第二十三章 北境を離れて ― 王都へ続く長い旅
一 旅立ちの朝
北境の山々には、まだ雪が残っていた。
冬の名残を抱いた峰々の間を、雪解け水を集めたヴァルダ川が流れている。川辺の草地には小さな花が咲き始め、森からは冬の間じっと身を潜めていた鳥たちの声が聞こえていた。
ヴァルデン城の中庭では、早朝から旅支度が進められていた。
二台の荷馬車には、衣服や食料、書類、旅先で必要となる道具が積み込まれている。護衛騎士たちは馬具を確かめ、御者は車輪や荷台の固定具を一つずつ点検していた。
王都から届いた書状への返答を終えたエドガーは、いよいよ王都へ向かうことを決めていた。
今回の訪問は、単なる王家への挨拶ではない。
建国以来、王家と八つの辺境伯家が守ってきた誓約。その関係を改めて確認し、今後の王国のあり方について話し合うためのものだった。
ヴァルデン家の当主として、エドガー自身が出向く必要がある。
そして、次代の当主となる長男アルベルトも同行することになった。
十五歳のアルベルトにとって、王都での会談は、父の仕事を間近で見る貴重な機会になる。
アリアもまた、父と兄に同行する。
七歳の少女を長旅に連れていくことには慎重な検討が必要だった。道中の安全、宿泊先、食事、体調管理。どれも簡単なことではない。
それでもエドガーは、今回の旅がアリアにとって大切な学びになると考えた。
王都には、ヴァルデン領では出会うことのない人々がいる。
王家の者たち、各地の貴族、商人、職人、学者、そして王国の政治や経済を支える多くの人々。
自分たちが守っている国が、どのような仕組みで成り立っているのか。それを知ることは、将来のアリアにとっても意味のある経験になるだろう。
「アリア様、お荷物の確認が終わりました」
声をかけたのは、ミーナ・ベルだった。
ミーナは小さな旅行鞄を開き、衣服や身の回りの品を改めて確認している。
「着替えと読みかけの本、それからノートも入っています」
「ノートは二冊ございますね」
「一冊は旅の記録に使うの。もう一冊は、王都で見たことを書くためよ」
「それはよい考えですね。ただし、馬車の中で無理に書こうとなさらないでください。揺れますから、目も疲れてしまいます」
「わかったわ」
アリアは素直にうなずいた。
前世の記憶を持つ彼女にとって、旅先で見聞きしたことを記録する習慣は自然なものだった。しかし、この世界の旅は、現代のように整備された交通機関を利用するものではない。
道の状態、天候、馬の体調、荷物の重さ。さまざまな条件によって、予定どおりに進めるとは限らなかった。
「アリア、準備はできたか」
父エドガーが中庭に姿を見せた。
「はい、お父様」
「旅の間は、予定どおりに進まないこともある。雨が降れば足を止めるし、道が悪ければ遠回りもする。王都への到着を急ぐ必要はない」
「安全が一番ですものね」
「そのとおりだ」
エドガーは娘の頭に手を置いた。
隣には、長兄のアルベルトが立っている。十五歳の少年は旅装を整え、腰には護身用の剣を帯びていた。
「アルベルトお兄様も準備できたの?」
「ああ。必要な荷物はまとめたよ。王都までの道のりも、地図で確認してある」
「どのくらいかかるの?」
「道の状態にもよるけれど、何日かはかかる。途中で宿場町や村に泊まりながら進む予定だ」
「毎日、同じ距離を進めるわけではないのね」
「そうだよ。馬も休ませなければならないし、荷車の車輪や馬具も点検する。急いで壊してしまえば、かえって時間がかかるからね」
アリアはうなずいた。
旅は、ただ距離を進めればよいというものではない。
人も馬も、食事をし、休み、必要な手入れをしなければならない。そうした当たり前のことが、旅の速さを決めていく。
「それでは、出発しよう」
エドガーの声が中庭に響いた。
銀の狼の紋章を掲げた馬車が、ゆっくりと動き始める。
北境の城を離れ、王都へ続く長い旅が始まった。
二 城に残る者たち
出発を前に、城の玄関にはヴァルデン家の者たちが集まっていた。
家令セバスチャン・ヴァルケンは、銀灰色の髪を整え、いつものように落ち着いた表情で一行を見送る準備をしている。
その隣には、会計を預かるマティアス・クロイツフェルトが、旅費と王都滞在費の概算を記した書類を持って立っていた。
