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眠れる森の魔王様  作者: mahiru
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第一章

第一章


 村から僅かに離れた高台にぽつんと立つ一件の家。それを目指し、急ぎ、馬が駆け上がる。

緩やかな坂が螺旋を描いて小高い丘の頂へと続く。薬草園に囲まれた、丸太で組まれたさして大きくもない一軒家は村で唯一の医師ルールゥの自宅である。

 駆け込んできた者に、留守番をしていたセルリアーナは首を傾げる。隣の集落に住まう町長が倒れたとルールゥを連れて行ったのはほんの二日前で、その時やってきた人物と同じだった。未だ戻っていないのだからここにルールゥがいないことは知っているはずである。彼が再び訪れた意図がわからなかった。

 息を切らせた男に水を差出す。使いの男は一気に飲み干すと何度か大きく息をついた。

「ルールゥからの頼まれごとですか?」

 もしかしたら薬が不足したとかそういうことかもしれない。

 顔を上げた男の目がまっすぐにセルリアーナを見やる。そこに得体の知れない不安を感じて、自然と眉根を寄せた。

「まさか、ルールゥに何か」



 ウィッチ・ルールゥ。

 豊富な薬草の知識と的確な診察、そして彼女しか成しえない不可思議な治療。治せない病はないとさえ言われる稀代の医者。故に人々は彼女を魔女――ウィッチ・ルールゥと呼ぶ。

実際には治せない病気は存在するが、それを差し引いても優秀な医師であり薬剤師であることは間違いない。名医ルールゥはセルリアーナにとっては母であり、師匠でもある。

 そんなルールゥは自身の健康に関しては全く無頓着だった。

他人の体には敏感なくせにかなりの大酒のみで放っておくと一日中飲んでいたりする。こっそり隠しておいた酒も減っていたりするから油断がならず、不健康極まりないルールゥを管理するのも大事な役目のひとつである。だが、重ねた不摂生のせいかこのところあまり体調が良くなかった。本人は何ともないと言うものの毎日一緒にいて気づかぬはずもない。顔色も冴えず、少し痩せた気もしていたが、泊まり込みの治療でダウンしてしまったのだろうか。

 ……果たして、そんな不安を抱き、町長の家へと連れられて行ったセルリアーナは、うつ伏せでソファに寝かせられているルールゥと対面した。

「よお、ご苦労さん」

 大きな溜息をつくセルリアーナにルールゥが片手を上げた。その動きですら痛むのか、にやりと笑った顔がすぐに顰め面に変わる。

「ぎっくり腰だって?」

 使いの深刻な様子からどんな重病かと思えば本人は至って元気なようだ――精神的には。

「医者が倒れてどうすんのよ」

 セルリアーナは持参した薬草を配合する。ガーゼにたっぷりと塗って、痩せた背中にはりつけてやった。不要かとも思ったが病が篤く、息苦しい時などは湿布を首や胸に貼ることで少し楽になる。そう思って持ってきたものが意外な形で役に立った。

「もう若くないんだから」

「うるさいね、セナ」

 一言多いとルールゥがセルリアーナを愛称で呼んで文句を言った。

「じいさんの体を起こそうとして痛めたんだ。そんなに責めんなよ」

「だってお使いがくるなんてびっくりするじゃない。それに」

 煎じた痛み止めの薬草茶を持ってきた少年にセルリアーナは厳しい目を向ける。

「医者は帰るまで医者じゃなくちゃ」

「けどさ。ルールゥだってもう若くねえし」

「お前までなんて言い草だよ、フィオ」

 フィオ――ウォリフィオはセルリアーナの幼馴染だった。

往診などで不在にすることの多かったルールゥは友人でもある町長の娘にセルリアーナを預けることが多かった。おかげで幼少より知るウォリフィオとは親しく、お互い遠慮はない。

