第85話「人質ネレイド・アスファ、魔王の部屋をたずねる」
──ネレイド・アスファ視点──
「わかっています。ナタリア姉さま。私の役目は……」
ここは灰狼侯の屋敷。
その一室で、ネレイド・アスファはハンカチを握りしめていた。
従姉妹であるナタリア王女からもらったものだ。
灰狼の人質になるにあたって、ナタリアは報酬を提示しなかった。
ただ、ネレイドに頭を下げて頼んだだけだ。
灰狼との不戦協定の保証として、人質の役目を果たして欲しい、と。
王家が報酬を提示したのなら、ネレイドはこの役目を受けなかっただろう。
断ることはできた。
人質の侯補となる人物は、他にもいたのだから。
けれど、ナタリアはネレイドに対して頭を下げただけだった。
王女と臣下ではなく、従姉妹という立場で頼んでくれたのだ。
ネレイドが人質になることを承諾したのは、そのためだ。
『あなたは、生き残りなさい。ネレイド』
王都を出発するとき、ナタリア王女はそう言った。
『これから王都は揺れるでしょう。ですが、王都の動乱が灰狼までは届くことはないでしょう。あの地は魔王によって守られています。あなたは……私の大切な従姉妹は、生き残ることができるのです』
(あれを今生の別れにしたくはない、です)
そんなことを思いながら、ネレイドはハンカチを握りしめる。
ナタリアはネレイドにたくさんのものをくれた。
このハンカチも、ドレスも、宝石類も。
灰狼の地でネレイドが生き残るのに必要なものを、すべて。
けれど──
「宰相のエドガーさまより受けた命令をお忘れではありませんね? ネレイドさま」
ネレイドの側に控えていたメイドが、冷たい声で宣言した。
彼女の名前はライラ。
宰相エドガーがつけた世話係で、監視役だ。
「あなたの役目は、魔王コーヤ・アヤガキを骨抜きにすることです。神聖国との戦の間、魔王がランドフィア王国に手出しをしないように」
「……わかっている、です」
「ご自身だけ生き残って、それでよしとするあなたではありますまい。国王陛下やナタリア殿下、ご家族のことを考えなさい」
「わかっていると言っているです。ライラ」
ネレイドは宰相から命令を受けている。
それは『魔王コーヤ・アヤガキの歓心を得ること』
ネレイドの魅力と言葉……身体で、彼をつなぎ止めることだ。
長期間でなくてもいい。
ランドフィア王国と南の神聖国との戦が終わるまででいい。
短ければ1ヶ月、長くて1年。
その間、魔王をネレイドに夢中にさせる。
そうすることで魔王の動きを封じる。
ネレイドは宰相より、そんな命令を受けているのだ。
「ネレイドさまのご家族が王都にいらっしゃることをお忘れなく。王都が戦火に飲まれれば、ご家族の無事では済まないのですよ?」
「何度も言わないで……欲しいです。ライラ」
「ならばなぜ、ためらっていらっしゃるのですか?」
ライラの言葉には容赦がなかった。
「灰狼侯の屋敷にいる今日が好機でしょう? 夜が更けて、屋敷も寝静まっております。今すぐ魔王の寝所に向かうべきでは?」
「今……すぐになのです?」
「そのための衣服を、宰相閣下は用意してくださました」
ライラは寝間着を、ネレイドに手渡した。
かなり高級なものだということは、触れただけでわかる。
表面はなめらか。滑るような手触りだ。
胸と腰のあたりには、刺繍がほどこされている。ランドフィアの紋章と花をあしらった精巧なものだ。
そして、なによりの特徴は──
「薄いの、です」
「はい」
「こんなものを着たら……肌と下着が透けてしまうのです」
「お役目のための寝間着だと申し上げました」
「……わ、わかっている、です」
覚悟はしたはずだった。
家族のため、なによりも敬愛するナタリアのため。
宰相エドガーの命令を受けたときに、心の準備はしていたのだ。
ほの暗い灯りの下で、ネレイドは手早く着替えを済ませる。
魔王の寝所は同じ階にある。
同じ階でよかったと思う。こんな姿で、階段を上り下りしたくない。
灰狼は歴史ある侯爵家だ。
王家の従姉妹がこんな姿で出歩いているところを見られたら……軽蔑されるかもしれない。
そう思うと、ネレイドの胸は早鐘を打ち始める。
(……それでも、いいのです)
やるべきことをやるだけ。
この身はランドフィア王国を守るための人身御供。
そう決めて、ネレイドは部屋の扉を押し開けた。
廊下に人の気配はない。
みんな、眠っているのだろう。
廊下には兵士どころか、人影すらない。
(魔王とは、これほど無警戒なものなのでしょうか?)
