第30善「人が傷付かないやつで頼む」
「《ウィンド》」
短く唱えると、広げた手の平から風魔法の微風が放たれる。その風に炎魔法を織り交ぜることにより、温風が発せられる文字通りのハンドドライヤーとなった。魔法による暖かな風を、ビショビショになった化学教師の下腹部に当ててやる。
「生徒にお漏らしを乾かしてもらう……残念ながらこれは悪行認定されないようだな」
光の篭っていない瞳でヤケクソ気味に微笑む化学教師。マジでスミマセンって。
「今日の悪行は残り五回か。あと五回漏らしてもいいか?」
「やめてください……」
異世界で爆殺してしまったうえに現世でお漏らしまでさせてしまい、申し訳ない気持ちで一杯だ。
ヒールを履いているせいもあるが、化学教師は足がスラッとしていて身長がかなり高い。俺と拳一つ分くらいしか違わないくらいだ。しかしションボリとしょぼくれる彼女の姿は、見かけよりもずっと小さく見える。
「くそー! 飲まずにはいられない!」
スーツが十分に乾くと、化学教師は部屋に置いてある冷蔵庫から新しい缶ビールを引っ張り出しきて、グビグビと勢い良く煽り始めた。
「は、話は戻るッスけど、なんで悪行なんスかね? 俺達みたいに善行ではなく」
「ん? あぁ。神に『魔王のくせに全然悪い事しなかったから』とか言われたな」
なんだその難癖は。
「なんなら魔王のくせに善行をしていたのが良くなかったらしい。『心が綺麗過ぎるから、悪行を重ねてちょっとは悪い子になるんじゃー』とかなんとか」
悪行し過ぎて善行の試練を与えられた俺や先輩とは反対に、善行し過ぎて悪行の試練を課せられたというワケか。無茶苦茶だな。テロリストの『一日一ゴミ拾いさもなくば定期券の感度がめっちゃ悪くなる』みたいな例もあるし、ふざけているとしか思えない。
「魔王のくせに善行って、何やったんスか?」
「例えば、人間と和平条約を結ぼうとしたり」
あぁ〜、そんなことあったなぁ。
魔族と人間で共に手を取り合って仲良くしよう!みたいな話が魔族側から上がってきたのだ。
「……しかし、条約を締結しに行った魔族側の大使が、虐殺勇者に虐殺されてしまったが……」
あぁ……そんなことあったなぁ……。
いや、だって罠だと思うじゃん? 魔族との和平条約なんて信用できないじゃん? 殺したよね、和平条約の大使。
「あとは、魔族が怖い存在でないことを示すために、『死の荒野』という場所にお花を植えて巨大なお花畑を作ろうとしたり」
あぁ〜、そんなことあったなぁ。
『死の荒野』と呼ばれる草木も生えぬ不毛地帯。魔族がそこを手入れして、荒野いっぱいに花畑を作ったのだ。
「……しかし、虐殺勇者に燃やされてしまったが……」
あぁ……そんなことあったなぁ……。
いや、だって罠だと思うじゃん? 魔族が植えた花なんて、成長したらモンスターに成るんじゃないかって思うじゃん? 燃やしたよね、花畑。
「他にも、人間と貿易しようとしたら商品を全部破壊されたり、魔族に『人間への攻撃禁止令』を出したら、魔族が一方的に虐殺される羽目になったり……」
化学教師は怯える目に少し非難の色を混ぜながら、こちらをジトーと見つめてくる。
だって魔族なんて信用できないじゃん……。勇者時代の俺にとって、魔族関連の物は問答無用で駆除する対象だったのだ。
「まぁ、さっきも言ったが、吉井サマのことは別に恨んでいないぞ。それが仕事だったのだからな」
だからサマ付けやめて。
「それより先生が恨んでいるのは、先代の《終焉の魔王》だ!」
終焉の魔王……どこかで聞いた覚えが……。
