2.麻里衣(2)
あの秘密の通路を見つけたのは、初等部のころだった。
当時の麻里衣は今よりわずかばかりお転婆で、家庭教師がついており誰よりも先に進んでいるからと、授業を抜け出しては勝手に校内を探索していた。
周りの人間はみな幼稚に思えて、関わろうともおもえなかった。
父には苦言を呈された。母は、その半年ほど前に他界していた。
図書室棟から植物園棟に繋がる通路を見つけたときはわくわくしたものだが、温室で用務員に捕まった。
臙脂色のつなぎを身にまとった恰幅の良い男で、目が隠れそうなくらい太い真っ白な眉をしていた。
そして、髭もまた白く長い。
「サンタクロースみたいね、あなた。帽子だけが違うけれど。ねえ、サンタって呼びましょうか」
そう言ったら、なんだか苦々しい顔をした。
「せめて、ニコラスにしてもらえないか」
「いいわよ。聖ニコラウスってことね」
「……詳しいな」
「一度見たものは、忘れない性質なの」
秘密の通路を作ったのが、麻里衣の祖父だと教えてくれたのもニコラスだった。ニコラスはいるときも、いないときもあった。
授業を抜け出してくる麻里衣に思うところがあるようだ。
そういう表情をしていた。
けれどもニコラスは理由を聞いたり責めたりせずに、苦虫を噛み潰したような顔で、ただそばにいてくれた。
温かいほうじ茶を麻里衣に出すと、枯れた花の花がら摘みに戻っていく。
その様子をただ眺める。そんな午後を、何度も過ごしてきた。
「君は、その……今、ほしいものなどないのか?」
あれは麻里衣が10歳、クリスマスムードに街が包まれはじめた頃だった。
ニコラスがおもむろに聞いた。
「自由な選択、あるいは生きているという実感かしら」
麻里衣はニコラスの薄い耳に視線をやり、こてりと首を傾げた。
「私はまるで、籠の鳥みたいだもの。別に不自由はしていないし、必要なことなのだろうと理解もしているけれど、ね」
ニコラスは悲しそうに笑った。
それから、君に夢はないのかと聞いた。
「漫画」
「……漫画?」
「そう。漫画を描きたい。図書室にはない本でしょう、高林から、拝借したのよ」
「君は……」
麻里衣は、ニコラスにまっすぐ目を向けた。
「私の未来は決まっているわ。一人娘だもの、父の後を継ぐ。でもね、それまでは何したっていいじゃない」
麻里衣はそれから漫画の原稿を描きあげて、ニコラスを通してコンテストに応募し続けた。
「ねえ、あなたには夢はないの?」
ある日、麻里衣はあえてその質問をした。
「……声優になりたかった」
「ふうん」
意外だなと思っての返事だったのだが、ニコラスには無関心に映ったらしい。
「君に作曲の才能はないから。作曲家になりたいと言われたらどうしようかと思った」
珍しく嫌味を言われた。麻里衣はころころと笑った。
気まずそうにニコラスは話題をそらした。
中等部1年のころ。
12月20日。
ニコラスと話したあと、麻里衣は秘密の通路に戻った。
心なしか足取りが弾んだ。
楽譜台のうえにある五線譜のノートが、昨日と違うページになっているのを確認して、心がぽっと温かくなった。
88、土星のマーク、3ー。
ソ(8Vb)ド(8Va)ソ(8Vb)、レラソレミ(8Va)、ドソ(8Vb)ファソ(8Vb)
麻里衣は、頭の中から、暗号の変換表を呼び出してきた。
一音いちおん、指でなぞりながら読んでいく。
88鍵盤のピアノ。左から3番目の「ド」の音から順番にアルファベットを割り振ったものだ。
返事にはこう書かれていた。
「イブ 夜6時に ここで」
心が震えた。会える。
やっと、あの人に会える──。
麻里衣は、母を亡くしたころから、この五線譜ノートにこころを切り取って閉じ込めている。
実際に忘れることができるわけではない。
けれども書くことで忘れてもいいと気がゆるむのか、ほんの少しだけ記憶が淡くなる気がして続けていた。
誰にもわからないように暗号をつくったのに、そこに返事が書かれるようになったのは、梅雨の今にも降り出しそうな空の日。
麻里衣がはじめて暗号を書いてから3年と8ヵ月経った、6月24日の金曜日だった。当時は、初等部の4年生。
あらゆる物事を父に決められることにも辟易していた時期で、そういう愚痴めいたものを書いた。
「僕なら自分で選びとる道を探すだろう」
そう書かれていた。暗号を解読したうえで、同じルールに則って書かれていた。
否定するでもなく、肯定するでもなく。
麻里衣にはない視点だった。そうか、自分で動いてみればいいのかと純粋に気づいた。
そこからはじまったやりとりは、やがて愛読書の話や哲学的な話、植物や宇宙のことなど、どんどん発展していった。
