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空を翔ける辺境令嬢 ― 漆黒の瞳に映る、新しい世界 ―  作者: さざ波和音


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第十八章 春風に揺れる魔石 ― 小さな異変

一 春の光が差し込む朝

 冬の名残を残していた山々にも、ようやく春の色が広がり始めていた。


 雪解け水は谷を流れ、森の木々には柔らかな若葉が芽吹いている。朝の空気にはまだ冷たさがあったが、陽射しには冬とは違う温もりが感じられた。


 ヴァルデン家の屋敷にも、春の訪れとともに人々の動きが戻ってきていた。


 領地の畑では春の作付けが進み、村々では農具の修理や家屋の手入れが行われている。山の鉱山でも、雪によって遅れていた運搬路の確認が始まっていた。


 アリアは窓辺に座り、庭の木々を眺めていた。


「春になってきましたね、ミーナ」


「ええ。庭の花も、もう少しすれば咲き始めるでしょう」


 ミーナ・ベルは、アリアの髪を整えながら微笑んだ。


「森の木々も、少しずつ緑になってきました」


「冬の森とは、ずいぶん違うのですね」


「そうですね。雪の下で休んでいたものたちが、少しずつ動き始める季節です」


 アリアは窓の外を見つめた。


 この世界で暮らし始めてから、季節の移り変わりを以前よりも注意深く見るようになった。


 農作物も、家畜も、森の動物も、そして人々の暮らしも、季節の変化と切り離すことはできない。


 けれど、彼女の心には、もう一つ気になっていることがあった。


 山の鉱山で見つかった、あの青白い魔石。


 光が弱まったあと、時間を置くと再び淡く輝き始めるという、不思議な性質を持つ石だった。


 その原因は、まだ分かっていない。


「ミーナ。以前、鉱山で見つかった青白い魔石のことを覚えていますか?」


「もちろんです。フリードリヒ様が調べていらっしゃる魔石ですね」


「今も光っているのでしょうか」


「詳しいことは存じませんが、調査は続いていると聞いております」


 アリアは、しばらく考え込んだ。


「もう一度、見てみたいです」


 ミーナは少しだけ目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「エドガー様にお話ししてみましょう。鉱山は危険な場所ですから、許可をいただいてからですね」


「はい」


 アリアは素直に頷いた。


 あの石に何があるのか。


 なぜ、光が戻るのか。


 そして、どうして自分はあの石のことが気になるのか。


 その答えは、まだどこにもなかった。


二 不規則に揺れる灯火

 その日の午後、屋敷の一室では、魔道具に関する報告が行われていた。


 出席していたのは、領主エドガー、家令セバスチャン・ヴァルケン、会計を担当するマティアス・クロイツフェルト、鉱山責任者ヨハン・アイゼンリート、そして魔石や魔道具の研究を行うフリードリヒ・クリスタルヴェルクだった。


 机の上には、黄色い魔石を使った小型の灯具が置かれている。


 魔石に蓄えられた力を、内部の仕組みによって光へ変える道具であり、魔法を使えない者でも扱えるように作られていた。


「こちらの灯具について、少し気になる報告がありました」


 フリードリヒが静かに口を開いた。


「通常であれば、魔石の光は一定の明るさを保ちます。しかし、先日から一部の灯具で、ごく短い時間だけ明るさが揺らぐ現象が確認されています」


「故障ではないのか?」


 エドガーが尋ねた。


「その可能性もあります。魔石の固定部分が緩んでいたものもありました。ただし、すべてが同じ原因ではないようです」


 フリードリヒは小さな記録帳を開いた。


「特定の場所で起きるわけでもなく、使用時間にも明確な関係がありません。魔石を交換すれば現象が収まるものもあれば、同じ石を別の器具に移しても、しばらくすると同じ揺らぎが起きるものもありました」


