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台所から聞こえてくるカチャカチャという食器の音。それに混じって聞こえる下手糞な鼻歌に、思わずふっと、微笑交じりに吐息が零れた。
皐月は変わっていないようで、やっぱり変わった。そして多分、私も変わった。
数年前まで私は、まるで時間が止まったように変わらないこの部屋や、そうしている皐月の在り方が、とても嫌だった。
あの事故以来ずっと皐月は、過ぎた光と去った影、その思い出だけを大事に抱えて、他には何も心を向けようとしなかった。時間は流れているのに、自分だけ時間の外にいるかのような涼しい顔で、変わることを頑なに拒絶していたのだ。私はずっと、皐月のその酷く後ろ向きの姿勢が、皐月にそうさせる皐月のその想いが、歯痒いほどに悔しくて嫌で堪らなかった。私は皐月が好きだったから。ずっと、好きだったから。
だから、いい加減にしてくれとうんざりしながらも、離れることが出来なかった。日常の些細なことからさえ生まれては突き刺してくる悔しさに、それこそ歯を食いしばって耐えながら、ずっと私は、ずっと変わろうとしない皐月の傍にいた。惨めさも虚しさも寂しさも、本当に吐き気がするほど噛み締めた。その頃のことを思うと、いまだ胸が苦しくなる。
まあ、私のそんな我慢の日々は、数年前とあるきっかけで爆発して終わりを告げたのだが、それはともかく。
『変わらないものがあるからこそ、変わっていくことが愛おしく、変わっていくものがあるからこそ、変わらないことが愛おしい』
開き直りや強がりではなく、素直にそう思えるようになった。
今にも弥生さんや真帆さんの声が聞こえてきそうなこの部屋で、皐月が何を思っているのかは分からないが、何を思っていたとしても、ああやって私の好きな歌を暢気に鼻歌で歌っている皐月だって、この場所に今確かに存在しているのだから、少なくとも皐月は今、私の皐月でもある。そう笑顔で言い張れる。きっと私はいつのまにか、恋する少女から図太いおばさんになってしまったのだろう。
皐月はまだ台所でカチャカチャ音を立てながら、鼻歌を歌っている。私は湯飲みの中のお茶を揺らしながら、ふと思い出したことを声にした。
「そういえば、先週、学校の新年会だったんだけどね」
「うん」
台所から皐月が相槌を返す。それを良しとして、話を続ける。
「その時の飲み屋さんで偶然、窪ちゃんに会った」
「窪ちゃん?」
「窪塚くん。ほら、高校の時生徒会してた、陸上部の、」
「ああ。学園祭で透子にバラの花あげた、あの彼?」
「そう、その人」
記憶の中の名前と顔が一致したらしい皐月に肯定して返す。と、皐月がお茶碗やらお箸やらを持って、台所から戻ってきた。
「へえ、懐かしいね。元気だった?」
訊きながら皐月は、持ってきた色々を私に渡すと、今度は鍋を取りに行くのだろう再び台所に向かった。私は受け取ったものを並べながら、口を動かす。
「うん。物凄くメタボってたわ。声かけられて、本気で一瞬誰だか分からなかったくらい」
「そっかあ、メタボってたか。全校生徒の前で、バラの花持って好きな子に告白した勇者も、メタボには勝てなかったか」
台所で皐月が苦笑するように言い、それから少し感慨深げに続けた。
「でも考えてみれば、あの頃は透子モテてたよね。三年間で通算何人からバラ貰ったの?」
「何、あの頃はって。失礼ね」
「あはは、ごめんごめん」
へらへらと軽く笑いながら、皐月が台所から鍋を持ってくる。私はその顔を、ぶすっとして睨みつけてやった。
私達の高校では学園祭で、男子がステージに上って好きな女子にバラを持って告白するという、ちょっとした伝統行事があった。はっきり言って黒歴史生産行為以外の何物でもないと私は思っていたのだが、若さがなせる業なのか、毎年結構な人数の人達が次々に黒歴史を生産していた。窪ちゃんこと窪塚くんも、その黒歴史生産者の一人だ。私は彼からバラを貰い、そして、ごめんなさいをした。ちなみに皐月は、三年間一度もバラをくれなかった。まあ、その頃皐月は、私を好いていたわけじゃないから仕方ないが。だけど私は毎年多少なりとも、皐月がバラをくれないかと乙女心に期待していた。そして毎年、がっかりしていた。
今更だと言われれば確かに、物凄く今更だってことは重々承知している。だけど、思い出せば思い出すほど、当時の落胆が軽い腹立ちに変わっていくのを、私は止められなかった。
ぶすくれるのはやめて、故意に視線を逸らす。そうしてからゆっくり、嘆息するように口を開いた。
