7月23日の痛み
「お前、家に篭ってたんじゃないのか?」
自転車にまたがったままの俺と新木が対峙している。俺は動揺していた
こんな所でこいつと会うはずが無い。そう思っていたが。この書店は市内の繁華街の中にある
同じ高校の奴と行動範囲が被らないという事自体が恐らく有り得ないのだろう
「婆ちゃん家に漬物届けに行ってんだ…生ものだし、じ…じゃあ俺は急ぐんで」
「待てよ」
新木は太い腕で自転車の後輪を掴んだ。こうなってしまうと構造上の問題で俺の自転車は前進できない
さっさと逃げようとして出鼻を挫かれた事になった。自転車を捨てて逃げると言うのは論外である
つまり、チェックメイトと言うことなのだ・今の俺に荒木から逃れる術は存在しない
「お前、どうして学校に来なくなった?」
奴の声はいつもの軽い感じではなく、重たく責める様な感じがあった
実際に新木の奴が威圧感たっぷりに話しかけてくると、なんとも言えない逆らい難い迫力がある
それもその筈だ。俺は良く知っていたのだ、新木が一度怒り出すと途轍もなく怖いと言うことを……
「…新木には関係ないだろ」
それでもだ、それでも理由を言うわけにはいかなかった。気恥ずかしいと言う思いもあるし
何よりも、俺は新木を裏切ってしまった。こいつがデートのセッティングをしてくれたことには感謝している
正直に言うと謝りたかった。許してもらえなくても良い
だが、面と向かって友人に連絡を返さずずっと逃げていることに対して後ろめたい気持ちがあったのもまた事実なのだ
「お前、もしかして自分がとんでもなく悪い過ちを侵してしまった。なんて…思って無いよな」
新木は俺の心の中を見通すように言いやがった。勘の良さは相変わらずだ、察しの良すぎるこいつには適わない
「ああ、そうだよ…みんなには済まないって思ってる。けどな、あいつに見せてしまったんだよ
俺が河畑のクソ野郎に暴力を奮ってしまうのをな。石田はかつての俺の中に多分、将来の夢を見出して痛んだと思う
それを…裏切ってしまったんだ。顔向けなんて出来ないよ……」
「…そうか」
新木は怒るでもなく、俺に失望するでもなく…静かな眼差しを俺に向けている
その事が俺には辛かった。いっそ罵ってくれた方が気が楽になってしまったかもしれない
縁を切られたほうが、後腐れなくなって俺も自由になれたのかもしれない
しかし、中学からの付き合いだったこいつはそんなやわな友人ではなかった。その事が非常に辛く、自分の弱さを思い知る
「取りあえず、公園で話さないか? ここにいると迷惑がかかる」
「ああ…そうだな」
俺達は昼に近くなって人通りが増えてきたこの場所を後にして、人工林が植えられている街の端の公園に向かった
そこは噴水が有り、老人が散歩に犬を連れ歩くように遊具も少ない場所だったのでゆっくりと話せると思う
俺も新木も互いに話したいことが一杯胸の中に詰まっている事は互いに承知していた
だからこそ、書店の入り口前みたいな場所じゃなくちゃんとした落ち着ける所で話したかったのだ
噴水の近くが涼しいのはマイナスイオンが発生しているからだと、どこかのテレビで聞いたことがある
マイナスイオン、結構昔に流行語にもなったと言ういわく付きの言葉だ。家電を連想する人間も多いかもしれない
よく解らないのだが、要はクーラーが水蒸気を噴き出して体の熱を奪って気化すると言う現象に近いのだろうか?
