第百七記録【貴方はプロフェッサー】
午後八時。
みんなで作った餃子を平らげ、満たされた空気がタワマンのリビングを優しく包み込んでいた。
あー、食った食った! 大豆ミートって聞いて物足りないかと思ったけど、マジで肉汁たっぷりで最高だったわー。もうお腹パンパンで動けないや
私がソファに沈み込んで、満足げにお腹をさすっていると。
「食後のデザートだ」
アイランドキッチンから、ユンジンが白いプレートを二枚運んでくる。
テーブルに置かれたそれを見て、ステラが目を丸くして声を上げた。
「オーマイガー! これ、『アップル・クランブル』じゃない!」
「あっぷる……くらんぶる?」
横文字の羅列に私が首を傾げていると、皿を置いたユンジンが淡々と解説を入れてくれた。
「イギリスの伝統的な家庭料理だよ。小麦粉とバター、砂糖を混ぜてそぼろ状にした『クランブル』を、リンゴの上に乗せて焼き上げたスイーツだ。今回はステラに合わせて、バターの代わりに植物性のオイルを使って、完璧なヴィーガン仕様にアレンジしておいた」
「へぇー、そぼろリンゴ焼きみたいな? 美味しそー!」
こんがりと焼き色のついたクッキー生地の下から、熱々のリンゴが顔を覗かせている。
シナモンと甘く煮詰められたフルーツの香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「わぁ……これ……」
ステラが目を丸くし、スプーンですくって一口頬張った。
その瞬間、彼女の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……おばあちゃんの味がするわ」
故郷の味を完全再現した彼のもてなしに、ステラは泣き笑いのような表情を浮かべた。
口うるさい管理魔のくせに、こういうところの気配りは本当にズルい。
デザートを食べ進めるうち、二人の話題は自然と「芸能界」の裏側へとシフトしていった。
「パパラッチって本当に嫌よね。プライベートな時間までレンズを向けられると、息が詰まるの」
「わかる。作られたイメージを崩さないように、常に完璧なポーズを要求されるだろ? 素の自分なんて誰も見てくれない」
「そうそう! ギャップがバレたら終わりってプレッシャー、ほんとキツいのよ!」
世界的ロックシンガーと、フォロワー五十八万人のトップモデル。
表舞台に立つ者同士の『芸能人あるある』トークで、二人は激しく意気投合していた。
……。
…………。
うわぁ……完全に住む世界が違う人たちの会話だ
作られたイメージ? パパラッチ?
私、休日はジャージで部屋に引きこもって、ポテチ片手にレイドボス狩ってるただの干物オタクなんですけど。
私を狙うのなんて、せいぜい近所の野良猫くらいなもんだし。
完全に蚊帳の外じゃん。
私はもぐもぐとクランブルを咀嚼しながら、見事なまでに背景のモブと化していた。
『アハハハ! ヒロインのくせに空気になってるわよ!』
隣の空いた椅子で、明菜が腹を抱えて笑い転げている。
外野は黙っててよね、この悪霊! こちとら極上スイーツを堪能するのに忙しいの! 視界の端でチラチラすんな、シッシッ!
午後九時。
エントランスのインターホンが鳴り、マネージャーのアーサーが迎えにやってきた。
玄関先で、ステラが私の両手をギュッと強く握りしめる。
「マリコ、最高の夜だったわ。ワタシの重い鎧を脱がせてくれて、本当にありがとう」
彼女の笑顔は、美しい女の子そのもの。
なんだか暖かい何かが胸いっぱいに広がる。
「……九条グローバルの広告塔、ワタシにやらせてちょうだい」
隣に立つアーサーも、深く頭を下げる。
「ステラがここまで笑顔になったのは久しぶりだ。九条のホスピタリティには感服した。契約は喜んで進めさせてもらうよ」
「ありがとうございます!」
「マリコ、じゃあね」
「うん! バイバーイ」
バタン、とドアが閉まった瞬間。
私は両手でガッツポーズを作り、飛び跳ねた。
よっしゃあああ!!
難易度ルナティックのVIP接待クエスト、完全クリア!
これでパパにも、デカい顔ができるってもんだ!
ステラたちが帰り、この部屋に再び静寂が戻る。
「大変だったけど、なんだかんだ楽しかったなー」
私はアイランドキッチンのシンクの横に立ち、大きく伸びをした。
隣では、ユンジンが腕まくりをして、スポンジで食器を洗っている。水音が心地よく響く。
「短い期間であそこまで相手を虜にさせるなんて、大したものだ」
横顔のまま、彼がふっと口角を上げる。
ストイックな完璧主義者からの、真っ直ぐな褒め言葉。
「へへっ」
照れくさくなり、私は「手伝うよ」と彼の隣に並んだ。
泡立つスポンジを受け取り、二人で並んで皿を洗う。
洗剤の爽やかなレモンの香りと、彼から漂う微かなムスクの匂いが混ざり合う。
「ユンジン、本当にありがとうね。ステラちゃん、すっごく喜んでた」
「マリコが頼んできたことだからな」
彼の手が、私の手をかすめて皿を受け取る。
少しだけ、水音が小さくなった。
「……それに、ずっと言いたかったんだが」
ユンジンの瞳が、私の顔から下へ、チェック柄のミニスカートへと滑り落ちる。
「その服、なかなか似合ってる……ぞ」
急に声のトーンが下がり、耳の先が微かに赤く染まっている。
素直に褒められない不器用さが、たまらなく可愛い。
その時。
私たちの背後に、冷たい空気がスッと流れ込んできた。
シュパパパッ!