「旦那様。王都までの往復費用と滞在費につきましては、先日お渡しした見積もりの範囲に収めるよう手配しております。ただし、道中の宿泊費や馬の交換費用は、天候によって変動いたします」
「余裕は見てあるか」
「はい。とはいえ、必要以上に馬を増やしたり、宿を贅沢にしたりすることは避けております。領地の支出を考えれば、今回の旅も慎重に扱うべきです」
「わかった。無理に節約して安全を損なうこともするな。必要な費用は使ってよい」
「承知いたしました」
アリアは二人の会話に耳を傾けていた。
辺境伯家の当主と後継者、そしてその娘が王都へ向かうのだから、身分だけを考えれば、もっと多くの従者や豪華な馬車を用意することもできるだろう。
けれども、ヴァルデン家にはそのような余裕はない。
鉱山の修繕には、まだ費用がかかる。街道や橋の補修も必要であり、村々の備蓄も十分とはいえない。
王都へ向かう旅費も、領地の財政から支出される大切なお金だった。
「セバスチャン。留守の間、城と領地のことを頼む」
「お任せくださいませ。旦那様がお戻りになるまで、これまでどおりの務めを果たしてまいります」
「マティアスは、支出の変化を見逃さないようにしてくれ。特に鉱山の修繕費は、予定と実績を分けて記録しておいてほしい」
「かしこまりました。修繕は安全を優先し、作業の進み具合に合わせて支払いを管理いたします」
「ヨハンにも伝えてあるな」
「はい。ヨハン・アイゼンリートには、坑道の支柱と排水設備の点検を続けるよう申し伝えております。生産量を急いで戻すことはせず、作業員の安全を第一にするとのことです」
エドガーはうなずいた。
鉱山の崩落箇所は、まだ完全には修復されていない。鉄鉱石の産出量も通常の七割ほどにとどまっている。
王都へ出向いたからといって、領地の問題が消えるわけではなかった。
「グレゴール」
「はっ」
騎士団副隊長のグレゴール・ドラーヴェンが一歩前へ出た。
「道中の護衛はお前に任せる。北の砦から兵を引き抜きすぎることのないように」
「承知しております。同行する騎士は必要最小限にとどめ、領地の警備に支障が出ないよう編成しました」
「北の砦への連絡は?」
「定期便で続けます。レオン様にも、旅の出発を知らせる書状を届ける手配を済ませております」
アリアは、次兄の名前を聞いて顔を上げた。
十三歳のレオンは、今も北の砦で訓練と巡回にあたっている。今回の王都行きには同行しない。北境で経験を積むことも、彼にとって大切な学びの一つだった。
「レオンお兄様、元気にしているかしら」
「砦から届いた報告では、変わりないそうだ。訓練にもよく励んでいる」
エドガーが答えた。
「帰ったら、王都の話を聞かせてあげようね」
「そうだな。あいつも興味を持つだろう」
アルベルトが微笑んだ。
アリアは、レオンに渡すための小さな手紙を鞄に入れていた。旅先で見つけたものや、王都で聞いた話を書いて送ろうと思っている。
「皆様、どうかお気をつけて」
セバスチャンの言葉に、城の者たちが頭を下げた。
「行ってくる」
エドガーは短く答え、馬車へと向かった。
城に残る者たちと、旅に出る者たち。
それぞれが自分の役目を果たすことによって、ヴァルデン家は成り立っている。
アリアは馬車に乗り込む前に、もう一度城を振り返った。
見慣れた石造りの建物。その向こうにそびえる北境の山々。
戻ってくる場所があるからこそ、旅に出ることもできる。
そう思いながら、彼女は静かに窓辺へ腰を下ろした。
三 北境の道を下る
馬車が城門を抜けると、車輪が石畳をゆっくりと転がり始めた。
道の両側には春の草地が広がり、畑では人々が土を起こしている。冬の間に傷んだ柵を直す者、家畜を牧草地へ連れていく者、川から水を引く水路を確かめる者。
人々は馬車の紋章に気づくと、手を止めて頭を下げた。
エドガーは窓から外を眺め、領民たちの姿に目を向けていた。
「お父様、皆さん、もう春の仕事を始めているのね」
「そうだ。雪解けが進めば、農作業を急がなければならない。種をまく時期を逃せば、その年の収穫に響くからな」
「去年は、秋の長雨で収穫が少なかったのでしょう?」
「ああ。例年より二割ほど少なかった。種を確保し、翌年に備える分を残した後では、村々の備蓄も十分とはいえない」