「で、どうなの町長さん」

「ああ、それだけどねえ」

 ルールゥは小さく息をついた。

「孫のいる前でなんだが、あんまりよくないね。もう少し様子を見たい」

「さすがのウィッチ・ルールゥも大変?」

「何がさすがだよ」

 疲れたように瞼を押す。

「あたしなんか、ただの無力なばあさんさ」

 力のない口調がらしくない。友人の病が篤いのが応えているのか、それとも徹夜の疲れか、薄く開いた淡い青色の目はぼんやりとしていた。

「なんでもなおーるみたいな薬とかあればいいのにね」

「あればいいねぇ、苦労しなくて」

「でも、そんなものがあったらルールゥは商売あがったりじゃねえの?」

 確かに、とルールゥが笑って見せる。

「でもなフィオ、あたしみたいな職業はないにこしたことはないのさ」

「だめだよ、そんなの。ルールゥは暇になったらお酒ばっかり飲むでしょ」

「それは迷惑だ。ルールゥ、飲むとうるせえから」

「そんなことないだろ」

「うるせえよ。ああいうの、酒乱って言うんだ」

 確かにルールゥは飲むと賑やかだ。普段も明るいのに、更に陽気になるのだから周りは大変だった。泣き上戸や説教するとかはないが、度を越せば迷惑なことに変わりはない。

「あー、うるさいガキどもだね。あたしゃ病人なんだ。静かに寝かせとくれ」

「調子のいいこと言っちゃって」

 これだけ言い返せるのならば大丈夫だろう。セルリアーナは広げた道具を鞄に仕舞って立ち上がった。

「じゃあ、悪いけど。この腐ればあさん置いといて。防腐剤は貼ったから」

「セナ。後で覚えといで」

 ルールゥが渋面を向けるのに、セルリアーナは舌を出した。

 どちらにしても町長の調子が落ち着かなければ戻ってくる気はなかったのだから、しばらくいる分には問題ないと思われた。問題なのはルールゥ自身の体だ。

「セナも泊まれば? もう遅いし。母さんに言って寝るとこ用意すっから」

 ウォリフィオが言う。

「俺も明日、家に戻るし。そん時一緒に帰ればいいだろ?」

「そうさせてもらいな。あんたも一応女の子だ。夜一人で歩くのは好ましくないね」

「一応って何よ。立派に女の子ですけど」

「分類上、仕方なくな?」

「なによ、フィオまで。失礼ね」

「そこでグーで殴ろうとするあたりが女子じゃないんだっつーの」

 セルリアーナは握った拳に目を向ける。乾いた笑いとともに慌ててそれを下ろすのだった。



「セナ、起きてるか?」

 親戚が集まった為に部屋は不足しているらしく、セルリアーナはウォリフィオの部屋で休むことになった。紳士気取りか母親命令か、ベッドはセルリアーナに譲りウォリフィオ自身はソファに横になっていた。

