7月23日の初夏
「………夢か」
強くなった日差しが、カーテンの隙間から顔に当たるのを感じて、俺は目を覚ます
外はやかましい蝉の声で溢れていた。その事が余計に季節というものを感じさせ、否応にも過ぎる時の速さを実感させる
今しがたまで見ていた夢は、春のゴールデンウィークに実際に起きたことのフィードバックだ
しかし、俺にとってはあまり言い夢では無い。代わりに二年近く俺を悩ませ続けてきた悪夢は見なくなったが
実際に起きたあの出来事は、今でも鮮明に焼きついているのだ
菜穂子とのデート、あいつの一昔変わったファッションセンス、お城を模したレストランでの食事
観覧車やジェットコースターに二人で乗ったこと、アイスクリームを食べたこと、夕日をバックにした彼女の笑顔―――
そこまでは良かった。それで終わってさえいれば青春の一ページとして刻まれていた出来事は
奴の登場と俺自身の愚かな判断によってひっくり返されて、全ておじゃんになってしまう
駅であった奴・河畑の顔。挑発、殴り合いの果てに一瞬の隙を突きあいつの顔をボコボコにしてやった事
これについては俺は後悔していない。四月のあの時だって新木に止められていなければ―――
――負ける確率が高かったとは言え、俺は河畑に喧嘩を挑んでいたはずなのだ。全ては予定調和だった
しかし、問題が起きてしまった。俺が馬乗りになってあいつの顔をボコスカ殴っている間に見られてしまっていたのだ
そう、彼女とは俺がデートに誘った石田菜穂子の事だ
当然の事だが、あいつは俺が引き起こした光景にショックを受けていたように見えた。それもそうだろう
今でこそ冷静に原因を分析することも出来るが、女の子があんな現場を見て平気でいるはずがない
同年代全ての女子がそうだという保証はないが、少なくてもあいつはそういった暴力を忌避すると思ったのだ
あいつが優しいことは俺も承知だ。だからこそ小学校時代に苛められる事が有ったのだし
それで性格が歪まないのだから大した人格者である。俺は簡単に捻くれてしまったが
尤も、あいつは同姓からそういった事をされていたので俺のケースに当てはめるのは、多少強引かもしれないのだが
今日は確か7月の23日。世間一般では…といっても社会人は違うのだろうが、夏休みに入ったばかりであった
高校生最後の夏休み。同級生達は思い思いに青春最後の逢瀬を繰り広げているのだろうと思う
今の俺がそういったことに実感を抱くのは難しいことだったが、俺もあんなことがなければ普通に過ごしていたのだろう
文也叔父さんの所に遊びに行ったり、新木とゲームセンターに出向いたり、菜穂子と映画館へでも見に行ったかもしれないのだ
しかし、そうなる以前から俺には時間ばかりたっぷり用意されていた。自分でそれを選択したのだ、高校へ行くことを引き換えに
そう、俺は立派な不登校児だった。学校をサボること自体は一年生あたりからやっていたが
今は全く状況が違う、あの日から俺は学校に行くことを拒否していたのだ
カーテンを閉め、扇風機とゲーム機の電源を入れてボーッと虚ろな目で俺は目の前のテレビ画面に集中する
演出は凝っているが、見慣れた演出で稲妻のエフェクトと共にタイトルが浮かび上がりセーブデータを呼び出して昨日の続きから始める
夏休み前に買ったロボットシュミレーションゲームだ。機体のデザインが少し古臭いのが好みである
マニア向けに難易度は高く、キャラクターに声を当てる声優もふた昔ほど前のキャスティングが目立つが
ゲーマーからは評判のいいシリーズで、今回は最高傑作との声もネット上で溢れかえっているシロモノだ
少し前の俺ならば、子供に戻ったようなワクワクした心境でゲームを楽しめたかもしれないが今の俺は違う
機械的に攻略サイトを読み、淡々と強い機体を改造してステージをクリアしていくだけで、残りは十面ほどだった
正直、このゲームはさっさと終わらせてしまいたかった。なにしろ買うときに新木の奴に店で会ってしまったのだから
新木の野郎はゲームなんてとっくの昔に卒業している。やらせようと思えば出来るらしいが、友達付き合いで暇が無いらしい