「今年は、よい収穫になるといいわね」
「そう願っている。ただ、願うだけでは足りない。川の水量、土の状態、天候、種の質。さまざまなことを見ながら、農民たちが判断していく」
アルベルトが会話に加わった。
「領地の記録では、村ごとに土の性質も違う。水はけのよい土地もあれば、雨が続くとぬかるみやすい土地もある。作物によって向き不向きがあるから、同じ方法をすべての村に当てはめるわけにはいかないんだ」
「そうなのね」
アリアは窓の外を見つめた。
畑の一角では、農夫が土を手に取り、指先で崩しながら状態を確かめている。別の場所では、牛に鋤を引かせ、土を掘り返していた。
前世の知識では、作物の育成には土壌の性質や水分、気温などが関わることを知っている。
けれども、こちらの世界の農地で、何がどの程度効果を持つのかは、実際に調べなければわからない。
それぞれの土地には、長く暮らしてきた人々の経験がある。
その知恵を知らずに、よそから来た考えを押しつけることはできない。
「アリア、何を考えている?」
エドガーが尋ねた。
「畑のことです。村の人たちは、土地に合わせて作物を育てているのですね」
「そうだ。領主が知っておくべきことは、領地の地図や税の数字だけではない。人々がどのように暮らし、何に困り、何を必要としているのかを知ることも大切だ」
「王都にも、そういう暮らしがあるのかしら」
「もちろんある。王都は大きな街だが、そこで暮らす者たちにも、食べ物を作る者、運ぶ者、売る者、道具を作る者がいる。人が多いぶん、仕事も複雑になる」
アリアは、王都への期待を胸に膨らませた。
立派な城や貴族の屋敷を見るだけではない。
人々がどのように働き、どのように暮らしているのか。それを知ることも、旅の目的の一つになりそうだった。
馬車は緩やかな坂道を下り、北境の村々をつなぐ街道を進んでいった。
四 川と街道の役割
昼を過ぎたころ、一行はヴァルダ川に架かる橋の近くで休憩を取った。
春の川は水量が多く、流れも速い。岸辺には雪解け水が運んだ枝や枯れ草が引っかかり、橋脚の周囲には細かな泥がたまっていた。
橋は石と木材を組み合わせた造りで、長年の使用によって一部に傷みが見られる。
「この橋も、修繕の対象なのですか?」
アリアが尋ねると、グレゴールが答えた。
「はい。橋脚の一部と、上部の木材を確認する必要があります。ただ、今は川の水位が高いため、本格的な作業は危険です。水が落ち着いてから、技術者と作業員を入れる予定です」
「急いで直すことはできないのですね」
「危険な場所に人を入れれば、修繕どころではなくなります。橋を直すために、作業員の命を危険にさらすわけにはいきません」
エドガーも川を見つめていた。
「領内には大小十二の橋があり、そのうち三つは優先して修繕する必要がある。すべてを一度に直すだけの資金も、人手もない」
「どの橋から直すか、決めなければならないのですね」
「そうだ。通る人の数、橋の傷み具合、代わりの道があるかどうか。そうした条件を見て順番を決める」
アリアは、川の流れを見つめた。
橋は、ただ川を渡るための建造物ではない。
村から町へ、畑から市場へ、鉱山から鍛冶場へ、人々の暮らしをつなぐ道の一部だ。
一本の橋が使えなくなるだけで、荷物を運ぶ時間や馬の数、商人が支払う費用まで変わってしまう。
「王都へ行く道にも、橋はたくさんあるの?」
アルベルトが地図を広げた。
「もちろん。大きな川には石橋が架かっているし、小さな川には木橋もある。橋のない場所では、浅瀬を渡ったり、渡し舟を使ったりすることもある」
「雨が降ったら、渡れなくなることもある?」
「あるよ。だから旅の日程には余裕を持たせているんだ」
地図の上では、王都までの距離は簡単に測れる。
しかし、実際の道は山や川、谷を避けながら続いている。荷馬車が通れる道と、騎馬だけが進める道も違う。
アリアは地図を見ながら、現実の旅が数字だけでは測れないことを改めて感じていた。
五 宿場町の夕暮れ
その日の夕方、一行は北境の街道沿いにある宿場町へ到着した。
町は大きくはないが、街道を行き交う商人や旅人を迎える宿屋、馬の世話をする厩舎、鍛冶屋、食料品を扱う店などが集まっている。
門の近くでは、荷車を引いた商人たちが順番を待っていた。
