第八十三記録【地球の裏側で見つけたもの】
DAY7
八月三十一日、金曜日。
午前十時。
リオデジャネイロ、コパカバーナビーチ。
ブラジル滞在最終日の朝。
ホテルのバルコニーから見上げる空は、私たちの別れを惜しむかのように、雲一つない抜けるようなターコイズブルーに晴れ渡っていた。
昨夜、あの誤算から始まり、限界まで開発され尽くした私の身体は、心地よい疲労と、腰の奥の気怠い疼きに完全に支配されていた。
私たちは帰国のフライトを午後まで遅らせ、最後の数時間をこのコパカバーナのビーチで過ごすことにした。
今日の私たちは、白のオーバーサイズTシャツに、色落ちしたデニムのショートパンツという、ラフで気取らないお揃いコーデ。
「茉莉子ちゃん、遅いぞ! ほら、走れ走れ!」
大樹がサンダルを脱ぎ捨て、裸足になって真っ白な砂浜を駆け出していく。
その背中を追いかけようと一歩踏み出した瞬間、太ももの内側にピリッとした痛みが走った。
「ちょっと待ってよ! 昨日の夜、誰のせいで腰がガクガクだと思ってんだよー!」
私が顔を赤くして文句を言いながら追いかけると、数メートル先を走っていた彼は、クルッと身軽に振り返った。
「アハハハ! あれは茉莉子ちゃんが可愛すぎたのが悪い!」
全く悪びれもせずに白い歯を見せて笑うと、彼はそのまま勢いよく私を迎え入れ、太い腕の中にすっぽりと捕まえた。
「きゃっ!」
彼の分厚く硬い胸板に顔をぶつける。
日焼けした肌から立ち昇る甘いココナッツサンオイルの匂いと、太陽の光をたっぷり吸い込んだ男らしい熱気が、私の全身を包み込んだ。
「もう、離してよー。暑いし、周りの人見てるってば」
「嫌だね。このまま俺のスーツケースに詰めて、日本まで連れて帰る」
「それ犯罪だから!」
波打ち際で子供のようにじゃれ合いながら、私たちはそのまま白い砂浜に並んで腰を下ろした。
大西洋から吹き付ける潮風が、汗ばんだ前髪を揺らす。
寄せては返す、エメラルドグリーンの海と白い波頭。
その美しい景色を眺めながら、大樹がふと、ぽつりとこぼした。
「……帰りたくねーな」
「ブラジルが? それとも、旅行が終わるのが?」
私が横顔を見上げて尋ねると、彼は少し照れ隠しをするように、足元の砂を指でいじりながら答えた。
「両方。でも一番は……茉莉子ちゃんと、こうしてずっと一緒にいられなくなるのが、嫌なんだ」
その素直すぎる言葉に、私の心臓がトクンと跳ねる。
「日本に帰っても、会社で会えるじゃん」
私が彼の広い肩に自分の肩をコツンとぶつけると、彼は顔を上げ、琥珀色の真っ直ぐな瞳で私を見つめ返してきた。
「そうだけどさ。……俺、この一週間で、茉莉子ちゃんのこと、前よりずっと、ずっと好きになったわ。絶対に俺の奥さんにするからな」
屈託のない、しかし絶対的な意志を持った宣言。
胸の奥がギュッと甘く締め付けられる。
「考えとくね」
私は、わざと視線を海の方へと逸らした。
彼をただの「元気な筋肉バカな婿候補」だと思っていたけれど、この地球の裏側への旅を通して、彼の過去の深い傷や、それを乗り越えた圧倒的な強さと優しさに触れた。
私の中で、大山田大樹という男の存在は、間違いなく特別で、愛おしいものへと変わっていた。
もちろん、だからといって今すぐ彼一人に一途に絞る気は、まだないのだけれど。
最高のパートナー候補の一人として、私の心の深い部分に根を下ろしたことは間違いない。
波の音だけが響く甘い沈黙の中。
潮風に乗ってふわりと、明菜が私たちの背後に姿を現した。
『パウロ・コエーリョは言ったわ。「すべての旅には、旅人自身も気づいていない秘密の目的地があるものよ」ってね』
明菜が、ブラジルの世界的作家の言葉を静かに紡ぐ。
そして彼女の細い指先から、二枚のタロットカードが砂浜の上に青白く浮かび上がった。
『【THE WORLD(世界)】。月桂樹の輪の中で踊る女神。大樹との過去を乗り越え、このブラジル旅行という一つの旅が、最高の形で完成したことを示しているわ』
そして明菜は、もう一枚のカードを指差す。