菜穂子の前では絶対に出来ないような品が無い例えだが、ションベンをした時にブルって来るあれに近いのかもしれない
人間の尿は不要物と一緒に余剰熱も吐き出しているのだ。しかし、水に困る乾燥した地域は尿もまた必要な栄養源であり……
―――流石に下品になってきたので。これ以上は説明する気が起きない、話もずいぶん逸れてしまったし
まぁ、現在の状況を簡単に説明するなら。俺と新木は水を噴き上げる噴水の前のベンチに腰掛けている
だいぶリラックスしているのは気持ちが落ち着いているのか、マイナスなんとかのせいなのかはわからない
ただ、そこにたどり着くまでに俺達は無言のまま言葉を交わさなかったのだ
「なぁ、何かあったのか?」
「一年の時は何回か欠席してたんだ。それがまぁ、ぶり返したって事だ」
「本当にそうか?」
「…そうだよ」
新木は適当に呟いた俺の言い訳を簡単に看破していた。俺は唇が軽く弧を描くのを感じている
やっぱりこいつには敵わないなと、そう思っていたからだ。再び沈黙が支配する、吹き出る水の音だけしか今は聞こえない
こいつは、無理強いをしたりしない。ある意味では謙虚な性格なのだ
だから、俺から理由を無理に聞き出そうとはしないのだ。話の場を設けながら、俺から口を割るのを待っている
ある意味でこの手合いは一番厄介だ。いっその事切ってくれた方がやり易い
その方が俺も後腐れなく過ごせるってモノだが、新木はその道を選択しないのだろう
そう、こいつは前に俺と河畑の喧嘩を止めようとした時も周囲の迷惑をかけまいと奮闘していた
前々から思っていたことなのだが、お人よし過ぎるのだ。この新木英明と言う男は
力で周囲を従わせている河畑と違っているからこそ好かれる、優しいから人が寄ってくる不思議な魅力を持つ人間なのだ
「………。」
俺は上空を仰いだ。菜穂子と遊園地に行って観覧車の中から見た空も、今日のように明るかった
あの数時間後にあいつと再会していなければ今頃は…いや、よそう。過ぎたことを悔やんでも仕方ない
そうして更に十分くらい経っただろうか? 俺が口を割る決心が取りあえず付いたのは
「俺、あいつに嫌な所見られたって思ったんだ」
「河畑と喧嘩したのを見られたのだろう?」
「…どうして?」
それを知っている? その言葉を飲み込んだ。恐らく菜穂子から聞いたのだろう
いや、そうじゃなくても奴と俺は同じクラスだ。知れ渡ったとしても不思議ではない
「石田さんと会って、自分で話せばいいじゃないか」
「女の子の目の前で暴力沙汰なんか見せて、何とも思われないはずが無い」
「…かもな、お前はそう思うだろう」
新木は静かに頷いた。俺はこいつが同調したことが意外だった
そして、再び沈黙が続いた。蝉の声がやむのを待って再び口を開く新木
「そんな事で彼女がお前を嫌うのか?」
「少なくともあいつが漫画家を目指す動機の発端くらいになったのが俺なんだ
ショックを受けない方がおかしい。俺は消えた方が良かったんだ、石田の夢を台無しにしてしまう」
顔が険しくなる新木。体格の良いこいつがそんな顔をすると威圧感が増す
何かに怒っていることは解った。その理由をこのときの俺は理解できずにいた
「お前、石田さんを出汁にしてないか? 自分が現実に逃げる為に」
「そうじゃない。俺はお前達に迷惑がかかると思って…」
いきなり新木が立ち上がる。俺は座ったままだった…覚悟は出来ている
「おい、歯を食いしばれよ!」
「ああ、やれよ」
まるで石つぶてのような新木の拳が俺の横顔に炸裂した。そのまま体がベンチから吹き飛ばされる
正直に言うと、河畑の蹴りなんかよりもかなり効いた。避ける気がなかったと言うのもあるがそれを差し引いても痛いものは痛い
だが、新木が本気で俺に怒っている事は解った。その怒りを俺は甘んじて受け入れた
情け無い自分への清算もあるが、比重が大きかったのは荒木への贖罪の気持ちが大きい
面と口で向かって謝ったとしても。言葉だけじゃ通じないのは解っている
俺は言葉だけの奴は信用しない。だからこそ自分への罰を科して新木に殴られてやったのだ
「…痛いか」
「まぁな」
手を差し伸べて来る新木、俺は少し躊躇った後にその手を取って立ち上がる