雪解けの季節は、街道の状態が安定しない。ぬかるんだ道で車輪が沈んだり、橋の補修で通行に時間がかかったりすることもある。
それでも、春になれば冬の間に滞っていた交易が少しずつ動き始める。
「ここには、どんな人たちが来るの?」
馬車を降りたアリアが尋ねた。
「北の村から町へ品物を運ぶ者もいれば、南から塩や穀物を運ぶ商人もいます。ここで馬を替えたり、荷物を積み直したりする者もおります」
グレゴールが答えた。
宿屋の主人が一行を迎えた。主人は五十歳ほどの男性で、名をヘルマン・ヴァイデンといった。
「ヴァルデン辺境伯閣下。ようこそお越しくださいました。部屋と食事の用意は整っております」
「世話になる。馬の休める場所も頼む」
「はい。馬房は空けてございます。飼葉と水も十分に用意しております」
宿屋の中は、木の梁がむき出しになった素朴な造りだった。食堂には暖炉があり、旅人たちが夕食を囲んでいる。
一行の食事は、豆と根菜の煮込み、燻製肉、粗挽きの穀物パンだった。
アリアは湯気の立つ器を両手で包み込んだ。
「温かいわ」
「長く馬車に乗っていると、体が冷えますからね」
ミーナが微笑む。
「ミーナも疲れていない?」
「大丈夫でございます。アリア様がお疲れになっていないか、そちらのほうが心配です」
「私は平気よ。窓から外を見ていたら、あっという間だったもの」
「それでも、夜は早めにお休みくださいませ」
食事の途中、食堂の隅では数人の商人が話し込んでいた。
「西の街道は、まだ橋の修繕が終わっていないらしい」
「それでは荷が遅れるな。南から来る穀物車も、別の道を回っているそうだ」
「遠回りになれば、馬の飼葉も宿代もかさむ。品物の値段に響くぞ」
アリアは、聞こえてくる会話に耳を傾けた。
「お父様、道が悪くなると、商人の方たちも困るのですね」
「そうだ。荷物が遅れれば、売る時期を逃すこともある。馬や車輪の修理にも費用がかかる。道の状態は、商売にも大きく関わる」
「道を直すことは、領地の人だけでなく、遠くから来る人たちにも関係するのね」
「そのとおりだ。街道は一つの領地だけのものではない。複数の土地を結び、人や物を運ぶ道だからな」
アルベルトが補足した。
「橋が領地の境界に近い場所なら、どちらがどこまで費用を負担するのか、隣の領主と相談することもある。道を使う人が多ければ、修繕の負担を分ける方法も考えられる」
「領地が違うと、相談しなければならないことも増えるのね」
「そうだね。互いに事情があるから、簡単には決められない」
アリアは食堂に集まる人々を見回した。
王都から遠く離れた小さな宿場町にも、さまざまな土地から人がやって来る。
一人ひとりが、自分の暮らしや仕事を背負って道を進んでいる。
国というものは、王都や城だけで成り立っているのではない。
こうした小さな町や村、街道を行き交う人々の営みが、国を形づくっているのだ。
六 街道を南へ
翌朝、一行は宿場町を出発した。
北境の山々は、少しずつ遠ざかっていく。
道の両側には森が広がり、ところどころに畑や牧草地が見えた。森の中では小鳥の声が響き、春の陽射しが枝の間から差し込んでいる。
馬車の中では、アルベルトが地図を広げていた。
アリアはその地図をのぞき込んだ。
「お兄様。王都までの道は、ずっとこの街道を進むの?」
「そうだよ。北境から南へ下り、いくつかの町や領地を通って王都へ向かう。途中で道が分かれるところもあるけれど、今回は大きな街道を使う予定だ」
「この地図に描かれている土地は、全部王様のものなの?」
アリアの問いに、アルベルトは一度エドガーの顔を見た。
エドガーは娘に向き直った。
「よい質問だ。アルセリア王国の土地は、すべてが王家の所有というわけではない。王国の中には、大きく分けて三つの形の領地がある」
「三つ?」
「ああ。まず一つ目は王領だ。王家が直接治めている土地で、王都やその周辺の町、農地などが含まれる。そこで得られる収入は、王家と中央の行政を支えるために使われる」
「王様が直接治める土地なのね」
「そうだ。二つ目は、私たちのような辺境伯家が治める領地だ」
エドガーは地図の北側を指した。