「魔石そのものに問題があるということか」


 ヨハンが腕を組んだ。


「まだ分かりません。器具の構造、魔石の品質、周囲の環境、いくつかの可能性を調べているところです」


 マティアスは記録を見ながら、慎重に口を挟んだ。


「原因が分からないまま交換を続ければ、魔石の費用も修理の手間も増えます。まずは、どの器具で、いつ、どのような現象が起きたのか、記録を揃える必要がありますな」


「そのとおりです」


 フリードリヒは頷いた。


「魔石は貴重な資源です。原因を確かめずに、むやみに加工したり、力を加えたりするべきではありません」


 エドガーは報告書に目を通した。


「調査を続けてくれ。鉱山の復旧もまだ終わっていない。人手と費用を無理に振り分けることはできないが、危険のない範囲で必要な調査を行ってほしい」


「承知しました」


 こうして、魔道具の不規則な反応について、引き続き記録と調査が行われることになった。


 この時点では、誰もそれがアリアに関係する現象だとは考えていなかった。


三 青白い魔石の変化

 数日後、フリードリヒは鉱山から屋敷へ戻ってきた。


 彼の手には、小さな木箱が抱えられていた。


 中に収められていたのは、以前から調査を続けている青白い魔石の一部を、慎重に切り出した標本だった。


「ヨハン殿。鉱脈の状態について、少し変化がありました」


「また光が戻ったのか?」


「はい。ただし、以前と同じとは限りません」


 フリードリヒは木箱を開き、薄い布に包まれた石を取り出した。


 石は淡い青白さを帯びていた。


 強く輝いているわけではない。


 けれど、暗い場所で見ると、石の内部に細い光が漂っているようにも見えた。


「光の強さは、以前に比べて少し増しています。けれど、急激な変化ではありません。時間を置いて測定したところ、ゆっくりと明るさが変化していました」


「石の内部に力が蓄えられているのか?」


「その可能性はあります。しかし、周囲から何らかの影響を受けている可能性も否定できません」


 ヨハンは石を見つめた。


「鉱脈全体にも同じ変化があるのか?」


「場所によって差があります。すべてが同じように光るわけではありません。鉱脈の奥にある部分は、ほとんど光を見せていないものもあります」


「ならば、無理に掘り進めるのは避けたほうがよさそうだな」


「私もそう考えています。鉱脈の状態を記録しながら、慎重に調べるべきでしょう」


 そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「失礼いたします。アリア様がお見えです」


 ミーナの声だった。


 エドガーは顔を上げた。


「入りなさい」


 扉が開き、アリアがミーナとともに部屋へ入ってきた。


「お父様。お話し中でしたか?」


「構わないよ。こちらは魔石の調査について話していたところだ」


 アリアの視線は、机の上に置かれた木箱へと向かった。


「それが、青白い魔石ですか?」


「そうだ。以前、鉱山で見つかったものの一部だよ」


 フリードリヒは、アリアに分かるようにゆっくり説明した。


「この石は、普通の魔石とは少し違った反応を見せています。光が弱くなったあと、時間を置くと再び淡く光り始めるのです」


「どうしてでしょう?」


「それを調べているところです。まだ、はっきりしたことは分かっていません」


 アリアは石を見つめた。


 その瞬間だった。


 青白い光が、ほんのわずかに強くなった。


四 少女が近づいたとき

「……今のは?」


 最初に気づいたのは、フリードリヒだった。


 彼は石に顔を近づけ、光の具合を確かめた。


「少し明るくなりましたね」


 ヨハンも木箱を覗き込んだ。


「確かに、先ほどより光が強い」


 エドガーはフリードリヒを見た。


「何か操作をしたのか?」


「いいえ。箱にも石にも触れておりません」


 フリードリヒは、机の上に置いた記録帳を開いた。


 アリアは不思議そうに石を見つめていた。


「さっきより、明るくなったように見えます」


「ええ。私にもそう見えます」


 フリードリヒは慎重に答えた。


「アリア様。恐れ入りますが、もう少しだけ、こちらから離れていただけますか?」


「はい」


 アリアが一歩下がる。


 すると、青白い光は少しずつ弱くなっていった。


「……光が落ち着いてきました」


 フリードリヒの声に、部屋の空気が変わった。


「偶然ではないのか?」


 エドガーが尋ねる。


「まだ判断できません。石の光は、もともと一定ではありませんから」


 フリードリヒは、アリアの立っていた場所と石の位置を確かめた。


「もう一度、同じ場所に立っていただけますか?」


 エドガーは娘の様子を見た。


「無理をする必要はないよ」


「大丈夫です。少し立つだけですよね?」


 アリアが答えると、フリードリヒは頷いた。


 アリアが再び机の近くへ戻る。


 今度も、石の光がわずかに強くなった。


 ただし、先ほどほどではない。