……いや、魔王だからこそだろう。
きっと魔王の部屋には『不死兵』がいるに違いない。
一体……いや、十体はいるだろう。
魔王を守る護衛として、寝所にも『不死兵』がいるはずだ。
『不死兵』に見られながら魔王と一夜を共にする──そんな想像をしてしまい、ネレイドの身体が震え出す。
それでも足を止めないのは、使命のことがあるからだ。
──ランドフィア王国に平和を。
──ナタリア王女のために。
その言葉が、ネレイドの脳裏をこだまする。
彼女は忍び足で、一歩一歩、進んでいく。
魔王コーヤ・アヤガキの部屋は廊下の奥だ。あと10歩……5歩……1歩。
やがて彼女は、魔王の部屋の前にたどりつく。
扉の前に立ったネレイドは耳を澄ます。
動くものの気配は感じ取れない。
魔王コーヤ・アヤガキは、もう眠ってしまったのだろうか。
そう思いながらネレイドは扉に手を伸ばす。
そして、軽くノックをした。
「夜分に申し訳ありません。魔王さま。ネレイド・アスファです」
かすれる声で、ささやく。
「よろしければ、お話をさせていただきたいの……です」
──返事はない。
ネレイドはふたたび、扉を叩く。
息を詰めて答えを待つが……なにも起こらない。
さらにネレイドがノックをしようとしたとき──
「──魔王さまは、お留守ですよー」
「──おでかけされてるですー」
「──今日は、外でお泊まりされるとおっしゃったですー」
天井の方から、声がした。
ネレイドが顔を上げると──小さな影が、彼女を見下ろしていた。
ぼんやりとした魔力の光に包まれている、人形のような姿。背中には羽。
彼女たちは、天井にある灯りの上で眠っていたのだろう。
精霊たちは目をこすりながら、ネレイドのところに下りてくる。
「お客人さまですねー。魔王さまに、ご用ですかー?」
「え? あ、はい。あの……」
甘かった。
魔王が、護衛なしで眠るなどありえない。
廊下には精霊たちが、魔王を守るために控えていたのだ。
(……殺される、ですか。私)
夜這いに来たと言えば許されるだろうか。
恥ずかしい姿で、魔王に一夜の情けをもらいに来たと。
(でも、でもでも。こんな姿を灰狼侯のご家族に見られるのは……)
「──残念ながら魔王さまはお留守なのです」
「──でも、代理の方がいらっしゃるです」
「──すぐに呼ぶので、そのまま待っていて欲しいです」
「え? いいえ、その必要は……」
ネレイドはあわてて頭を振る。
けれど、少し遅かった。
精霊たちは息を吸い込み、声を合わせて──
「「「アリシアさまー。お客人がご用があるそうなのですー!!」」」
魔王の部屋の向かい側のドアへと、声をかけた。
しばらくして、うっすらとドアが開く。
現れたのは、銀色の髪の少女。
大きな青い目が、ネレイドを見ている。
顔が真っ赤だった。酒でも飲んでいたのだろうか。
侯爵令嬢アリシアは、自室のドアの後ろに隠れていた。
まるでドアを盾にしているかのように。
ネレイドから見えるのは、顔と、むき出しの肩だけ。
アリシアは身体をドアに押しつけるようにして、じっとネレイドを見ている。
「ネレイド・アスファさま。こんな夜更けにどうされたのですか?」
「こ、これは……アリシアさま」
ネレイドは思わず両手で胸を隠した。
(見、見られてしまった、です)
はしたない姿の自分を。こんな、裸同然の姿を。
廊下が暗いのが幸いだった。
灯りは、天井近くに設置されているランプだけ。
ネレイドがどんな服を着ているかは、見られていないと思う。そう思いたい。
(それにしても……アリシアさまは美しい方なのです)
同性なのに、思わず見とれてしまう。
白い肌に絡みつく、銀色の長い髪。
長いまつげに、少しうるんだ瞳。細い肩。
ドアをつかむ指も細く、しなやかだ。
まるで野生の生き物のような生命力さえ感じてしまう。
(こんな方が、ずっと灰狼に閉じ込められていたなんて……)
だから魔王は、灰狼を解放しようと思ったのかもしれない。
美しい野生の獣のようなアリシアを、世に解き放つために。
「失礼いたしました……です。アリシアさま」
思わずネレイドは姿勢を正して、頭を下げた。
「実は……魔王コーヤ・アヤガキさまと、お話をしたいと思いまして」
「まあ、そうなのですか」
アリシアがドアの向こうで、ぽん、と手を叩いた。
「ですが……申し訳ありません。コーヤさまはティーナさまと外出されているのです。今宵は、お戻りにならないかと」
「そ、そうなのですか」
「ええ」
沈黙が落ちた。
ネレイドは慌てて話題を探す。
彼女は王宮に仕える魔法使いだ。人と話すことは、あまりない。
それでもアリシアに対して失礼にならないように、言葉を探して──
「あ、あのあの。魔王さまは、どちらに……」
そう言ったネレイドは、思わず口を押さえる。
(こ、これではスパイに来たようなのです! ど、どうして私は、こんなときに……)
ネレイドは死を覚悟した。
人質が灰狼の内情を探るようなことを口にしたのだ。
攻撃されても文句は言えない。
「はい。コーヤさまはティーナさまと外でまりょ……いえ」