元はウォリフィオの母親のものだったこの部屋は今は時折遊びにくる息子が引き継ぎ、月や星に興味があるウォリフィオの書いた絵がそこかしこに転がっている。

「さっきの話、なんでもなおーるだけど」

 何を言い出したのかと思えば、セルリアーナが思いつきで言ったことについてらしい。

「ワールデアってあるじゃん」

「ワールデア? 何それ」

「……」

 一瞬の沈黙に部屋がしーんと音を立てる。

「な、なによ。なんで黙るの?」

「医者の助手みたいなことしてんのに、なんでワールデア知らねえの?」

ルールゥから教わった中にそんな名前の薬草はなかったはずだ。間違えては大変だと、効能と名前だけはしっかりと教え込まれているが、似たような名前も特に思い当らない。

「すげえ昔にはあったらしくて、なんでも治せる薬草なんだって」

 思わずセルリアーナは起き上がった。

「ほんとに?」

「けど、ずっとずっと昔の話だよ。本当かどうかわかんねえくらいのさ」

「なに、それ。じゃあ今はないんじゃん。期待させないでよ」

 現存していないのならば教えてもらっていないのも道理だ。

「でもな、村の裏の森あるだろ。あの森、昔ワールデア・ワルトって呼ばれてたんだって」

「そうなの?」

 ワールデア・ワルト――ワールデアの森という意味だ。

今でこそ単に森と呼ばれているがそんな名前があるとは知らなかった。同じ名前を持つ森ならば、もしかしてもしかすれば採取できる可能性は……あるかもしれない。

「まあ、でも、ただの偶然かもしんねえし、多分、もうないんだろうけど」

「フィオってなんでいつもそう後ろ向きなのよ。夢がないっていうか、諦めが早いよね」

「だって、なかったら俺のせいにすんだろ、絶対」

 当たり前だと応じてやるとウォリフィオはがやっぱりと呟いた。

 ――本当にないのだろうか。

 もし、あるのなら是非にもほしい。そうすればルールゥの体調不良も治るかもしれない。

 実はルールゥが倒れたと聞いてセルリアーナは酷く焦った。今回はたまたま大したことはなかったが、このところの体調を考えると、まさかと不吉な考えが浮かんでしまう。

 セルリアーナは捨て子だった。それを引き取り育ててくれたのがルールゥだった。

ぐうたらでだらしのないルールゥだが、その分愛情はたっぷり注いでもらったと思う。そんな恩人には未だに何もできていない。勿論仕事の手伝いはしているし、家事だってしている。けれどそんなことで返せるとは思えない。まともに手伝えるようになったのなんて、ごく最近のことだ。小さい頃は面倒ばかりかけていたのに違いないのだから。

「行ってみるか?」

眠ってしまったのかと思うほどの時間をおいて、小さな声がした。

「セナが行きてえなら一緒に行ってやる。手に入ったらじいさんも治るかもしれねえしな」

 そういえばと思う。ウォリフィオはおじいちゃん子だった。小さい頃はセルリアーナもよく面倒を見てもらっていた。

「どうする?」

行ってみる価値はあるかもしれない。どうせルールゥがいなければ留守番をしているしかないのだ。ルールゥの世話をしない分、時間ができる。

「でもな、あの森、悪い王様がいるとかって聞いたことがあんだよな。ずっと昔にここら辺を支配してて、年に一度村の娘を生贄に奉げてたって」

 いかにもありそうな話だ。確かウォリフィオの母親がしてくれた寝物語にあったような気もするが、得てしてそういうことが本当であった試しはない。

「どうせ昔話のひとつでしょ。どこにでもあるじゃない、そんなの」

 だよな、とウォリフィオが笑った。

「じゃあ、オーリャも誘って行ってみっか」

 オーリャもまた幼馴染である。小さい頃から何をするにも常に三人一緒だった。来る来ないは別としても、やはり声をかけねば拗ねるかもしれない。



 空はどんよりとした黒い雲を浮かべていた。

秋めいてきた日差しは完全に押しのけるだけの強さは持ち得ていないらしい。周囲の景色が森と思しき様相を呈してくる頃には、木々の影も相まって既に夜のような暗さに感じられた。

「そういえばさ」

どこかうんざりしたような口調でウォリフィオが口を開いた。

「オーリャって雨女だったな」

「そっかな。どっちかって言うと、あたしは雨女じゃなくて吹雪女だよ」

どっちも嫌なことに変わりはないが、暢気な声はそんなこと全く気にしていなさそうだ。

「そういえば、フィオって」

 先程のウォリフィオの口調を真似るように、オーリャが言う。

「どんなに遠くに行くのにも、ちょっと散歩行こって誘うよね」

「え? 言わねえよ」

「いや、言う」

 断言したのはセルリアーナだ。同意を得られたせいかオーリャがそうだよねと頷く。

「よかった。今回はぴんときたんだ。風邪気味だからかな」

「風邪気味なのに来たの?」

「だって、誘われたから」

「断りなさいよ」

「断れよ」

 オーリャの回答にセルリアーナとウォリフィオの声が思わず揃ってしまった。ところが当のオーリャは大丈夫と笑って見せる。

「だってね、ほら、ぴんときたからね、重装備できたの」

 オーリャが屈託なく答えるのに、セルリアーナは頭を抱えた。幼い頃から一緒にいる親友だが、未だに理解できないところがある。ぴんと来る前に別の方向へその判断を向けるべきだとは考えないのだろうか。