『でも……二枚目は【TWO of WANDS(ワンドの2)】よ。地球儀を手にした男が、城壁から海を眺めている。一つの完成は、新たな野心の始まり。アンタの五股の旅はここで終わりじゃない。まだ見ぬ世界と、次の男たちがアンタを待っているわよ』
明菜は悪戯っぽくウインクをして、夏の陽炎の中にスッと姿を消した。
私はその言葉を心の中で反芻しながら、大樹の手を取り、指を絡ませてホテルの方向へと歩き出した。
午後三時。
私たちは、純白のソムリエエプロンを着けた直之が待つプライベートジェットに乗り込み、地球の裏側からの長い長い帰路についた。
ドンッという離陸の強いGを感じた後、機内は上空一万メートルの静寂に包まれる。
直之が気を利かせたのか、キャビンは少し薄暗く照明が落とされていた。
「疲れただろ。寝てていいぞ」
隣の席から聞こえる大樹の優しい声に甘え、私は革張りシートの肘掛けを越えて、彼の温かい肩に頭を預けた。
彼が私の頭を優しく撫でる。
規則正しいジェットエンジンの重低音と、大樹の安定した高い体温に包まれながら、私は泥のように深い眠りへと落ちていった。
夢の中で、ブラジルの強烈な太陽と、彼の無邪気で熱い笑顔が何度もリフレインしていた。
翌日。九月一日、土曜日。
午後八時。(日本時間)
羽田空港、VIP専用ターミナル。
三十時間近いフライトを経て、タラップを降り立った瞬間。
日本の、まとわりつくような蒸し暑い空気が全身を重く包み込んだ。
「うわっ、日本あっつ! ブラジルより湿度たけーな!」
大樹がシャツの襟元をパタパタと仰ぎながら笑う。
「ほんとだね、サウナみたい」
私も笑い合いながら、機内モードにしていたスマホの電源を入れた。
ピロン♪
電波を拾った瞬間、短い通知音が鳴り、ロック画面に一つのメッセージが浮かび上がった。
送信者は、凪だった。
『おかえりなさい。無事に着いたみたいで安心しました。次は、俺の番ですね。楽しみです』
静かだけれど確かな愛情と、逃げ道を塞ぐような重い独占欲が滲み出た文面。
その文字を見た瞬間、私の心臓が、大樹の時とは全く別のベクトルでドクンと跳ねた。
そうだった。私の夏休みは、まだ終わっていないんだ。
パパの職権乱用のおかげで、一ヶ月に延長された私の夏休み。
次の凪とのモンゴル旅行までは、あと五日も猶予がある。
その間に、レオとディナーに行ってもいいし、ユンジンと遊んでもいい。恭弥の家でサメ映画でも観ながらイチャつくことだってできる。
もちろん、クーラーのガンガンに効いた涼しい部屋で、心ゆくまでゲームに引きこもる最高の日だって確保できるのだ。
「茉莉子ちゃん、送ってくよ!」
「ううん、大丈夫! 直之の車が来てるから。また、会社でね!」
私は大樹に大きく手を振りながら、ターミナルを出て直之の待つ漆黒のマイカーへと向かった。
これからの、完璧すぎるスケジュールに思いを馳せる。
日本の蒸し暑い夜空の下、私の顔には自然と、最高に欲深い笑顔が浮かんでいた。
私のドタバタな引きこもれない夏休みは、まだまだ終わらない。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:ブラジル編完結。時差ボケよりも五股スケジュールで頭がいっぱい。
新規獲得アイテム
・【大樹の決意】:絶対に奥さんにするという、真っ直ぐすぎるプロポーズ(仮)。
・【ワンドの2】:次の目的地(モンゴルと他の男たち)への尽きない野心。
【明菜の分析ログ】
大樹との一週間、ただの筋肉バカかと思いきや、しっかり心の奥まで繋がった最高の旅になったわね。
【世界】のカードが出たってことは、彼との関係は一つの到達点を迎えたってこと。でも、アンタの欲深さは【ワンドの2】が示す通り、まだまだ止まらないみたいね。
帰国早々、人狼君からの静かなマーキングメッセージ。そして残りの男たちとの怒涛のスケジュール。
一ヶ月の夏休みをもぎ取った令嬢の体力ゲージは、果たしてモンゴルまで持つのかしら?