「そもそも先生が魔王なんかに選ばれたのは、終焉の魔王のせいなんだ! 終焉の魔王は非常に残忍らしくてな。召喚した魔族自身も引いてしまうほどだったそうだ」
どこかで聞いた覚えが……。
「魔族達は終焉の魔王の時の失敗を踏まえ、もっと善人で清く正しい心を持つ人間を召喚することにしたそうだ。そして白羽の矢が立ったのが、私という訳だ」
一度言葉を区切りってビールをごくり。心なしか、先程より少し顔が赤らんできているような。
「しかし私は、自分で言うのも恥ずかしいのだが、『善人過ぎた』そうだ。まぁ子供の頃から真面目さが取り柄だったからな。魔王なんて柄じゃないのは自分でも分かっている。とてもじゃないが人なんか殺せないし、そもそも戦いたくない。だから、私は私なりに平和的な方向に権力を使おうとしたのに……」
俺が台無しにした、という話ですね。ほんとスンマセンでした。
「いや、吉井サマを非難したい訳じゃない。文句を言いたいのは魔族連中の方にだ」
申し訳なさが表情に出ていたのだろうか。謝ろうとする前に言葉を制されてしまった。そしてまた、ごくりごくり。吐き出した言葉の分、ごくりごくり。
「平和的な事をするたびに魔族が影で言うんだよ。『終焉の魔王の方が魔王らしかった』。『新しい魔王は日和っている』。……うるせー! だったら始めから召喚するなー!」
うがー!と遠い異世界にいる魔族に苛立ちをぶつけながら、化学教師は缶ビールを煽る。もはや飲んで愚痴っている飲み屋のオッサンだ。
「だから、私は全ての元凶である終焉の魔王のことが憎くて憎くて仕方がないんだ……。ヤツが無茶苦茶やったせいで、魔族は人類からめちゃくちゃ恐れられてしまう存在になるしな……」
そうそう。俺も『魔族は超恐ろしい存在。見つけたらすぐに殺すべし』と散々教えられたものだ。つまり俺が虐殺勇者なんて呼ばれるようになったのも終焉の魔王のせいだ。全部そいつが悪いんだ。もしそいつに遭遇したら一緒にブン殴ってやろうぜ。
毒を吐き散らしたことによって少し落ち着きを取り戻したのか、化学教師はハァ〜〜〜〜とアルコール臭い大きな溜め息を漏らした後、懇願するような目を向けてきた。
「頼む、飲酒の件は誰にも言わないでくれるか? 先生の十万円が懸かっているんだ!」
「言わないッスよ」
「お漏らしの件も秘密にしてくれるか? 先生の威厳が懸かっているんだ……」
「言わないって……」
殺したうえにお漏らしまでさせてしまったのだ。これ以上迷惑をかける訳にはいかない。
そこで化学教師は、ふと何か思い浮かんだかのように顔をパッと上げた。
「そうだ。吉井、先生に悪行を教えてくれないか?」
「俺? なぜ?」
「異世界では虐殺勇者と呼ばれ、現世では不良。これ以上の適任者がいるだろうか!」
不良ではないんだがな。まぁ、虐殺勇者なのは事実なのだが。
「いや、俺は——」
悪行を教えてくれなどという頓珍漢な依頼。反射的に断ろうと思った。が、しかし待て。これは俺にとっても美味い話なのではないだろうか。
先生が悪行を犯す。その尻拭いを俺がする。つまり、善行をする。最強のコンボじゃないか。
「——あぁ、いいッスよ」
口角を上げながら、俺は先生の申し出を受け入れた。窓に反射した自分の顔は、とてもこれから善行をするとは思えぬほど邪悪だった。
「本当か!? 助かる!」
対して、満面の笑みを浮かべる化学教師は、これから悪行する人間のものとは思えないほど純粋だ。
「じゃあまず、学校を破壊して——」
「あ、人が傷付かないやつで頼む」




