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1.麻里衣(1)

「婚約者との、顔合わせをする。クリスマスの日だ」


 目の前の男は、こちらに顔を向けることなく、コーヒーを口に運びながら告げた。

 夕空を背景に、逆光でやけに目立つのは男の耳だけ。

 薄くて尖っている。


 麻里衣と同じ形だ。




「そうですか」


 麻里衣が淡々と答えると、男はぴくりと片眉を上げて、娘のほうに向き直った。しかし、その時にはもう彼女の姿はなかった。






 理事長室を出た麻里衣が、しずしずと階段を降りていくと、「マリィさま!」と声がした。


 階段の上から、一学年下の増山さんと十川さんが、手をひらひらと振っている。麻里衣は口の端をわずかに上げ、ほほ笑みのかたちをつくった。


 きゃあきゃあとかしましい声を背に、麻里衣は図書室へ足を進める。




「マリィさまって天才らしいよ。お金持ちで美人なうえにすごいよね」「一度見たものは忘れないんだって……」


 だんだん遠くなっていく声。

 悪口ではないものの、せめていなくなってから話したらいいのではないかしら、と、麻里衣は心を傾けることなく考えた。


「でもそれって……」


 続く言葉は、麻里衣の耳には入らなかった。






 夕方の図書室には、いつも同じような顔ぶれが揃っている。

 中等部の学年トップ田中さんに、図書委員の松崎くん、それから小説を書くのが趣味の木下さんなど10名ほど。


 彼らは誰も麻里衣を目に入れない。

 手元のノートあるいは書物に固定された視線が心地よかった。


 それでも念のため周りの様子をうかがいながら、ひと気のない郷土資料の書棚へ向かう。





 高窓から落ちてくる夕日が、古いもののよく磨き込まれた木の床に、水たまりのようにきらきらと反射していた。


 書棚の奥には、スチール製のこっくりとした深緑の扉。

 そっと押し開け、黒いセーラー服の裾を翻して忍び込む。





 低いところから降ってくる西日の眩しさに、思わず、片目をゆるく閉じた。


 目の前には人がふたり肩をぶつけずにすれ違えるくらいの、狭い通路が広がっている。奥には臙脂色の扉。


 ここは図書室棟と植物園棟とを繋げる、渡り廊下だ。




 学園の創設者である祖父の趣味だという。

 通路の右側は全面硝子張りになっており、その向こう側には中庭がある。


 縦に細長いそこの中央には、大きなもみの木。

 飾りつけこそないものの、芝が敷かれているのに雑草や枯れ葉ひとつなく、よく手入れされていることがわかる。


 用務員のニコラス(・・・・・・・・)がやったのだろう。





 麻里衣は、窓の前にある楽譜台の前に立った。


 楽器もないのに、なぜか窓に面して設置されている楽譜台には、いつもの通り、五線譜のノートが置いてあった。


 麻里衣は記憶の引き出しから目的のものを取り出すと、そこにめちゃくちゃな音楽をしるしていった。




 ソドソ、レラソレミ、ドソファソ




 ところどころに「8Va」「8Vb」という記号も付け足していく。

 五線譜の左端にはト音記号やヘ音記号のかわりに、こんなマークを描いた。




 88、土星のマーク、3ー。




 五線譜にめちゃくちゃな曲を書き終えると、麻里衣は通路を引き返した。

 音を立てないように気をつけて、図書室を抜けていく。


 松崎さんが顔を上げて、それから会釈を寄越したものの、今まで麻里衣があの通路に出ていたことはきっと気づかれていないだろう。





 麻里衣は図書室を後にし、学生用の玄関も出た。

 階段には男子生徒が3人、足を広げて座っている。


「年末年始どうすんの」

「別荘」

「うちはいつも通りハワイかな」

「ずりぃ」


 麻里衣は、ちらちらとこちらに視線を向けてくる同学年の高林、立野、木村の3人に、どうとでも取れるフラットな表情を向けながら、内心ではため息をついていた。


 それはあなたたち自身の価値ではないのに──。






 中等部1年目のころ。

 麻里衣よりもひとつ年上の少年が学園を去った。




 椙本聖士(すぎもと さとし)という名前の彼とは、一度も話したことがなかった。


 顔も耳も身体もふくふくして、いつも幸せそうに口の端を上げていた。

 周りをよく見ているのか、困っている人がいると、真っ先に駆けていくのが彼だった。


 優しげな見た目とはうらはらに、切れ者でもあった。


 つねに学年一位の欄に名前が載っていたし、教室棟の廊下には、彼が最高賞を受賞した作文も掲示されていた。

 だから、麻里衣は彼のフルネームを知っているのだ。





 毎年12月22日には、初等部から高等部まで共同で行われるクリスマスコンサートがある。


 そのとき彼は、高く透き通った声で歌っていた。

 まだ声変わりを迎えていない少年らしい声で紡がれる聖歌に、肌という肌が粟立ち、そのつぶらな目からも、薄めのくちびるからも、ふくふくとした耳からも目が離せなくなった。