「そんなに何人からも貰ってないわよ。私は、誰かさんと付き合ってるんだって大体の人に思われてたし。まあ、その誰かさんからは一度も貰えなかったんだけどね。今年こそくれるかもって、私は毎年どきどきしてたんだけど、所詮、乙女の叶わぬ夢ってやつだったわ」
視線を逸らしたまま、嫌味だけを真っ直ぐねちねちぶつければ、地雷を踏んだと思ったのだろう皐月が、「はは…」と力ない笑い方をする。しかし残念。もっと凄い爆弾を私は持っているのだ。
「ああ、そういえば、好きな人に、ぺんぺん草の花束を贈った純情少年がいたわねえ。いいなあ。私もそういうのが欲しかったなあ」
今度は故意に真っ直ぐ視線を合わせて、しみじみと歎美するように言ってやる。さすがにこれは効いたらしい。皐月は中腰で鍋を炬燵の上に置いたその姿勢のまま、こっちを見て固まった。その顔が、小さく引き攣っている。私は殊更、澄ました顔をしてみせた。
嫉妬深いと思うなら、思えばいい。私は時間と共に図太いおばさんにはなったが、聖母になったわけではない。妬みも嫉みも羨みも、愛情の中に全部ちゃんと併せ持っている。きっと、今こうして、そういった醜い感情が自分の中にあることを堂々と認めて、尚且つ愛おしいとさえ感じることが出来るのも、時間と一緒にいろんなものを私自身が乗り越えて、変わってきたからこそだろう。
「またえらく古い話を……。誰から聞いたの、それ」
私が知っていたことがよほど予想外だったのか、動揺丸出しの引き攣った顔と声で、皐月が訊く。私はにっこり笑って、素直にはきはき答えた。
「真帆さん」
「本人かい」
呻くように言って皐月は、がくんと膝を突くと同時に大袈裟に頭を垂れた。耳が真っ赤だ。きっと今、皐月の頭の中は、恥ずかしさやら恥ずかしさやら恥ずかしさで、大変なことになっているのだろう。少し爆弾が過ぎたかもしれないとは思うものの、こんなふうにうろたえる皐月は滅多に見られないし、胸もちょっとすっとしたし、良しとする。
「いやっ、違うよ? 透子が思ってるようなのじゃないよ、あれは」
がばっと顔を上げた皐月が、唾を飛ばして往生際悪く言い訳するのを、私は、すぱっと笑顔で遮った。
「知ってる。誕生日プレゼントだったんでしょ」
どこの世界に、単純に兄の彼女だと思っている女性の誕生日に、わざわざぺんぺん草の花を自ら摘んで贈る中学生男子がいるのだと、その話を聞いた時思わず、真帆さんに思いっきり突っ込みそうになった。だけど、真帆さんがあんまりにもにこにこして話すから、何も言えなかった。それはきっと私だけじゃなくて。彼女の微塵の疑いもない晴れやかな笑顔の前に、言えずに飲み込んだ言葉が恐らく沢山あったことだろう、皐月少年は。
「真帆さん、この話してくれた時、すごく嬉しそうだったわよ。良かったね」
残念極まりないことに、当時の健気な少年を慰めることはもう出来ないから、代わりに今目の前にいる皐月の頭をよしよしと撫でて笑う。皐月はじとっとした目をぶつけてきたものの、やがて肩を落とすと、ぶつぶつと言って寄越した。
「なに、今からバラの花束を買ってくればいいの?」
「バラなんて今更いらないわよ」
まあ、今更なことを最初に言い出したのは私だが。だけど少女だった私が欲しかったのはバラそのものじゃなく、そしてそれはもう今ここに、私の手にある。今更バラを貰っても、意味はない。
「ごめんね、ちょっといじめてやりたくなっただけ」
笑って率直に言う。皐月はそんな私に、まだ少し拗ねた目を向けつつも、ごそごそと足を動かして定位置にきちんと座り直す。その耳は、いまだ赤くて。私はこみ上げる可笑しさやら、ちょっとした焼きもちやらに、わざとらしい声をあげる。
「あーあ。あの頃は可愛かったなあ」
「透子もね」
「もねっていうか、最初から私のことよ。あんたのことは言ってない」
間を置かず返ってきた不貞腐れた声に、明るくきっぱり言ってやれば、皐月は観念したように大きく肩を上下させた。口で皐月が私に勝てるわけがないのだ。
「いいから、ほらもう、食べよう」
皐月もそれを悟ったのだろう、せっせと手を動かして、鍋の中の七草粥を私のお茶碗に盛ってくれる。私は笑顔でそれを見ながら、皐月からお茶碗を受け取った。
「熱いから気をつけてね」
「はーい。いただきまーす」
子供に言うような口ぶりの皐月に良い子の返事をして、手を合わせ、お箸を持つ。しかし、いざ食べようとしてお茶碗の中、ほかほかの白い湯気に包まれた七草粥に目をやった私は、そこにあるものに、ぴたりと手を止めた。




