50
――戸破はクロールの選手だ、中学の時は水泳部の部員でもあった。
俺は泳ぎを水泳の授業でしかやっていない程度だ。
三年の二学期で、最初の体育の授業で水泳のテストがあった。
そこで所定の泳ぎ方で50メートルのタイムを競う水泳のテストがあった。
だから夏休みの一日、泳ぎの上手い戸破にクロールを教えてもらっていた。
学校のプールで、学校指定の藍色の水着で来ていた俺と戸破が一日中、クロールの呼吸法を教えてもらっていた。
ショートカットの戸破は競泳帽子をつけていて、健康的な水泳少女だ。
「兄ちゃん、なかなか筋がいいよ」
「いや、戸破の教え方が上手いよ。さすがは水泳部のエース」
「そんなことないよ」
俺は戸破の前でクロールを教わっていた。
戸破に拍手される中に、俺は五十メートルのプールを泳ぎ切った。
一通り練習を終えて、最後に戸破が言いだしたのが何気ない一言。
「大体呼吸は分かったよね。よし、最後にボクと勝負しよう」
「戸破がジュニアチャンピオンだから練習相手にも……」
「ダメだよ、兄ちゃん。早くなるのは競うのが一番なんだ」
「競うって、ただ試験で泳ぐだけだよ」
「いいのいいの、ホラっ。早くスタート位置について」
ジュニアチャンピオンの戸破にとっては、俺を練習相手として考えていないと思う。
軽い冗談のつもりなのか、それとも自信をつけさせるために言ったのか戸破の意図が分からないが。
飛び込み台の上に上がった戸破は、俺に手で合図をした。
「このプールは長水路だし、五十メートルでいいんじゃないか」
「五十?ああでも人がいるけど」
「大丈夫、あっちのレーンが空いているから」
四つのレーンは競泳用にあけられていた。
一声かけて、戸破は飛び込み台でストレッチ。
「兄ちゃんは下からでいいよ。飛び込みは危ないから」
「まあ、戸破の練習相手にもならないだろう」
「何言っているんだよ、ボクの練習をしに来たわけじゃない。
今日は、始めから兄ちゃんの練習をしに来たんだろ」
「ははっ、そうだな」
そういいながら俺はゴーグルをつけた。
「じゃあ、行くよ。位置について、ヨーイ、ドン!」
こうして俺と戸破のクロール50メートル対決が始まった。
そして結果は……俺が勝った。
タッチ差だったけど、俺が速かった。
そばにあったタッチの計測器がはじき出したタイムは27秒39。
戸破のタイムを0秒05だけ上回っていた。
「あれ、俺勝ったよ」
俺は苦笑いするしかなかった、学校の授業もあるけど、クロールで初のタイム計測。
学校のクロールのタイムは35秒だったから、楽々クリアのタイムを出した。
「ねえ、なんで……」
俺に負けてから戸破の顔にさっきまでの元気がなかった。
タイムを見たまま、プールから上がれないでいた。
「戸破……なんかごめん」
「ううん、気にしていないから」
その時の戸破は、明らかに顔が浮かなかった。
プールから上がってきた戸破は、俺に心に残る一言を放つ。
「ボクは兄ちゃんほど、持っていないから」
その一言が、純粋だった戸破の心のうちを表しているようにさえ見えた――




