第2章------(6)
「で、結局、こうなるのか」
佐吉は山を登りながら、文句を言った。
「さんざん苦労した挙句、今、またあのカモシカを追いかけてるってことは、つまり、初めの日にあいつが現われた時、そのまま追いかけていれば良かったってことだよな」
「無茶言うな」
真吾は足を止めた。先ほどから急な勾配が続いているので、心臓の動きが早くなっている。かれは深呼吸して、汗をぬぐった。
「あの日、おいらたちがあのカモシカに追いつける可能性が少しでもあったか? こっちが必死に追いかけたって、向こうにその気がなくちゃ、追いつけるはずがない。向こうは四本足で、こっちは二本足なんだから」
かれは眼下を見渡した。木々の緑に隠れてわかりにくかったが、老婆の家が随分、遠くなっている。
「それに、あのカモシカはおいらたちを修験者のところに案内するために現われたんだ。菊音さんじゃない」
「婆さんは修験者は菊音じゃないと言ってたな」
「そうなんだ。でも、あの家には菊音さんの波動の残留があった……」
「わけがわからねえ」
佐吉はフンと言って、二人を待つように足を止めたカモシカを忌々しそうに見あげた。
「あいつめ、今度は俺たちを待っている。この前はさっさと消えたくせに」
カモシカは斜面に器用に立ちながら、岩と岩の間の草を食べはじめた。そのいかにも悠然とした態度が佐吉の癇に障るらしい。
「何だか、腹立たしいじゃないか。おちょくられているみたいでよ。こっちはあいつを追いかけて、道に迷って、さんざんな目に遭ってるっていうのに」
「……道に迷ったのはおいらたちの勝手だけどな」
真吾は「うーん」と唸った。
確かに、佐吉の言うとおりだった。
どうもこの山に入ってから、彼らは何者かにからかわれている感じがして仕方がない。はじめは登りやすかったくせに、すぐ手のひらを返したように険しくなった登山道もそうだったし、途中で現われたあのカモシカにしてもそうだ。
そして、その後の災難の数々。
正体不明の水音に誘われて、どんどん道を外れて、戻れなくなった。また、佐吉が怪我をして歩けなくなった。その後、運良く老婆の家にたどり着き、行き倒れることは免れたけれども、彼らは老婆の家の労働をしなければならなくなった。
(何だか、わざと困難に直面させられて、本当に危なくなる前に誰かに助けられてる感じがする……)
そう感じるのは考えすぎだろうか、と真吾は思う。
菊音が外部からの侵入者を歓迎しないことはわかっている。しかもそれが、大天使ラファエルの遣いとあっては、なおさらだろう。
とは言え、だからと言って、はじめから断固として侵入者を拒否するのではなく、会うつもりもないくせに受け入れる素振りを見せて、誘い込もうとするやり方が真吾は好きになれなかった。
(だいたい、あの時、お婆さんの家を見つけたのだって)
真吾には偶然とは思えなかった。
彼らが元気に山を歩いている時は人の住んでいる気配などまるでなかった山だった。それが、迷い迷って歩き疲れて、もう駄目だという時に、老婆の家が忽然と現われたのだ。
結果として、真吾たちは助かった。
助かったのだが、それは誰かに仕組まれた難儀であり、救出であったような気がしてならない。
「なあ」
真吾は佐吉に声をかけた。
「マルコを呼んでみよう」
かれは言った。
(真吾! どうしました。心配していたんですよ!)
心を集中して呼びかけると、たちまち応答があった。これまで何度呼びかけても、全く通じなかったので、真吾はまずそのことに驚いた。
「おいらだ。聞こえるか。今、どこにいるんだ、マルコ」
(どこって、あなたに待つように言われた山の麓ですけど)
真吾と佐吉は顔を見合わせた。
マルコの波動がとてもはっきり感じられる。実際、真吾は老婆の家に寝泊りしていた間にもマルコを呼び出そうとしたのだが、その時は何かぶ厚いものに遮られて、マルコの波動をかすかに感じることもできなかった。
「標高が高くなったから、通じやすくなったとか?」
佐吉が横から言う。真吾は顔をしかめた。
「そんなわけないだろ。おいらたちはまだ山の奥深くにいるんだ。通じにくいのはたいして前と変わらないはずだ」
(どうしたんですか? 心配したんですよ。もうあれから三日も音沙汰なしで)
マルコの言葉を聞いて、今後こそ真吾と佐吉はぎょっとなった。佐吉が小声で言った。
「おい。俺たちがあの婆さんのとこに厄介になっている間だけでも、六回は朝夕が入れ替わっていたよな」
「うん。今日で六日目のはずだ……」
真吾は頷いた。
そうなのだった。彼らが老婆に助けられてから、かなりの日数が経っている。いや、その前に山中を迷い続けていた期間もある。とても、山へ入ってから三日目などというものではなかった。真吾は表情を引きしめた。
「マルコ。おいらたちが山に入ってから、まだ三日しか経っていないんだな?)