「ヴァルデンをはじめ、北西のアイゼンヴァルト、北東のグラーフェンハルト。東にはフェルゼンリートとシュタールヴァルト、西にはリューネンベルクとローゼンハイム。そして南には、海に面したゾンネンフェルトがある」
「八つの辺境伯領ね」
「そうだ。八家は建国以来、国境を守る役目を担ってきた。王家と八家は、建国の際に特別な誓約を交わしている。そのため、単に王家に仕える家臣という関係ではない。王家と八家は、原則として対等な立場にある」
「王様が、辺境伯家に命令するだけの関係ではないのね」
「そういうことだ。国を守る責任を、それぞれが分担している。八家は自領を治め、国境を守る。その代わり、辺境防衛にかかる負担が大きいため、王国中央へ納める税は免除されている。ただし、自分たちの領地の中で必要な税や収入までなくなるわけではない」
「領地を守るためのお金は、自分たちで集めて使うのね」
「そうだ。兵士の給金、砦の修繕、街道や橋の維持、村々の支援。そうしたものを領地の収入から賄っている」
アリアは、地図の八つの領地を順番に眺めた。
「では、三つ目は?」
「王から領地を拝領した貴族たちの領地だ」
エドガーは、ヴァルデン領から南へ続く街道の近くを指した。
「王国には、辺境伯家とは別に、伯爵、子爵、男爵などの貴族家がある。王家が功績や役目に応じて領地を与え、その土地を治めることを認められた家々だ」
「辺境伯家とは違うの?」
「違う。彼らも自分の領地を持ち、領民を治めているが、建国時の誓約を結んだ八つの辺境伯家とは立場が異なる。王国の法や中央の制度に従い、定められた税や役務を負う。王家から与えられた領地を、勝手に国から切り離すこともできない」
アルベルトが地図の端を指でなぞった。
「たとえば、ヴァルデン領の南にはリヒテンフェルト伯爵家の領地がある。代々、王家から領地を拝領してきた家で、農地や牧場を治めているんだ」
「リヒテンフェルト伯爵家……」
「当主はオットー・リヒテンフェルト伯爵だ。領地の農産物を王都や周辺の町へ運び、街道の維持にも協力している。ヴァルデン領とも交易がある」
「私たちの隣にある領地なのね」
「そうだよ。国境を守る辺境伯家と、王から領地を拝領した伯爵家では、役目も権限も違う。ただし、どちらも王国を支える貴族であることに変わりはない。領主が違っても、そこで暮らす人々の生活がある。農民も、職人も、商人もいる。私たちの領地と同じように、橋や道を直し、作物を育て、家族を養っている」
「王領にも、領主様がいるの?」
「王領は王家が直接治める土地だから、辺境伯や伯爵のような領主がいるわけではない。ただし、王家から任命された代官や役人が、王家に代わって行政を行っている」
「なるほど……。王領は王家が直接、辺境伯領は八つの家が、ほかの貴族領は王から土地を与えられた貴族が治めているのね」
エドガーはうなずいた。
「ただし、王国の仕組みは、それだけではない。貴族院には各家の血統や継承を確認する役目があり、王国の議会には貴族だけでなく、都市や地域を代表する者たちも関わっている。政治は王家だけで決めるものではない」
「ローレンツ先生が教えてくださった議会制度のことね」
「そうだ。今はすべてを覚えなくてもよい。実際に王都で人々と会い、話を聞けば、少しずつ理解できるようになる」
アリアは、もう一度地図を見つめた。
以前、ローレンツ・ヴァイスフェルトから王国の歴史や政治制度について教わったとき、彼女は王家と八つの辺境伯家の関係を学んでいた。
けれども、王国には辺境伯家だけがあるわけではない。
王領があり、王から領地を拝領した貴族たちがいる。彼らもまた、それぞれの土地で暮らす人々を守り、税を集め、道や橋を維持し、王国の政治や経済に関わっている。
王国というものは、一つの大きな領地ではなく、異なる立場の領主や人々が、それぞれの責任を担いながら成り立っているのだ。
「お父様。リヒテンフェルト伯爵家の方とは、王都で会うこともあるの?」
「あるだろう。伯爵は王国の貴族院にも関わる立場だ。王都に屋敷を持つ貴族も多い」
「その方たちは、辺境伯家と同じ会議に出るの?」
「会議の種類による。王家と八家の建国誓約に関わる協議と、王国全体の政治を扱う議会は、同じものではない。貴族院や議会には、さまざまな家の者たちが参加する」
「王都には、いろいろな立場の貴族が集まるのね」