結構なことだと俺は思う。自分がゲームにはまっているのは現実から逃げる為だったからだ
俺は人と付き合うのは苦手だ。相手は何を考えているのか判らないし、河畑みたいに悪意を持って接触する人間もいる
そればかりじゃないのは百も承知なのだ。しかし、一度痛い目にあってしまうとどうしても警戒してしまうのが人間というもの
そして、怖かったのだ。新木の仲介で実現したデートを俺が台無しにしてしまったことで、あいつの顔を潰したという事は
親友である新木に恨まれているんじゃないかって事を思うと、恐ろしく感じてしまう
つまるところ、俺は裏切り者なのだ。だから怖かった、荒木に恨み言を言われるのが
だから、あいつから電話やメールが来ても俺は無視した。罵倒の言葉が入っていると思うと恐ろしかったから
そして、あいつに対する負い目が学校に登校する意欲を失わせていた。何回か克服しようとしたことはあるが駄目だった
そうしてズルズルと、情けない事に今日に至るまで俺は不登校を貫いていたのだ
ゲームに溺れ、深夜3時近くまで起きて、寝落ちしてしまうような不規則な暮らしを続けている
今の俺を菜穂子が見たらきっと軽蔑するだろうと思った。いや、あの時からそう考えていてもおかしくは無い
俺が喜んで、忌々しい河畑の奴に暴力を振るってしまったのを見たあの日から…
『お願いです。樫富君が頑張っている所、もう一度見せてください』
「すまねぇな、新木…石田。こんなに落ちぶれてしまってよ……」
お世辞かどうかはしらないが、今となっては菜穂子の言葉が虚しく俺の胸に響く
謝っても謝っても…謝罪は二人の元に届かない。顔を合わすのさえ、今の俺からすれば困難な事なのだ
そして、今日の終わりに俺はこのゲームをクリアしたが、気持ちは全く晴れることは無かった
「ホラ、全くアンタは…すっと家にいるんだから少しは手伝いなさい!……まったく」
苛々とした気持ちも隠そうとはせず、お袋は俺にタクアンの漬物が入った袋を渡した
どうやら、従兄弟の下に届けろということらしい。車を自分で出すのが面倒だったのか家事で忙しいのか
それとも、叔父さんと顔を合わせるのを避けたかったのか? 流石に負い目は有ったので俺は引き受けた
外に出るのは怖いが、同級生や知り合いに会わなければどうということはない。学校には行きたくないだけなのだ
「…ああ、判ったよ」
「アンタも二学期からちゃんと学校に行きなさいよ!
ったく…一日ゲームばかりして…苦労して育ててやってるのに、わたしに何か恨みでもあるのかい?」
お袋は荒々しく乱暴に洗い物を洗濯機に詰め始める。俺は再び小言を言われるうちに玄関に向かった
親が…といっても親父は最近出張が多くあまり家には帰ってきてはいないが、そのせいか母はストレスを溜め込んでいるようだった
一昔前のお見合い結婚で結ばれた二人だったが、夫婦仲は特に良くも悪くも無かった
たまに家族で旅行には行ったし、誕生日プレゼントやクリスマスの贈り物を貰っていた自分の家庭は
恵まれているのだろうと最近気づいた。そういった事に感付けたのも、俺が不登校になって家の内情に敏感になったという事情もある
「…じゃあ行ってくる」
「早くしな! ゲーセンなんかによるんじゃないよ
それと、後で二階の物置小屋を片付けといてね。わたしは今忙しいんだから…」
「ああ、わかったよ…」
不機嫌な声が玄関前の風呂場から聞こえてきたので、俺はさっさと退散した
最近のお袋は特に機嫌が悪かった。下手に刺激して部屋のゲーム機を捨てられるようなことは避けたかったのだ
いくらTシャツで軽装だからと言って、夏の暑さがそれで凌げる筈が無い
暑さで蝉の声は遠いことのように感じるし、シャツはすぐに汗だくになってしまい気持ち悪い
たった一つの癒しは自転車で走る時の風なのだが、叔父さんの家は比較的街中なので横断歩道によく引っかかる
何回も信号機に足を止められてストレスが溜まっていく。以前よりこの傾向が強いのはやはり俺の心に余裕が無いからなのか?