経たせた後で新木は視線を合わせて言った。さっきまでの怒りはどこにも見えない
解っている。俺と違ってこいつが、自分の怒りだけで人を傷つけないと言うことは知っていたから
「別に無視されたからって怒っちゃいねぇ。流石に、お前と俺も同じように河畑は嫌いだが過失は俺にもある
だがな…今のは俺が腹いせにぶったんじゃねぇ。石田さんの悲しみをお前に教える為に殴ったんだ
もし、それに不服だと思うんなら俺も抵抗はしない。好きに殴れよ…正直、自分でも出すぎた行動だったかもな」
新木は自分の非を詫びた。しかし、新木を攻める資格は俺には無い
ましてや、やり返すなんて発想が出てこない。新木のパンチで俺の中の暗雲が少しだけ晴れたような気がした
だが、ほんの少しだけだ。完全な解決にはまだ遠い、だからこそ俺の過ちから新木にやり返す資格は無い
「いや…これでいいんだ。これで…」
うわ言の様に言葉が出てくる。しかし、正直に言えばこの先俺もどうしていいか解らない
公園の時計はもう午後一時近くを指している。家を出てから既に一時間半近く時間が経っている
「なぁ、新木。一つ聞きたいんだが…いいか?」
新木は厳しい表情だったが、静かな動作で了承するように頷いた
新木と何も言葉を交わす間もなく分かれた後に、俺はおじさんの家に向かって自転車を漕がしていた
ずいぶんと遅れてしまったが生物じゃない漬物なので大丈夫だと思いたい。腐っていた場合のことは恐ろしくて考える気も起きない
取りあえず街を抜け、橋を渡り後二キロくらい走れば目的地に到着する
俺は夢中で足を動かし自転車を漕ぎ続けた。頬の痛みはまだ疼くがこれから何をしたらいいのか解らないままだ
時刻はもう一時半だった。お袋は早く帰って来いといっていたが、残念な事にそれは不可能のようだ
まぁ、こうなったら仕方ない。夕飯まで帰らないことに俺は決めた
それまでおじさんの家で遊んでしまえば良い。ゲームや漫画も色々あるし、暇潰しには困らないだろう
そして…絵を描く道具もある。今更になって菜穂子の言葉が頭の中に蘇った
『私はいつだって待ちます。それが一年でも、五年でも…十年でも――――』
済まない。俺はお前の為に何も出来そうに無い、許してくれ
そもそも、暴力沙汰を起こし、問題になった引きこもりの俺が彼女に何か出来るのか?
俺と石田菜穂子が関わる事によって、彼女の将来に何か不利益にでもなるんじゃないかと言う恐れがある
この考えを新木にぶちまけたかった。俺の判断をあいつに委ねたかった
『教えてくれ、俺は彼女の為に何をすればいい?』
あいつに聞いても新木は明確的な答えを寄越さなかった
『知らん。自分で考えろ、お前なら解る筈だ』
止めてくれ。それは今の俺にとって尤も残酷な回答の一つなんだ新木
お前が考えてくれ、お前なら…俺を導いてくれるかもしれない
俺は自分で決断できない優柔不断な男なんだ。だから、リーダーシップのあるお前が俺に指示を出してくれ
あの時、俺は新木が決断を放棄したのかと考えた。だが、そうではなく考えた末の回答を提示したのならば―――
―――――止めた。考えるのは非常に億劫で面倒な作業だったから
そのまま漕ぎ続けると直ぐに築四十五年の家に着いた。俺は自転車を小さな駐車場に止める
玄関の呼び鈴を押すと、上の階から慌しく誰かが降りてくる音を聞いた…何か嫌な予感がした
目の前の色褪せたドアが開かれる。目の前には文也叔父さんが血走った目で俺を見ていた。思わず身構えてしまう
叔父さんの様子がなんだか可笑しかったからだ。いつもと違う慌てた表情は余裕が全く感じられない
そして、息も荒かった。しばらくもごもごと口を動かしていたのは俺に何か伝えたいようで言葉が浮かばない様子に取れる
只事ではない―――そう思わせるほどに叔父さんの迫真の表情は緊張感と恐怖に帯びていたのだ
「大変だ!…か、母さんがッ!!」
文也叔父さんにとっての母さん。それはつまり俺のお袋の母、つまりは俺のおばあちゃんだと言う事
お婆ちゃんの身に何かあった。その核心に辿り着いた事に俺は極めて冷静に捉えられた、自分でも不思議なくらいに…
悪い予感は、どうやら的中してしまったようだった