「そうだ。だからこそ、相手がどのような立場で、何を担っているのかを知ることが大切なのだ」
アリアはうなずいた。
これから出会う貴族たちは、みな同じ立場ではない。
古い誓約を守る八つの辺境伯家。王領を治める王家。王から土地を拝領し、その地を預かる伯爵や子爵たち。
それぞれの立場と役割を理解しなければ、王国の仕組みを本当に知ることはできないのだろう。
馬車は、南へ続く街道を進んでいった。
七 隣り合う領地、異なる役目
昼過ぎ、一行はヴァルデン領の南側にあるリヒテンフェルト伯爵領との境界に近づいていた。
ここは北境の山地から、王国中央部の平野へ移り変わる場所だった。
山の斜面は緩やかになり、川沿いには広い牧草地が現れる。畑の面積も増え、家畜を飼う農家の姿が目立つようになっていた。
街道の脇には、境界を示す石柱が立っている。
その石柱には、ヴァルデン家の銀の狼と、リヒテンフェルト家の紋章が刻まれていた。
「ここから先は、リヒテンフェルト伯爵領なのですね」
アリアが尋ねた。
「そうだ。あの先にある村も、牧場も、伯爵家の領地に属している」
エドガーは境界の向こうを見た。
「この地域は、ヴァルデン領よりも平地が多い。穀物や家畜を育てやすく、王都へ運ぶ荷物も多い」
「だから、馬車がたくさん通っているのね」
「そのとおりだ。ヴァルデンでは鉄鉱石や木材、毛皮などが主な産物だが、リヒテンフェルトでは穀物や家畜が重要な収入になる」
街道の先から、荷馬車が数台やってきた。
荷台には穀物袋が積まれ、御者の隣には商人らしい男性が座っている。
彼らはヴァルデン家の紋章を見ると、馬車を少し脇へ寄せて道を譲った。
エドガーは軽く手を上げて応じた。
「隣の領地といっても、暮らしはずいぶん違うのね」
「土地の性質が違えば、必要な仕事も違う。だが、互いに足りないものを補い合うこともできる」
アルベルトが説明した。
「リヒテンフェルトから穀物や家畜を仕入れ、こちらから鉄製品や木材を売る。交易が続けば、どちらの領地にも利益がある」
「それなら、仲良くしておいたほうがいいのね」
「もちろん。ただし、仲がよいだけでは領地同士の関係は成り立たない。価格や通行の条件、橋の修繕費用など、決めなければならないことは多い」
エドガーは娘に目を向けた。
「領主同士が互いに敬意を持つことは大切だ。しかし、領地を守る責任もある。相手に譲るべきところと、守らなければならないところを見極める必要がある」
「それは難しそうね」
「簡単ではない。だからこそ、記録を取り、相手の話を聞き、必要なら何度も話し合う」
アリアは、街道の向こうに見える牧場を眺めた。
柵の中では、白や茶色の牛が草を食べている。牧童が家畜を誘導し、少し離れた畑では農夫が荷車に穀物袋を積み込んでいた。
同じアルセリア王国に暮らしていても、人々の仕事は土地によって違う。
そして、その違いが交易を生み、領地同士の結びつきを作っている。
「いつか、リヒテンフェルト伯爵家の方ともお話ししてみたいわ」
「機会はあるだろう。ただし、貴族同士の付き合いには礼儀も必要だ。まずは相手の家のことを知り、どのような役目を担っているのかを理解することだな」
「はい、お父様」
馬車は、リヒテンフェルト伯爵領の街道を進み始めた。
八 王都へ向かう人々
旅が進むにつれ、街道を行き交う人の数は増えていった。
北から来た毛皮商人の荷車。南へ向かう穀物の輸送車。鍛冶道具を積んだ馬車。旅装を整えた巡礼者。王都へ向かう貴族家の従者たち。
それぞれが異なる目的地へ向かっていた。
道沿いには小さな休憩所が設けられ、井戸や馬の水飲み場がある。街道の分岐点には道標が立ち、王都までの距離を示していた。
「王都に近づいているから、人が増えているの?」
アリアが尋ねた。
「そうだろう。王都へ向かう者もいれば、王都から各地へ向かう者もいる。王都は人や物が集まる場所だからな」
エドガーが答えた。
「王都には、どのくらいの人が暮らしているの?」
「およそ二十五万人だ」
「二十五万人……。ヴァルデン領の人々より、ずっと多いのね」
「そうだ。王都には王家や貴族だけでなく、商人、職人、農産物を運ぶ者、学者、教師、兵士など、さまざまな人が暮らしている」