けれど、アリシアは気にした様子もなかった。
なにかを言いかけた彼女は、白い手で口を押さえて、それから──
「コーヤさまはティーナさまと、お外で大切なものをお作りになるとおっしゃっていました」
「大切なもの、ですか?」
「ええ。灰狼の将来にかかわる大切なものを」
「……そうなのですか」
「ですから、今日はお戻りにならないのです」
アリシアがそう言ったとき、不意に、彼女の前でドアが動いた。
バランスを崩したアリシアが、あわてた様子で体勢を立て直す。
アリシアは廊下に一歩、脚を踏み出した。
ネレイドの目に、むき出しの白い脚が見えた。
「し、失礼いたしました」
アリシアは、ドアの後ろに引っ込んだ。
「お客さまがいるのに、つい、いつもの癖が出てしまいました。いえ、コーヤさまには、心のままに自由にしていいと言われているのですが……」
「……あ、はい」
「窓の外の『不死兵』たちを見ていると……こうなってしまうのです。急いで身支度を調えます。少し、お待ちいただけますか?」
「い、いえ。私は、もう休みますから」
「そうなのですか?」
「夜分に申し訳ありませんでした」
ネレイドは深々と頭を下げる。
「それでは、失礼いたします」
「はい。おやすみなさい。ネレイドさま」
ぱたん、と、アリシアの部屋のドアが閉じた。
それを確認してから、ネレイドはその場を離れた。
(……わ、私は……魔王を甘く見ていました)
ネレイドは思わず、両腕で自分を抱きしめた。
身体の震えが、止まらなかった。
(私の見間違いかもしれません。でも……)
さっき見たアリシア・グレイウルフは、なにも着ていないように見えた。
むき出しの肩と鎖骨。
廊下に踏み出した素足とふともも。
そこに衣服の気配はまったくなかった。
(つまり……魔王の寵愛を受ける者は、夜に服を着ることは許されない……そういうこと、なのです)
アリシアは言っていた。
『窓の外の「不死兵」たちを見ていると……どうしてもこうなってしまうのです』と。
おそらく魔王は窓の外に『不死兵』を配置しているのだろう。
アリシアに、自分の立場を思い出させるために。
寝所を訪れるとき、どのような姿でいるべきかを、忘れさせないように。
(……アリシアさまは言っていたのです。『コーヤさまはティーナさまと、お外で大切なものをお作りになるとおっしゃっていました』『灰狼の将来にかかわる大切なものを』と)
国を統治する者にとって大切なもの。
ランドフィア王家に現在、足りないもの。
それは……王家の血を引く子どもだ。
リーナス王の子どもは、ジュリアン王子とナタリア王女しかいない。
ジュリアン王女が失脚した今、国を継ぐことができるのはナタリア王女だけだ。
だからランドフィア王国は窮地にある。
そして、魔王はそのことを知っているはずだ。
その魔王が、側にいる女性と作るものといえば──
(魔王コーヤ・アヤガキさまは、お外で……アリシアさま以外の女性と、子どもを作る行為をされているということなの……です)
ぼっ、と、ネレイドの顔が真っ赤になる。
思わず想像してしまったからだ。
ネレイドは魔法使いを養成する女子学園にいた。
男性と付き合ったことどころか、話をしたこともほとんどない。
けれど、多少の知識はある。
というか、同じ魔法使い侯補生の少女たちが話をしているのを聞いたことがある。
そういう小説や、絵物語を読まされたことも。
(……わ、わ、あわわわわわわ)
身体が熱くなる。
心臓の鼓動がさらに速くなる。
(お、お外で子どもを? 魔王と……魔王の寵愛を受ける女性は……いつもお外で……アリシアさまのような姿で。じゃ、じゃあ、私も……このネレイド・アスファも、同じことを……)
ふらふらとした足取りで、ネレイドは部屋へと戻る。
そして、彼女はそのままベッドへと倒れ込んだ。
「ネレイドさま。お早いお帰りですね」
「…………ラ、ライラ……」
「魔王さまの寵愛は受けられては……いないようですね。まあ、初日からは無理でしょう。ですが、きっかけくらいはつかっめたのではないですか? 首尾をお聞かせください」
「……ライラ」
「はい」
「灰狼にいる間……夜は裸で過ごすように言われたら、どうしますか……」
「私は宰相家に仕えるメイドです。そんなはしたないことはできません」
「……ですよね」
「そんなことより首尾をお聞かせくださ。ライラさま」
「…………ふにゅう」
限界だった。
魔王と、灰狼の女性たちの現状。
それに自分が参加しなければいけないという現実。
意外とはっきり記憶していた、学生時代に読まされた『そういう本』の内容。
それらが一気に押し寄せてきて、ネレイドは思わず顔をおおってしまう。
そうして、熱にうかされたように、彼女はベッドの上で転がり続け──
翌朝には、新たな覚悟を決めていたのだった。
そして、ぎりぎり赤面せずに、アリシアと一緒に朝食を済ませて──
お昼に魔王同席でお茶会をするので、参加するように言われて──
彼女がさらなる覚悟を決めて、支度を調えていたとき──
ネレイドは、灰狼に神聖国からの使者が到着したことを知るのだった。




