生を、程よく生きる。波に呑まれず、波に乗る。俺には、こんな生き方が合ってるんですよ」
つい先ほど自分の口から飛び出した「多様性」という言葉が、そっくりそのまま返ってくる。
フェンリルは何かを言いかけたものの、結局それ以上の言葉を見つけられず、深い溜息とともに玉座へ腰を下ろした。
肘掛けに頬杖をつき、目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、聖剣を携え、仲間たちと肩を並べて旅をする、未だ叶わぬ自分の姿だった。
いつもなら、不採用通知を受け取るたびにひとしきり怒り狂い、すぐさま次の申請書を取り寄せる。それが今日は、妙に静かだった。
その落ち込みようを見かねたヴェルナーは、鏡を傍らへ置き、漆黒の大理石へ視線を落とした。
「……まあ、俺たちキャラクターは、所詮、創作神の手によって作られた存在ですからね。局長がすべての実権を握っている以上、俺たちにできるのは、与えられた役をこなして実績を積むことくらいですよ。そうすりゃ、次の転職では多少有利になるかもしれませんし」
慰めのつもりだった。
少なくともヴェルナーにとっては、それ以上でもそれ以下でもない、何気ない一言だった。
ところが、玉座に沈んでいたフェンリルの顔がゆっくりと上がる。
その瞳には、失われていた光が戻っていた。
「…………それだ」
「は?」
フェンリルは玉座から勢いよく立ち上がった。
落胆していたのが嘘だったかのように、全身からかつてないほどの覇気が立ち昇る。
しかし悲しいことに、それは覇気と呼ぶにはあまりにも禍々しく、どう見ても暗黒の気配でしかなかった。瞳は鈍い光を帯び、昂る魔力に呼応して周囲の空気まで震え始める。
人間界のひとつやふたつ、一瞬で灰燼に帰してしまいそうな勢いである。
「ヴェルナー! 余は決めたぞ! 世界構築編纂局が、この世界におけるキャラクターの役割を決める中枢であるならば、その長たる局長に直接交渉するのだ!」
「はい?」
「手土産は何がいい!? 魔界を代表する植物・マンドラゴラか、それとも主人に忠実な魔犬・ケルベロスが妥当か!?」
「いや……どっちも普通に迷惑でしょ」
すでに突っ込むことにすら疲弊し始めたヴェルナーをよそに、フェンリルの意識は完全に世界構築編纂局へと向いていた。
「局長に直談判する。書類だけでは余の適性が伝わらぬというのであれば、直接会って、この熱き思いを受け取ってもらえばよい! そうと決まれば、早速出陣の準備だ! 誰か、誰か居らぬか! 四天王を招聘せよ!」
「あー……あの、フェンリル様」
今にも魔王軍を率いて編纂局へ乗り込みかねない主に、ヴェルナーは気怠げな声をかけた。
「フェンリル様と俺、二人で十分っスよ。魔界四天王なんか引き連れて行ったら、編纂局がパニックになっちまう」
「む……それもそうだな」
「あと、魔王だってバレないように変装しますよ」
「そのようなものまで必要なのか?」
「アンタ、ほんと自分の立場わかってねえな……」
世界を滅ぼす側として生み出された魔王が、憧れ続けた勇者の座を求め、世界構築編纂局へ直談判に向かう。
フェンリルの脳内ではすでに、聖剣を携えて仲間たちの先頭に立ち、煌びやかな世界で人々から喝采を浴びる己の姿が、飽きもせず繰り返し上映されていた。
一方、その隣では、これから自分がどれほど面倒な事態に巻き込まれるのかを察し始めたヴェルナーが、何度目とも知れない深い溜息をついている。
こうして、最強魔王フェンリル・エクリプスは、勇者への第一歩を踏み出した。
──少なくとも、本人だけはそのつもりだった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました!
「面白かった!」「もう少しこの面々を見ていたい」と思っていただけましたら、レビューやブックマーク、高評価で応援していただけると嬉しいです。
作者が泣いて喜びます。
フェンリルとヴェルナーも喜びます。
フェンリル「うむ。高評価は歓迎するぞ」
ヴェルナー「……よかったっスねえ」




