第28善「麦茶おいしー!」
異世界から帰ってきて、あっという間に一ヶ月が経過した。
初めはどうなることかと思った『一日七善さもなくば死、ただし週末は三倍キャンペーン』だが、日々ミッションをこなし、なんとか今日まで生き延びれている。
相変わらず善行生活は大変だが、以前と比べるとそこまで善行が苦ではなくなった。それに善行を見つけるのも上手くなったと思う。
老人の荷運び。コンビニ強盗。誘拐。銀行強盗。ひったくり。加えて、モール占拠にやってくるテロリスト。この街は本当に善行チャンスに溢れている。——あれ、俺の住んでる街って、かなり治安悪い?
モール占拠はもはや週末の恒例イベントだ。なんでみんなモールの占拠したがるのだろう。まぁ異世界帰りのテロリストと遭遇したのは最初の一回だけで、二回目以降はただの一般人のテロリストだけど。一般人のテロリストってなんだよ。
ちなみにこんなに頻繁にモールが占拠されているというのに、客足の方はむしろ例年と比べて二倍ほど増えているそうだ。なんでも、非日常感を味わいたい人がアトラクション感覚で巻き込まれに来るらしい。なるほど、この街は住んでる人も狂ってやがるのか。
そんな善行チャンスに溢れた素晴らしい街なのだが、一つの懸念がある。《聖母教》の存在だ。
この異常者集団には頭を悩まされている。なんとこの集団、毎朝街の清掃をしてやがるのだ。あまつさえ、街をパトロールして犯罪を未然に防いでやがるのだ。俺の善行を横取りしているとんでもなくヤバイ集団なのである。
《聖母教》は日々着々とその勢力を拡大していっているようで戦々恐々とするばかりだ。
善行を見つけるのが上手くなっただけでなく、こちらでの生活にも大分馴染んできたように思う。
例えば、職質されても『ステータスオープン』せずに生徒手帳をすぐに出せるようになったのだ! 神、見てるか? 俺はちゃんと職質受けれるまでに成長してるぞ?
もっとも、俺の成長はほとんど委員長のお陰と言っても過言ではない。善行をヤらせてくれるだけではなく、善行とは何かを教えてくれるとっても優しい少女なのだ。
夏の兆しが見え始めたある日の放課後。
そんな優しい少女は、席に座る俺を優しくない目付きで見下ろしていた。
「もー、真面目に授業受けないからこういう事になるんでしょー?」
項垂れる俺に、まったくもう、と小言を言いながら、彼女はそっとノートを差し出してきた。
「ほら、はやくノート写しちゃって」
「助かる……」
化学のノート回収があったのだが、俺だけ提出しておらず、化学教師から提出するように催促が来ていた。しかし善行で忙しかった俺は再三その催促を無視し続け、ついに化学教師の怒りを買ってしまったのだ。そして、今日中に提出しなければ夏休みに補習だぞ、と最後通告を受け取ってしまったのである。
委員長に泣きつき、こうしてノートを写させてもらう運びになったのだった。
「ノート見せてくれるなんて、委員長は本当に大好きなんだなぁ」
「はぇ!? な、なにが!?」
「善行が」
「あぁ、善行か……。い、いいから早く写して!」
「へーい」
委員長に尻を叩かれながら、素人目に見ても丁寧に纏められたノートを黙々と書き写していき、二十分ほどかけて全て写し終えた。
「ほら、はやく先生に持っていかなきゃ」
「へーい」
「化学準備室だよ? 一人で行ける?」
「子供か俺は……」
さながら初めてのおつかいに送り出す母親だ。まぁ確かに倫理観に関しては子供レベルかもしれない。しかし舐めてもらっては困る。俺だって日々成長しているのだ。
現に委員長から借りた道徳の教科書は読破した。俺の倫理観は今や小学五年生レベルまで成長しているのだ!