「食べ物も、全部王都で作っているわけではないのよね」
「もちろん。王都の周囲にも農地はあるが、二十五万人が暮らすには、周辺の町や村からも大量の食料を運ばなければならない」
「運ぶための道や馬車も必要ね」
「そうだ。市場に品物が届かなければ、売ることもできない。倉庫や荷車、商人の組合なども大切になる」
アリアは考え込んだ。
王都は人が多いから、物も多く集まる。
けれども、食料を運ぶには費用がかかる。遠くから運ぶほど、馬や荷車、道の維持にも負担がかかるだろう。
「王都では、食べ物の値段も領地とは違うのかしら」
「品物によって違うだろうね。王都には多くの商人が集まるから、品数は豊富だろう。ただ、買い求める人も多い。いつでも安いとは限らないよ」
「同じものでも、場所によって値段が変わるのね」
「そういうことだ」
エドガーは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。
「王都に着いたら、市場を見る機会も作ろう。王城や貴族の屋敷だけでなく、商人たちの働く場所も見ておくといい」
「本当ですか?」
アリアの顔が明るくなった。
「ただし、勝手に歩き回ることはできない。人の多い場所では、護衛の指示に従うこと。よいな」
「はい、お父様」
アルベルトが妹に微笑みかけた。
「僕も市場を見てみたい。ヴァルデンでは手に入りにくい品物もあるだろうし、ほかの領地の商人がどんなものを扱っているかも知りたい」
「お兄様も、いろいろ調べるのね」
「次代の当主として、領地の外のことも知らなければならないからね」
その言葉に、アリアは兄を見上げた。
アルベルトは、父の後を継ぐために学んでいる。
領地の人々の暮らし、収支、備蓄、鉱山、街道、防衛。そして、王国を構成する他の領地の事情。
王都での会談は、彼にとっても学びの場になるのだろう。
九 王立貴族学園の話
その日の午後、馬車は大きな川を越え、王都に近い平野へと入っていった。
遠くには、いくつもの町や集落が見える。街道沿いには商店や倉庫が並び、荷物を運ぶ馬車が絶えず行き交っていた。
アリアは窓の外を眺めながら、ふと思い出したように尋ねた。
「お父様。王都には、王立貴族学園があるのよね」
「そうだ。アルセリア王立貴族学園だ」
「十歳ごろから十八歳ごろまで学ぶところでしょう?」
「よく覚えていたな」
「ローレンツ先生に教えていただいたわ。歴史や地理だけでなく、政治や法律、領地経営なども学ぶのでしょう?」
「そのとおりだ。貴族の子どもたちは、将来担う役目に応じて、さまざまな知識を身につける必要がある。辺境伯家も通う者はいるが、辺境の防衛や領地の事情によって、王都で学ぶことが難しい家もある。貴族子弟教育法では、貴族家に子どもを教育する責任を定めているが、王都の学園への通学には事情に応じた猶予や例外が認められている」
「ヴァルデン家も、その例外なのね」
「ああ。北境の防衛を担い、王都までの距離も遠い。領地の財政にも余裕がない。そのため、アルベルトもレオンも、ローレンツ先生から学んできた」
「私も、ローレンツ先生に教えていただいているわ」
「そうだ。学園へ通わないからといって、教育を受けなくてよいわけではない。家庭教師や領地の学校などを通じて、必要な学びを続けることになる」
アルベルトが続けた。
「王立貴族学園には、魔法を学ぶ場所もある。魔道具について専門的に学ぶ魔道具科も設けられているそうだ」
「魔道具科……」
アリアは、鉱山で見た青白い魔石を思い出した。
光を蓄える石。弱くなった光が、しばらくすると再び明るくなる不思議な石。
そして、魔石を使って灯りを生み出す道具。
あの現象が何を意味するのか、まだわかっていない。
王都には、魔石や魔道具について研究している人々もいるのだろうか。
「王都には、魔石を研究する方もいるの?」
「いるはずだ。学園にも魔道具科があるし、王都には職人や研究者も集まっている。ただ、どのような研究が行われているかは、実際に聞いてみなければわからない」
「そうなのね」
アリアは、少しだけ胸が弾むのを感じた。
けれども、鉱山の石について、誰にでも話してよいわけではない。
父が慎重に扱っている以上、勝手に情報を広めることはできない。