「それよりね」

密かに苦悩するセルリアーナに気づくこともなく、オーリャがのんびりと口を開いた。

「ここって小さい頃入るなって言われてたような気がするけど、なんでだったっけ?」

「昔、悪の王がいたんだって。取って食われるからみたいよ」

「へえ。そうなんだ。でも、人なんて食べておいしいのかな?」

「セナ、省略しすぎ。オーリャ、食いつくとこが違うだろ」

「でも、つまりはそういうことでしょ?」

「まあ、間違ってはねえけど」

 力なく肩を落とすウォリフィオだった。



「ところで。わーるであってどんな植物なの?」

 オーリャの質問にセルリアーナとウォリフィオは顔を見合わせた。

 そういえばどんなものか知らない。漠然と木だとは思っていたが、どんな木でどんな葉をしているか、花を咲かせるのか、そもそも冬に葉を落とさずにいるのかすらわからない。

「あー……えっと、多分、見たことのないのがそうよ」

なるほど、とオーリャが目を輝かす。

「セナ、天才」

「違うと思う」

 ぼそりとウォリフィオが言った。

「じゃあ、なんだっていうのよ」

 とは言うものの、ここまでかなりの距離を進んできているが、さして珍しいものは見当たらなかった。いつもの習慣で薬草類をなんとなく集めながら――勿論、他の二人にも拾わせながら――探してはいるものの、代わり映えのない景色だけが続いている。

 一応、三人は寝袋代わりの幌を持参してきていた。背負った荷物に括り付け、今夜は森の中にとどまるつもりでいた。セルリアーナはルールゥの為、ウォリフィオは祖父の為、オーリャはというと……単に暇だかららしい。

「なんかさ、静かな森だよね」

 オーリャの声はひどく森の中に響く。

 見上げると、分厚い緑の屋根は空の片鱗を覗き見ることも許してはくれなかった。

 仄暗いので昼なのか夜なのか、日差しでは判断がつかない。頼りになるのは己の体内時計だが慣れない道を歩く疲労は生活に根付いた体のリズムを狂わせる。開けた場所を見つけ、携帯食で食事を済ませると、三人は再び歩き出していた。これだけの森でありながら、鳥が囀る声もなく、獣が歩いたような様子も見受けられない。どういうわけだか樹木以外の息吹を感じることのできない森だった。

 何かが変だと思い始めると色々なことが気になりはじめる。

感覚を狂わせる明暗。変わらぬ風景は本当に進んでいるのか不安で、なんとなく方向感覚もおかしいような気がしていた。季節は確かに秋でまだ冬ではないはずだが、吐く息は白く、手先が凍えるような寒さがある。それなのに生い茂る緑は夏のように生気に満ちている。

「ねえ、あれ何かな」

 皆が何かしら違和感を抱いているのか会話は途切れたままだった。どれだけ無言が続いていたのか、ふいにオーリャが指を指す。目を上げると明らかに人工物と思しきものがあった。木で組まれた、不細工なそれは何かの方向を示す看板に似ていた。

「何か書かれてるのかな?」

 何かの形跡は伺えるが、染みと化した文字は木材の黴と同化して判別不能だ。もっと良く見ようと、セルリアーナが看板に近寄った時だった。耳に届いた音に三人が一斉に顔を上げる。

「今、何か聞こえたよね?」

「何かの声か?」

「鳴き声っぽかったよ」

 周囲に注意を向けながら、三人は背中合わせに身を寄せた。落ち着かない呼吸が目の前に白く雲を作る。気のせいだろうか、急激に温度が下がったように感じられる。

 奇妙な静寂が包む。空気までもが緊張にこわばったかのような不気味な空白が流れ――。

「――はっくしょん」

 オーリャのくしゃみにセルリアーナは勿論、ウォリフィオも飛び上がった。咄嗟に護身用の短剣に手をかける。

「オーリャ、びっくりするじゃない」

 ごめん、とオーリャがセルリアーナのひそめた声に、やはりひそひそと答える。仕方ないとは思うがタイミングが悪すぎる。

 風は全くない。それなのに木々がざわざわと揺れた。そして足元から鳴動するような不気味な音が振動となって伝わる。まるでそれは地の底からの呻き声のようだった。

「いるんだ」

「……何がよ」

「魔王」

 ぽつりとウォリフィオが呟いた。さすがのセルリアーナも否定はしなかった。確かに今響いたのは風の唸りなんかではなさそうだ。

「帰った方がよくない?」

 仲良し三人なら森の野宿なんて大丈夫と軽く考えていたのだが、もはやそれどころではなかった。何を見たわけでもない。それなのに得体の知れない恐怖が三人を包んでいた。

 再び大地が鳴動した。同時に見つめる先に、青く小さい光が幾つも現れた。

「――逃げなきゃ」

 声が震えた。幼馴染二人もセルリアーナが見ているものに目を向けて息をのんだ。

「走れ」

 ウォリフィオの声が合図だった。三人は出口を目指し、来た道を戻るべく走り出していた。



 背後に迫ってくるのは獣の息遣いだ。餓えた獣の、餌を求めて追う足音が近づいてくる。

 幸い走るに邪魔な草は少ない。これだけ光を遮られながら苔の生育が見られないというのも不自然な話だ。だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。とにかく必死に走る。