(は、はい)
「そっちであったことを教えてくれ」
マルコは少し驚いたように黙ったが、すぐ答えてきた。
(こちらは特に変わったことはありません。でもはじめの日の会話の後、真吾と全然連絡がとれなくなって、真吾の波動も感じられなくなってしまったので、二日目になって、僕は大天使様の遣いの天使に連絡してみました)
「うん」
(そうしたら、天使様はもう少し、様子を見ろと仰って、それだけでした。僕たちも山に入ろうかと思ったのですが、止められました)
真吾と佐吉はまた顔を見合わせた。真吾は言った。
「お前、ラファエル様と直接、会話したのか」
(はい。昨日、遅い時間になってから、ラファエル様がこちらに現われたので、短い時間でしたけど、その時に)
「ラファエル様はなんて言っていた?」
(今、真吾たちがあの山のどこにいるかはわからないけど、霊人そのものは危険にさらされていないようだから、安心するように――って。ああ、それから、大天使様はこれまでの天気を気にしていたかな)
「天気?」
(ええ。山の天気はどうだった、と聞かれるので、ずっとこっちは晴れてます。上のほうだけ雲がかかっているけどそれだけです、て答えたら、ああそうか、とそれだけ……)
「…………」
真吾は黙った。ラファエルが様子を見に来て、そのように言ったのなら、きっと真吾たちに身の危険はとりあえずないのだろう。佐吉が言った。
「なあ、天気ってどういうことだ」
「おいらが知るか」
真吾はちょっと怒ったように言うと、マルコに言った。
「こっちは何とか無事だ。いつ帰れるかはわからないけど」
(菊音さんには会ったんですか)
「まだだ」真吾は叫んだ。
「でも、そのうち会えるさ。菊音さんはおいらたちが山に入ったことを知っている。知っていて、監視している。今、おいらたちはこの山の修験者に弁当を届けに行く途中だ」
(修験者? べ、弁当?)
「うん。でも、心配するな。一度は遭難しかけたけど、菊音さんのお遊びだったんだ。菊音さんは与えられた仕事を放棄して、個人霊界にこもったものの、退屈で仕方がないんだよ。おいらたちをからかって振り回すことくらいしか、楽しみがないんだ。根暗でひねくれ者で、他にやることのない、可哀相な人なんだよ」
かれは、どこかで彼らのやりとりを聞いているに違いない菊音に聞こえるように、大きな声で言った。
その時、まわりの空気がざわっと動いたような気配が真吾にはした。真吾はマルコとの会話を打ち切ると、白いカモシカを見あげた。
「菊音さんになんて言われてるかは分からないけど、今度はおいらたちを置いてゆかないでくれよな。おいらたちはお前のようにうまく登れないけど、よろしく頼むよ」
カモシカは賢そうな目で真吾を見つめている。今にも人の言葉を話しそうな雰囲気をかもしだしていたが、カモシカは喋らなかった。カモシカは自分について来るようにうながすように首を振ると、軽々とした足取りで山道を登りはじめた。
真吾と佐吉はいつかの花畑に戻った。
山中を迷い続けた三日間が嘘のように、あっさりそこに到着した。そして、この山に入った初めの日に見あげた切り立った峰に向かう本道に戻り、改めて、峰の峻厳さに息をのんだ。けれども、今回は真っ直ぐそこへ向かった。
「大丈夫かな……」
佐吉が不安そうに呟く。真吾は励ますように言った。
「大丈夫さ。きっと――おいらたちはもうすぐ菊音さんに会えるはずだ」
「でも修験者は菊音じゃないんだろう?」
「そうらしいけど、そのことはもう考えなくていいと思う。要するにここは菊音さんが作った霊界で、この霊界のどこにでも菊音さんはいるんだよ、佐吉。そして菊音さんはやっとおいらたちと会う気になったみたいなんだ」
「どうしてそれがわかる」
佐吉は真吾を見た。真吾は肩をすくめた。
「昨日、ラファエル様が来たからさ」
「ますますわからんぞ」
「まあ、おいらを信じろって」真吾は言った。
その後も険しい山道が続いた。崖ばかりの急勾配が続き、二人はなかなか先へ進むことができなかったが、今度はカモシカはじっと二人が追いつくのを待っていた。夜になると岩の窪みで身を休め、明るくなると歩きだした。食料と水は真吾が何とか作り出した。そうして、そうやって登り続けて二日目、彼らは頂上に辿りついた。
そこに白い装束を着た、壮年の男が立っていた。