知的で温かな人柄が伝わってくる秘密の文通に、麻里衣は夢中になった。
五線譜の中のめちゃくちゃな音楽は日に日に長くなり、増えていき──。
気づくと10冊目を超えており、麻里衣は初等部1年になっていた。
手紙の内容だけでなく、彼そのものにも興味を持つようになった。
だから期待しながら待っていたのだ。
ところが、クリスマスイブ、いつまで経っても彼は姿を表さず、父の運転手が迎えに来た。
父には「君はろくなことをしないな」とちくりと刺された。
すっかり暗くなった空からちらほらと落ちてくる雪も、車窓の向こうに吹き飛んでいく街の灯りも、虚しく思えた。
待ちぼうけのクリスマスイブから1年が経った、14歳のころ。
なんの前触れもなく五線譜のノートに返事を見つけた麻里衣は歓喜した。けれども、同時に失望した。
文通相手は椙山聖士ではなかったのだ。そう気づいてしまった。だって、彼はもう学校にいない。
そのうちニコラスが用務員をやめると言い出した。
金髪の飄々とした男がその後継になった。お茶を飲む時間も、漫画の原稿のやりとりも、彼が引き継いだ。
17歳になった麻里衣は、クリスマスイブの18時、図書室と温室の間へ向かった。
何度か鏡を確認した。
そして最後に、図書室近くの女子トイレで、セーラー服の胸元の白いリボンをきゅうと結び直す。モーブピンクの、色つきリップを塗った。
図書室側から通路へ進む。そして、扉に手をかけた。
思わず言葉を失う。
飾りひとつなかったはずのモミの木が、色とりどりの硝子のオーナメントで美しく飾り付けられていた。電飾はツリーに巻き付けられたものだけでない。中庭の壁から壁へ渡すように、星の形の小さな電飾が光っている。
ツリーの前には、小さなテーブルセットが置かれており、そして、硝子の前に男が佇んでいた。
予想外の光景の中に、予想通りの相手。
驚きつつも安堵した。
「聖士さん」
麻里衣が確信を持って呼ぶと、金髪の男は、意外そうに眉を上げた。
「気づいてたの」
「ええ」
「俺、学園に通ってたときと全然違うのに」
男は、金色に染まった、ちりちりと傷んだ髪の毛の先を触れた。
麻里衣は目を細めた。
「耳の形が同じです。ふくふくした大きなお耳」
金髪の男は、椙山聖士は、耳のことを言われたのと、今まで一度も見た事のない麻里衣の満面の笑みに見とれたのとで、頬を赤くした。
「今までのことは……」
「ゆっくり聞きますよ。でも、ある程度はわかってるんです。ニコラスの……いいえ、私の父の仕業でしょう? あの人、ああ見えて情に厚いですから」
麻里衣が言うと、ツリーの影から大きな物音がした。
父が隠れていることには気づかぬふりをして、麻里衣は聖士の少し荒れた手に、自らの華奢な手を重ねた。
はっとしたように音楽が鳴り響く。
「いつからあの人のこと……」
麻里衣はこてりと首をかしげた。
「はじめからですよ。サンタクロースの扮装なんてしてどうしたのかしらと思ったのだけれど。でも、小芝居をしたいようだったので、乗っただけです」
硝子の向こうから、どたん、ばたんと悶絶する音が響いていた。
「あ、わかった理由はですね、耳の形です。私もそうなんですけど、父もね、こう、ちょっとエルフみたいな、薄くて尖った耳をしてるんですよ」
話しながら麻里衣は、自分の声が上ずっていることに気がつき、不思議に思った。わたしってこんなに早口だったかしら、と。
「婚約者の顔合わせ、1日早められて良かったです」
「君は……」
「なんでもお見通し、ですか?」
「ああ」
聖士は、降伏したように、へにゃりとした笑みを浮かべた。
それはあの頃の、顔も身体もふくふくしていたころの彼のようで、麻里衣はうれしくなった。
鋭い目も、ピアスも、染めた髪の毛も、きっと自分を守るためにしていたことなのだろう。
愛おしくて、麻里衣は彼のほおにそっと手を伸ばした。聖士は顔を真っ赤にして、麻里衣からすこし視線を外した。
麻里衣は、むう、と頬をふくらませる。
「ふふ、父が私たちに発破をかけようとして言い出したのもわかっていますよ。この婚約に異論はありません。むしろ望むところです。……でもね、父に決められたっていう体がいやだったんです。あなた言ったじゃないですか、自分で選び取る道を探しただけです」
麻里衣が、こてりと首をかしげる。
聖士は苦笑した。
その目尻に浮かぶ光の珠を、麻里衣はそっと掬う。
「おかえりなさい」
ひらひらと雪が落ちてくる。
くすんだ薄紫の空を見上げると、麻里衣の瞳にも雪が滲んだ。