背後で硬質なカードが空気を切る音が連続して響く。
何事かと私が振り返ると、そこには明菜の姿があった。
彼女は無言のままユンジンの広い背中を指差し、空中に複数枚のタロットカードを展開していた。
石の玉座に座る威厳ある男、【THE EMPEROR(皇帝)】。
鎖に繋がれた男女、【THE DEVIL(悪魔)】。
そして、雷に打たれて崩れ落ちる塔、【THE TOWER(塔)】。
『あらあら、人間って本当にバカねー』
明菜が、ねっとりとした声で私の耳元に囁く。
『涼しい顔して洗い物なんかしてるけど、彼の頭の中は支配欲と欲情でパンパン。理性の塔は、とっくに崩壊寸前よ♡』
また、そんなことバッカリ言って……
明菜は満足そうに「アーッハッハ!」と甲高い笑い声を残し、空中に溶けて消えた。
こら! 逃げるなー! 言い逃げすんな!
カチャ。
悪魔が消えた直後。
ユンジンが洗いかけの皿をシンクに置き、キュッと水道の蛇口を止めた。
水の音が消え、キッチンが完全に静まり返る。
「えっ? まだ泡ついてるよ?」
私が不思議に思った瞬間。
泡のついたユンジンの濡れた手が、私の手首をガシッと強く掴み取った。
「っ……!」
ヒヤリとした水分の奥から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
見上げた彼の瞳、ヤバい。完全にスイッチが入ってる。
獲物を逃さない、捕食者の目。
「……もう、無理だ」
低く、渇いた声。
「む、無理って?」
「さっきから、ステラがいる前でお前の……その脚がチラチラ視界に入って……気が狂いそうだった」
彼の手が私の手首を強く引き寄せる。
「早く、二人きりになりたかったんだ」
彼は私の手首を引いたまま、強引にキッチンの外へ歩き出した。
「ちょ、ちょっとユンジン! 手、濡れてるってば!」
「そんなこと、後でどうにでもなる」
一切の反論を許さない圧倒的な腕力。
私はそのまま、夜景の見えるベッドルームへと引きずり込まれた。
ドサッ。
柔らかいマットレスに背中が沈み込む。
逃げる間もなく、彼が上から重く覆い被さってきた。
黒のシャツ越しに、彼の速い心音がドクン、ドクンと直接胸に響く。
「大体、旅行行ったのだってホントは許してない」
彼の手が私の頬に伸び、少しだけ力を込めて、むにゅっと優しくつねった。
ブラジルとモンゴル。大樹と凪との旅行に対する、ストイックな男の拗れた嫉妬。
「それは……ユンジン以外にも好きだもん……仕方ないよ、仕方ないのか? わからないけど」
私は目を逸らし、情けない苦笑いを浮かべるしかない。
五股なんて、どう弁解してもクズの極みだ。
「マリコが五股してるのだって、理解してる……でも」
彼が私の顔を両手で包み込み、真っ直ぐに視線を絡ませてくる。
独り占めしたい。ボクだけを見てほしい。
言葉にしなくても、その切ない瞳が雄弁に語っていた。
「もう少し待って……まだみんなの良いところも悪いところも、全部見てないから」
私の我儘すぎる懇願。
ユンジンは一瞬だけ顔を歪め、そして、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれた。
「……うん、待ってる」
不安な言葉を投げ捨てた後。
彼の唇が、私の唇を塞いだ。
「んっ……」
決して乱暴じゃない。
私を傷つけないように、大切に、大切に味わうようなキス。
彼の優しさが、舌先からじんわりと溶け込んでくる。
誰よりも私を思いやってくれる。
もしこの世に愛の残高があるなら、この人はとっくに赤字になっているんじゃないだろうか。
そんな彼の不器用で深い愛情に、私はただ目を閉じ、彼の首に腕を回して、その熱に溺れていくことしかできなかった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.002
・氏名:九条茉莉子
・状態:理性の塔が崩壊した管理者にベッドへ連行され、愛の赤字を垂れ流し中。
新規獲得アイテム
・【ステラからの絶大な信頼】:大型契約の成立と、悪女としての厚い友情。
・【泡のついた手】:日常の家事から一転、オスの本能に切り替わるスイッチ。
【明菜の分析ログ】
「五股してるのだって理解してる」なんて、どんだけ懐が深いのよ、この男。
でも、頭で理解してても身体と本能は嘘をつけないわよね。他の女がいる前で、ずっとアンタの脚を見てイライラしてたなんて、可愛いところあるじゃない。
愛の残高が赤字?
いいえ、彼らは借金してでもアンタという果実を貪り尽くす気よ。
せいぜい、その重すぎる愛をすべて受け止める覚悟をしておきなさい♡