「アリアが学園へ進む年齢になるころには、また家族で相談しよう。どこで学ぶのがよいか、お前の希望も聞きたい」
「私の希望も?」
「もちろんだ。学ぶことは、誰かに強制されるだけのものではない。自分が何を知りたいのか、何を身につけたいのかを考えることも大切だ」
アリアはうなずいた。
王立貴族学園には、まだ知らない学問や人々が待っている。
けれども、今はまだ七歳。
まずは目の前の学びを大切にしながら、少しずつ自分の道を考えていけばよいのだ。
十 王都の見える朝
翌朝、空はよく晴れていた。
一行は宿場町を出発し、南へ続く街道を進んだ。
平野を横切る道は北境の山道よりも広く、馬車がすれ違える場所も多い。道沿いには農地が広がり、遠くには水車の回る集落が見えた。
昼を過ぎたころ、街道の先に大きな建物の影が現れた。
最初は、地平線に浮かぶ小さな輪郭にすぎなかった。
しかし、進むにつれて、その姿は少しずつ大きくなっていく。
高い城壁。いくつもの塔。遠くからでも見える大きな建物の屋根。
そして、その周囲に広がる町並み。
「お父様……」
アリアは馬車の窓に近づいた。
「見えてきたぞ」
エドガーが静かに告げた。
王都だった。
アルセリア王国の中央に位置し、人口およそ二十五万人を抱える大都市。
王家の宮殿や貴族の屋敷だけではない。商人の館、職人の工房、市場、倉庫、学び舎、住宅地が広がり、城壁の内側には数え切れないほどの人々の暮らしがある。
王都を囲む環状街道が、その広がりを形づくっていた。
さらに、環状街道からは八つの主要街道が、それぞれの辺境へ向かって伸びている。
北へ向かう道は、ヴァルデンを含む三つの北方辺境伯領へ。
西へ向かう道は、リューネンベルクとローゼンハイムへ。
東へ向かう道は、フェルゼンリートとシュタールヴァルトへ。
南へ向かう道は、海に面したゾンネンフェルトへと続いている。
王都は、ただ王家のために存在する都市ではない。
八つの辺境伯領と王国各地を結ぶ、政治と交易の中心でもあった。
「地図で見たとおりの形なのね」
アリアがつぶやいた。
「実際に見ると、地図よりも大きく感じるだろう」
アルベルトが答えた。
「王都には、これほど多くの人が暮らしているのですね」
「そうだ。ここには、各地から人が集まってくる。辺境伯家の使者や商人、職人、学者、旅人。王都は、さまざまな土地の文化や知識が交わる場所でもある」
アリアは、遠くに見える城壁を見つめた。
王都の中には、王家があり、王立貴族学園があり、貴族院がある。
王領を治める役人たちがいて、王から領地を拝領した貴族たちが屋敷を構えている。
そして、建国以来の誓約を守り続けてきた八つの辺境伯家の使者も、やがてここへ集まるだろう。
王都には、異なる立場の人々が集まっている。
それぞれが自分の領地や役目を背負いながら、王国の未来について話し合うのだ。
「アリア」
エドガーが娘に声をかけた。
「王都では、初めて会う人々が大勢いる。相手の身分や立場を知ることは大切だが、それだけで人を判断してはいけない。相手が何を考え、何を守ろうとしているのかを、よく見なさい」
「はい、お父様」
「それから、わからないことがあれば尋ねればいい。知ったふりをする必要はない」
「はい」
アルベルトが妹に微笑みかけた。
「僕も、王都で学ぶことがたくさんありそうだ」
「お兄様も?」
「ああ。領地の外には、まだ知らないことが多い。ヴァルデンで学んだことが、ほかの領地でも同じように通用するとは限らないからね」
「私も、たくさん見て、たくさん学びたいわ」
馬車は、ゆっくりと王都へ続く街道を進んでいった。
城壁の上には、アルセリア王国の旗が風を受けてはためいている。
北境の山々を離れ、長い道のりを越えて、銀の狼の一行は、ついに王国の中心へと近づいていた。
その先には、王家との対面が待っている。
そして、八つの辺境伯家がそれぞれの誇りと責任を携え、古き誓約のもとに集う日も遠くはなかった。
アリアは、王都の大きな門を見つめた。
小さな胸に抱いた好奇心と、まだ言葉にできない不安。
その両方を胸に、彼女は新しい土地へ足を踏み入れようとしていた。
北境を守る銀の狼が、今、王都へ向かう。
その旅路は、ヴァルデン家だけでなく、アルセリア王国の未来へと続いていた。