とにかく俺は婆ちゃんと文也叔父さんの家へ向かったのだった
その途中で俺は本屋に寄っていた。真夏の外にタクアンを日干しにするのは不味いので
流石に新聞紙に包んだ漬物が収まるビニール袋は手に持って、店内の中に入って行った
今日の日付は7月23日で、俺が愛読しているコミックスが発売されて一週間近く経つ事を思い出したのである
大手の出版社が発行している週刊誌から出ているので、流通量はそれなりに多いはず
すぐに売り切れるようなことは、流石に無いだろうとは…思う
久しぶりにコミックスを買うので、俺は何故か緊張していた。無性に店内の視線が気になるのは
同級生と鉢合わせする可能性を考えての事だろう。夏休みで書店に篭りっきりの奴が多いとは言い切れないが
万が一というものはある…なぁに、大丈夫さ。店内に長くとどまらなければそれでよかろうなのだから
立ち読みなんてせずに、目当てのものをさっさと買って店から出ればそれで用は事足りる
それを叔父さんの家で読むのだ、ゲームをプレイしながらで
お袋は早く戻って来いとは行ったが、俺としてはそんなつもりなんてさらさら無い
家に帰っても家事を手伝わされる位なら、遅れて帰ってきたほうがマシである
理由や言い訳はは幾らでも考え付く、向こうで手伝いをしていたとでも言えばいいのだ
それでも多少のけちはつけてくるかもしれないが、建前があるだけマシである。電話されたら一たまりも無いが、可能性は低い
俺はさっさと5階の漫画コーナーに足を進めた。お間抜けなことに、そもそも新刊なので一階のお勧めコーナーで探せば
目当てのものがすぐに見つかるということに気付いたのはもっと後であったが
(何だ、まだ結構あるじゃないか)
目当てのものが山積みにされているのを見て、俺はほっとため息を吐いた。どうやら在庫が無いということにはならなかった様だ
早速俺は、目当てのものを手にとって気付いた。何故かと言うと、表紙の絵が汚かったのだ
巻かれている帯には『初の劇場版!大好評上映中!!』とお馴染みの煽り文句が載っている
(アニメ化されていたっけ? ああ、そんなものもあったか…)
どの辺りが大好評なのかさっぱり分からないが、そういえばこの漫画が一年前からアニメ化していたことを思い出す
特に深夜向けのアニメなんて気持ち悪いポルノ紛いの作品が多いので、俺は最近めったに見ていない
しかし小学生からの読んでいる大好きな漫画のアニメ版が出ると週刊誌で読んで、暫く見ていたのだ
結果は……クソと言わざるを得なかった。原作で好きだった名場面がカットされた挙句に
誰得なオリジナルエピソードの挿入…気になるレギュラー陣は棒読みや萌え声優のキンキン声、そして作画の汚さも相まって
10話くらい視聴したところで、すっかり存在そのものを記憶から消し去っていた。それで今の今まで思い出せなかったのだ
(しかしこの絵はあまりにも汚いだろ…作者もやる気を失ったのか?)
理由は判らなくも無い。もし自分がプロだと仮定して週刊誌で漫画を書いていて
あんな駄作を作られた日には、制作会社まで怒鳴り込むかもしれないと思うほどの出来で
しかも今では五十話を超えて放映されているのだと聞く。何故続いているのかはたぶん俺の知らない場所で見えない力学が作用しているのだろう
例えば―――テレビ局の方針とか、金とか、映画の売り上げとか、宗教とか…
考えたらきりが無いのであの糞アニメの事は再び忘れることにする。俺は原作派だった
まぁ、絵が汚くても中身の面白さは変わらないだろうから。俺はそれを手にとって下の階のレジに向かった
本当はもう少しゆっくり立ち読みでも読んで居たかったのだが、流石にタクアンの事が心配だ
それに早く叔父さんとゲームの話をしたかった。俺は急いで階段を駆け下りていく
レジのお姉さんにコミックを渡し、四百円を財布の中から出す。少年誌のコミックはお求め安いのも強さの一つだ
一般的にも知名度があって、人気も保障されているから大量に発行して一巻辺りの値段が抑えられるのだろう
清算が終わったコミックを受け取って鞄の中に入れると、俺は入り口の方へ向かった
早く漫画を読みたいのと、叔父さんに会いたかったのだ。久しぶりにあの人と話すのは非常に楽しみである
しかし、自転車にまたがった時に俺は背後から肩を叩かれた。すっかりびくついてしまった俺は恐る恐る背後を振り返る
「お前、こんな所で何してんだ?」
そこには新木が何か言いたげな視線を俺に向けて立っていたのだった