 ぽつりと頬に触れる水滴があった。見上げる余裕はなかったがそれが雨だということは考えずともわかった。茂る緑は雨を遮ってはくれないらしい。それも無理はないことだろう。認識して間もなく、雨は白く筋を引き、やがては視界を煙らせるほどに激しくなっていく。あっという間に足元には水の流れが生まれていた。

「――あっ」

 泥濘に足がはまりセルリアーナは派手に転倒した。起き上がるよりも先に咄嗟に背後を振り返り――そして呆然とした。

「……」

 息遣いはすぐに間近だったはずだ。追ってくる足音も聞こえていた。ところが見やった先にはただ白く煙る闇が広がるだけ。そこには何者の姿もなかった。のろのろと立ち上がって改めて見渡しても、やはり何もない。

狐につままれたような気持で辺りを見回して、セルリアーナは瞬いた。

「フィオ?」

 獣もいなければウォリフィオの姿もない。

「オーリャ?」

 よろけつつも支えあいながら走っていたはずのオーリャの姿もない。いつの間にかセルリアーナは一人になっていた。

「フィオ、オーリャ」

 洞窟でもないのに声は不気味に木霊した。まさかやられてしまったわけではあるまい。さすがにそれに気づかず走っていたなんてことはないだろう。そんな様子はなかった。

「オーリャ! どこ?」

 泥水を跳ね上げ、セルリアーナは数歩戻る。

「フィオ、返事してよ!」

 答えるのは雨の音だけだった。



 重い足を引きずって雨の中を歩く。一向に止む気配のない雨はますます強くなっていく。

 冷えた空気に濡れた服は冷たく、寒い。幌を取り出して被ってみても、少しも軽減されることはなかった。悴む指先は襟元を抑える力すら奪っていく。

どれだけ歩いただろうか。森の出口を目指し歩く眼前に、突如、黒く重厚な影が現れた。それは左右どこまでも続いているようで、見上げるほどの高さがある。

「……壁?」

 雨に濡れて黒く変色したそれは城壁だった。石組みの壁の最中、大きな木製の扉は門のようだった。十字型に鉄を配した扉はひどく重そうだ。

 城壁やこの門では雨を凌ぐことはできそうになかった。扉を見回し、人の頭ほどもあるような鉄製のつまみを力の入らない手で持ち上げると、それは難なく内側へと開かれた。

 こんなところに、こんなものがあるなど思いもしなかった。堅牢な石組を見やりつつ、数歩、足を進めたところでセルリアーナは立ち止まった。

 ――ウォリフィオが話していた悪の王。もしかしてその城ではないのか?

「そんなわけ……ないよね」

 過った考えを全力で否定したいのにできないのは、これまでがどこか不自然で異常な状況だからだ。だが、セルリアーナは頭をひと振りして抱いた違和感を思考から追い出す。まずはこの激しい雨を凌ぐことを考えたかった。

 出迎えたのは広々とした庭だった。外側の無機質さとは裏腹に色鮮やかな花が彩る美しい庭園で、中央を門から続く石畳がまっすぐ城へと続く。その両脇、緑の芝生には左右対称の噴水があった。左右から弧を描く階段を上った先が玄関のようで、恐らく木製だろう大きな扉、その上部はステンドグラスで僅かに光を跳ね返す鈍い輝きがある。やや小振りではあるが尖塔を備えた立派な城だった。庭の構造含め左右均等のバランスの取れた構図は美しく、まるでおとぎ話に出てくる城のようだ。