「じゃあ、ここで待ってるからね?」
「先帰ってもらっていいぞ?」
「待ってるからねっ!」
語気を強めて言いながら、委員長は俺の席に座って本を読み始めた。
これは『家まで送る』という善行をヤらせてくれるということだろうか。本当に委員長はイイ女だな。
*****
委員長に送り出され、北校舎にある化学準備室へと足を運んだ。
「失礼しまーッス」
鍵が空いていたのでノックもせずいきなり扉を開けてみる。
手狭な教室。奥には机と椅子があり、スーツの上から白衣を纏った女性教師が座っている。化学の先生だ。切れ長の目をした凛々しい顔付きで、暗めの茶色い髪を一つ結びにしている。
ちょうど飲み物を飲んでいた彼女は、突然の来訪者に驚いたらしく、
「ぶふぅ!?」
と、盛大に液体を吹き出してしまった。
「げほっ、ごほっ。お、お前、2ーEの吉井だな? ノックくらいしないか……」
吹き出されたのは、黄金の液体。彼女の鼻の下ではモコモコの泡が白い髭を形成している。そして、手に握られている銀色の缶。そこには『生』というデカデカとした文字が。
どう見てもビール。どこからどう見てもビール。
この教師、校内で堂々と飲酒をしていたようである。
「あー、えっと。これはだな……」
視線がビール缶に注がれているのに気が付いたのか、化学教師はバツが悪そうに目を泳がせた。
「これはあれだよ。ほら、空のペットボトルを水筒代わりにすることあるだろ? あれの空き缶バージョンだ! 中身は麦茶だぞ? 教師のくせに貧乏臭くて悪いね、はっはっは」
尋常ではない汗をかきながら、泡の髭が付いた口で苦し紛れの言い訳をする化学教師。部屋に充満する匂いは明らかにビールのそれだが、その言い訳が通ると本気で思っているのだろうか。
「んぐ、んぐ、んぐ。プハーッ、麦茶おいしー!」
そんなに喉越し良さそうな麦茶なんて無いと思うが。
証拠隠滅を図ろうとしたのか、化学教師は缶の中身を一気に飲み干し、空いた缶をベコりと握り潰した。
「へー麦茶なんスねー」
まぁ別に飲酒をしていた事をとやかく言うつもりはないので、話を合わせてやることにする。あわよくば見逃したことが善行認定されないかな、という邪な考えもあった。
「そうそう、麦茶なんだよ!」
「麦茶なんスねー」
「そうそう、麦茶——頼むから誰にも言わないでくれぇ!」
諦めんなよ。最後まで嘘を通せよ。
「言わないッスよ」
「嘘だな! そんな悪そうな顔して! きょ、脅迫するつもりだろ!?」
悪そうな顔は元々なんだ。生徒のこと信じてくれよ。
「カラダか!? 口止め料としてカラダを要求するつもりなんだな!?」
そんなこと一言も言ってないのだが。つか以前も同じような勘違いをされたような記憶があるな。そんなにカラダを要求しそうな顔をしているのだろうか。しているのだろうなぁ。
「そんなことしないッスよ」
と言ってみるものの、例の如く聞き入れてもらえない。
幸いなのは、化学教師はパンツスーツを着用しているため、『パンツで許してくれませんか?』という例のパターンで下着を見せつけられる恐れが無いことだ。
「くっ……。不良生徒の恐喝に屈して私は純潔を散らしてしまうのか……。そしてその後は性奴隷に……」
こいつ酔っ払ってんのか? なんかどんどん話が変な方向に膨らんでしまっているぞ。
参ったな……とポリポリと頬を掻く。と、その様子を見ていた化学教師の目がカッと見開かれた。
「ん? んん!?」
怪訝な様子でこちらに近付き、頬を掻いていた左手を掴んでくる。その甲をしげしげと観察し、驚いたように言い放った。
「お前、これタトゥーか!?」
え……? この教師、左手の刻印が見えている……?
「よくこんな場所に堂々とタトゥー入れてバレなかったなぁ! よし、これを見逃してやる! その代わりに先生の飲酒もだな……」
「ちょ! 先生、これ見えるんスか!?」
「おいおい、なに馬鹿な事を。まさか他の人には見えないタトゥーだとでも——」
言いかけて、何かに思い至ったようにハッとした表情を見せた。
「ま、まさか……」
そして、化学教師は、ゆっくりと前髪を搔き上げる。
現れたのは、刻印。俺の左手のものと同じ質感の刻印だった。
「これ、見えるか……?」
『惡』
彼女の額の中央に刻まれているのは、旧字体の『惡』と読める刻印だった。か、か、かっけぇ……!
「み、見えるッス」
まさか先生も……。
「先生も、異世界帰りで善行生活を?」
「あぁ! そうなんだ! 君もなのか!? まさか私以外にも異世界に行った人が——ってん? 善行生活と言ったか?」
「はい。違うんスか?」
「…………いや、先生のは"悪行"生活だ」
「は?」
「一日七"悪”。それが、先生に課せられた試練なんだ」