 フリードリヒは目を細めた。


「同じような変化が見られます。しかし、まだ二度だけです。これだけで何かを決めることはできません」


「アリアに何か影響があるということか?」


 エドガーの声には、わずかな緊張があった。


「その可能性はあります。ですが、周囲の温度や空気の流れ、石の置かれた位置など、ほかの条件も調べなければなりません」


 フリードリヒは、石に触れることなく、周囲の温度を確かめた。


 窓は閉じられている。


 室内に強い風はない。


 灯具の火も、魔石の光も、ほかには変化を見せていなかった。


「今のところ、原因は分かりません」


 彼はそう告げた。


 アリアは自分の手を見つめた。


「私が近づいたから、光ったのでしょうか?」


「そうとは限りません。偶然かもしれませんし、何か別の理由があるのかもしれません」


 フリードリヒは、幼い少女を不安にさせないよう、穏やかな声で答えた。


「分からないことを、分からないままにしておくのも、調査の大切なところです」


 アリアは小さく頷いた。


「そうですね。まだ、分かりませんね」


 その言葉を聞き、エドガーは娘の肩に手を置いた。


「心配しなくていい。何か分かるまでは、何も決めつける必要はないよ」


五 記録に残された小さな違い

 その日の夕刻、フリードリヒは調査記録をまとめていた。


 彼は、魔石の光が変化した時刻、室温、窓の開閉、石とアリアの距離、光の強さを、できる限り正確に書き残した。


 しかし、記録にはまだ不確かな点が多かった。


 石の光を正確に測る道具は十分に整っていない。


 目で見た明るさの違いだけでは、数値として比較することも難しい。


 また、アリアが近づいたときに光が強まったとしても、それが彼女の存在によるものなのか、たまたま石が変化する時期と重なっただけなのかは分からない。


「フリードリヒ殿。今後はどう調べるつもりですか?」


 ヨハンが尋ねた。


「まずは、石を同じ環境に置いて、時間ごとの変化を記録します。室温や湿度、光の強さもできるだけ揃えたいですね」


「アリア様については?」


「今すぐ、何か特別な検査をする必要はないと考えます。今回の現象だけで、魔力の有無を判断することはできません」


 エドガーは静かに頷いた。


「それでよい。娘をむやみに調査の対象にするつもりはない」


「承知しております」


「ただし、同じ現象が繰り返されるなら報告してくれ。石の扱いにも十分注意を払ってほしい」


「はい」


 フリードリヒは記録帳を閉じた。


 その表紙には、簡潔にこう記されていた。


 青白い魔石。


 光の回復。


 周囲の環境との関係。


 そして、アリアが近づいた際の変化。


 まだ、それらを結びつける確かな証拠はなかった。


六 小さな胸に残る疑問

 夜。


 アリアは自室の窓辺に座り、外の景色を眺めていた。


 庭の向こうには、春の夜空が広がっている。


 月明かりの下で、木々の枝が静かに揺れていた。


「アリア様、そろそろお休みになりませんか?」


 ミーナが寝台のそばで声をかける。


「もう少しだけ、考えていたいのです」


「今日の魔石のことでしょうか?」


「はい」


 アリアは自分の手のひらを見つめた。


 この世界に来てから、時折、胸の奥に不思議な温もりを感じることがあった。


 けれど、それが何なのかは分からない。


 魔法なのか。


 ただの気のせいなのか。


 あるいは、この世界で生きる自分の身体に何か変化が起きているのか。


 考えても、答えは出なかった。


「ミーナ。魔法を使える人は、どんなふうに自分の力に気づくのでしょう?」


「人によって違うと聞いております。幼い頃から不思議な現象を起こす方もいれば、成長してから自分の適性を知る方もいるそうです」


「では、自分では気づかないこともあるのですね」


「ええ。ただ、魔法を使える方はほんの一握りです。誰もが持っているものではございません」


 アリアは窓の外へ視線を戻した。


「今日の石の光も、魔法とは限りませんね」


「そうですね。まだ分からないことです」


 ミーナはアリアの髪を優しく撫でた。


「今は、あまり難しく考えなくてもよろしいのではありませんか。明日になれば、また新しいことが分かるかもしれません」


「そうですね」


 アリアは小さく笑った。


「おやすみなさい、ミーナ」


「おやすみなさいませ、アリア様」


 ミーナが部屋を出ると、アリアは再び窓の外を見た。


 遠くの山々は、夜の闇に沈んでいる。


 その山のどこかに、青白く光る石が眠っている。


 そして、その石がなぜ自分の近くで光を強めたのか、今はまだ誰にも分からない。


 ただ一つ確かなのは、あの小さな変化が、記録に残されたということだった。


 それは、長い時間をかけて解き明かされていく謎の、ほんの始まりにすぎなかった。


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