 椙本聖士は、学年でも一、二を争う富裕層だった。

 母は元歌手で、父は知らぬものがないほどの大企業の社長──。そんな彼が学園を去ったのは、クリスマスコンサートの直後に両親が不幸な事故で亡くなり、その後がうまくいかなかったかららしい。宮脇さんがそんなことを話していた。




 麻里衣は、ねっとりした嫌な視線を向けてくる高林たちにほほ笑む。

 彼らが無知すぎて思わず笑いが込み上げてしまったのだ。


 麻里衣だって、父の存在があるからこその、この暮らし、この容姿なのだ。

 よく手入れされたつやつやの黒髪も、荒れることの無い真っ白な肌も、ささくれ一つない桜色の爪も。


 親のもたらす富は、自分自身の価値ではない。

 なんとも浅はかなことだ。





 急に落ちてきた冬の空気に肩を丸めながら玄関から玄関へと遠回りをして、植物園の扉をくぐった。

 ふわっと暖かさが広がった。




 植物園棟は、硝子張りの温室。

 冬の曇った日でも柔らかい明るさに満ちていた。


 生徒はほかにいないようだ。図書室とは異なり、こちらはいつでもがらんとしている。




「あれ、お嬢」


 金髪で細身のその男は、麻里衣の姿を見とめると足早に近づいてきた。

 ブルーグレーのつなぎに身を包み、首からタオルをかけた彼は、この棟の用務員だ。




「なんか飲んでく?」

「ええ」


 男はうれしそうに頬をゆるめた。

 二人は、アイアン製のテーブルセットに腰かけて、他愛のない話をした。


 たとえば、最近読んだ漫画の話とか。





「ごめん、忘れてた」


 しばらくすると、男はそう言って、用務員室から赤いマグカップを二つ持って戻ってきた。


「ホットチョコレート。お嬢、好きでしょ」

「マシュマロも入ってるのね」


 麻里衣はあまり変わらない表情を、わずかにゆるめた。




「ん。チョコはさ、角チョコのミルク入りのやつを2つ入れただけなんだ。結構うまいでしょ」

「あの、ひとつぶ10円のチョコね」

「そう。お嬢様には縁のないやつ」


 男は目を細めて、くつくつと笑った。

 耳に開けたピアスに、落ちていく夕日の最後のきらめきが光っていた。




「いけね」


 男は温室の中に灯りをともしていった。

 本当に燃えているように揺れたり明滅したりする、LEDキャンドルライトだ。


 それを一つずつ、まるで、夜空に星を置いていくような、見た目にそぐわぬ丁寧さで男はつけていった。


 ここに初めて来たときよりは、ずいぶん逞しくなった背中に向けて、麻里衣は、その言葉を放った。





「そうそう、父がね、私の婚約者を決めるんですって」


 男は機械仕掛けの人形のようにぎ、ぎ、とゆっくり、強張った様子でこちらに振り返った。

 予想外だというように目が見開かれている。


 麻里衣はその表情の奥にあるものをじっと探る。

 そうして、頷いた。


 ある程度、見えてきたのだ。





「……婚約?」


 ややあって、男はようやく口にした。

 驚いた表情を崩さぬまま、耳たぶに触れた。


 全体的に鋭い鷹のような印象の人だけれど、耳は大きく丸くて、ぶ厚い。




「そう。私、まだ17なのだけれどね」


 視線を落とし、ふぅ、とホットチョコレートを冷ます。

 甘い。痺れるくらい、甘かった。

 ちびちび口に運ぶと、思っていたより熱くなく、かといってぬるくもない、ちょうどいい温度だった。




「お嬢はさ、その……どう思ってんの」


 男は、言葉を選びながら尋ねた。


「知りたい?」


 麻里衣は、男の目をまっすぐに射抜いた。

 彼は、ごくりと息を飲んだ。怯んでいるように見えるが、けれどもその目には覚悟が見える。





「……ひみつ」


 麻里衣はくちびるに人差し指を当てて、くつくつと笑った。


 ぽかんとする男の顔を見たら、さらに笑いが込み上げてきて、長く伸ばした黒髪をふわりと舞わせるように踵を返した。








続きは、明日、クリスマスイブの18時に投稿します。




※この作品は、noteにも投稿しています。

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