 セルリアーナはきょろきょろと見回し、階段を上がってみた。荷物を下ろし、玄関と思しき扉の前に立ってみる。僅かにせり出した庇が多少の雨避けにはなるものの、思った程には防いではくれなかった。足元で跳ねあがる飛沫も冷たく、少しでも逃れようとできるだけ扉へと身を寄せた。

 ――やっぱり階段の下の方がよかったかな。

 なんとなく薄暗くて不気味な感じがしたので避けてみたのだが、そうも言っていられない。今は少しでも屋根があるところが恋しい状況だ。

 移動しようと、荷物を持ち直そうとした時だった。よろけた拍子に背中を扉に預ける形となった瞬間――体は傾いでいた。

「――え」

 慌てて宙に向かって手を伸ばすが当然掴むものはない。開くはずがないと思い込んでいた扉が開き、気が付けばそのまま尻餅をついていた。

 冷たい床だった。濡れた服が余計にその冷たさを感じさせる。痛みと冷たさに顔を顰めつつ立ち上がった目の前で、扉は勢いよく閉じられた。

「はあっ」

 扉は開く気配はなかった。寄りかかっただけで開いたはずなのに、押しても引いてもびくともしない。真鍮のノブを握った手が痛くなるほど動かしても全く反応すらしなかった。

「どういうこと?」

 玄関口はテラスになっていた。やはり弧を描く階段があり、ガラス張りの天井から稲妻が室内を照らす。そのたびに幾重にも細工を重ねたシャンデリアが複雑な色合いに反射する。

 見下ろす視線の先、壁に配された豪奢な燭台に火が灯っていく。まるでセルリアーナを誘うようにして、広いホールに面した一つの扉がゆっくりと開かれた。

「……」

 戻る道はない。ずっとここにいたところでこの玄関が開くことはないのだろうと思った。となれば、先へ進むしか選択肢はない。

「悪の王? 上等じゃない」

 セルリアーナは精一杯虚勢を張って、階段へと足をかけた。



 最初に街道に到達したのは意外にもオーリャだった。

 まだ高い日差しに目を細める。しばし呆然と見上げて、オーリャは振り返る。

「外、だね」

 いつしかみんなとはぐれ、一人で走っていることに気付いたものの、戻ることもできず、ひたすらそのまま走り続けてきた結果だった。

 が、そこではたと気づく。

 森を抜けたからといって獣がそこで諦めるはずもないのに、足音はもう聞こえない。

「あれれ……どういうこと?」

 少し躊躇するも、大きく息を吸うと再び森へと足を踏み入れる。途端、獣の気配だけが迫る様子があった。姿の見えない化け物かと思うも、ある程度の距離以上近づいてこない。

「幻?」

 僅かな日差しでは森の奥までは見えないものの、明らかに何もない。オーリャはすっかり落ち着きを取り戻していた。

「セナ!」

 呼ばわるが答えはない。幼馴染の名前を呼びながらオーリャが歩いていくと、正面から一つの影が走ってくるのが見えた。

「フィオ!」

「オーリャ、無事だったか?」

「セナは?」

「わからない。はぐれちゃって」

 ウォリフィオがたった今来た道を振り返る。

「ねえ、獣の気配。どこか変じゃなかった?」

「ああ、途中でただの脅しだろうって気がついた」

 けど、とウォリフィオは続ける。

「そういう脅しをしてきた奴がいるってことは事実だ」

 それはそうだ。自然のものである森が勝手にそんな仕掛けになっているとは考えにくい。

 ウォリフィオが空を見上げる。

「日もまだあるし。俺、ちょっと探しに戻る。オーリャどうする?」

「一緒に行くよ」

 頷きあって、二人は再び森の中へと進む。

 同じ道を進んだはずだった。歩いていけばいずれあの奇妙な看板が見えてくるはずである。それなのに二人はそのまま森の外へと出てきてしまった。何度森へと踏み込んでも、暫く歩くと街道にもどってしまう。

「本当にいるの? 悪の王」

 オーリャが不安げにウォリフィオを見上げる。

「そんなわけねえだろ」

 答えつつも、ウォリフィオも認めざるを得なかった。

 確かにこの森はどこかおかしい。

 不気味な地鳴り。奇妙な獣。進むことのできない、この状況……。

 魔王が本当にいるのかなんてわからない。だが、この森には近づいてはいけないことだけは事実だったのだ。



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