第十一章 雪の村に咲く薬草 ― 命をつなぐ知恵
一 父からの誘い
冬の雪は、まだ北の山々を深く覆っていた。
シュヴァルツグラートの峰々は、白銀の衣を幾重にもまとい、朝の光を受けて青白く輝いている。山から吹き下ろす風は冷たく、枝に積もった雪をさらさらと舞い上げながら、谷間の村々へと吹き抜けていった。
ヴァルデン家の館でも、暖炉には絶えず薪がくべられ、窓辺には厚手の布が掛けられている。
アリアは朝食を終えると、ミーナと一緒に窓辺に座り、雪の降る庭を眺めていた。
「ミーナ、雪はいつまで降るの?」
「山の雪が緩むまでは、まだ何度か降るでしょうね。春の気配が訪れるのは、もう少し先かもしれません」
「森の動物たちは、どうしているのかしら」
「雪の少ない場所を探したり、木の実を蓄えた場所へ戻ったりしているのでしょう。冬を越すのは、人間だけではありませんから」
アリアは、白く染まった木々を見つめた。
そのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「アリア様。エドガー様がお呼びでございます」
「お父様が?」
「はい。執務室へお越しくださいとのことです」
アリアはミーナとともに廊下を進み、父の執務室へ向かった。
扉を開けると、エドガーが机の前に座り、アルベルトとセバスチャンがその傍らに立っていた。
机の上には北方の村々を記した地図と、数枚の報告書が広げられている。
「来たな、アリア。こちらへおいで」
「はい、お父様」
エドガーは娘のために椅子を用意させた。
「今日は、お前に話しておきたいことがある」
そう言って、地図の北東寄りを指した。
「ここに、ヴァイセンタールという村がある。山麓にある小さな村でな。家畜を育て、森の木を伐り、狩りをし、季節ごとに薬草を集めて暮らしている」
「薬草を集めているのですね」
「ああ。村には薬草に詳しい者と、病人や怪我人の手当てをする者がいる。ところが、この冬は雪が長く続き、薬草の蓄えが少なくなっているそうだ」
エドガーは報告書を手に取った。
「咳や熱を出している者が何人かいる。今のところ、重い病人がいるという報告ではないが、薬草や食料の残りが心もとないらしい」
アルベルトが報告書を補った。
「村では、残っている薬草を必要な人に分けているそうです。ただ、雪で道が悪く、森へ薬草を取りに行くことも難しいようです」
「それで、村へ食料や薪を届けるのですね」
「そうだ。穀物や乾燥肉、豆、薪を運ぶ。薬草庫からも保存してある薬草を選んで持っていくつもりだ」
エドガーは一度言葉を切り、アリアに向き直った。
「お前は、これまで領地の村や町を訪れ、人々の暮らしを見てきたな。冬の備えについても、薬草についても、いろいろと興味を持っているようだ」
「はい。村によって暮らし方も、使う道具も違うので、もっと知りたいと思っています」
「ならば、今度の訪問に一緒に来ないか。薬草師や治療師にも会わせようと思っている。薬草がどこに生え、どうやって保存され、病人の手当てに使われるのか。実際に見れば、本で学ぶだけでは分からないこともあるだろう」
アリアの瞳が明るくなった。
「私もご一緒してよいのですか?」
「もちろんだ。ただし、冬の山道は危険もある。村に着いてからも、必ずミーナや護衛の者と一緒に行動すること。寒さを感じたら、無理をせず馬車へ戻ることだ」
「はい。お約束します」
「それなら決まりだな」
アルベルトが微笑んだ。
「お兄様も、いらっしゃるのですね」
「ああ。父上のもとで、村への物資の配分や道の管理について学ぶことになっている」
「レオンお兄様は?」
アリアが尋ねると、エドガーが答えた。
「レオンは明日、騎士団の者たちと北境の砦で訓練を行う予定だ。冬の見張りや雪道での移動について学ぶことになっている。今回は別行動だが、あいつにも必要な経験だ」
「そうなのですね」
「それぞれが、自分の役目に応じて学んでいけばよい」
エドガーは地図を畳みながら、穏やかに言った。
「アリアも、ただ薬草の名前を覚えるだけではなく、そこに暮らす人々が何を必要としているのかを見てくるといい」
「はい、お父様。楽しみにしています」
アリアは深くうなずいた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
その白い雪の下にも、人々の暮らしを支える小さな緑が眠っている。
アリアは、それを自分の目で見てみたかった。
二 山麓の村と薬草師
翌朝、ヴァルデン家の一行は館を出発した。
エドガー、アルベルト、グレゴールに加え、ミーナとアリア、数名の護衛騎士が同行している。
荷馬車には穀物の袋、乾燥肉、豆、薪、古布、縄、それに領地の薬草庫から選んだ保存用の薬草が積まれていた。
雪道には、先日の除雪の跡が残っていた。
村へ向かう道は、森の中を縫うように続いている。木々の枝には雪が積もり、風が吹くたびに白い粉が舞い落ちた。
アリアは馬車の窓から、冬の森を眺めていた。
「葉のない木が多いですね」
「落葉する木は、冬の間、葉を落として寒さに耐えます。針葉樹は葉を残すものが多いですね」
向かいに座るミーナが答えた。
「同じ森でも、木によって冬の過ごし方が違うのですね」
「ええ。人も、それぞれに冬を越す方法があります」
やがて道の先に、木造の家々が見えてきた。
ヴァイセンタール村は、山の斜面と小さな川に挟まれた静かな村だった。屋根には厚い雪が積もり、煙突からは細い煙が立ち上っている。家畜小屋のそばでは、羊や山羊が身を寄せ合い、雪を避けるようにして餌を食べていた。
村の入口では、年配の女性と男性が一行を待っていた。
女性は五十代半ばほど。灰色の髪を後ろでまとめ、深い緑色の上着に、毛皮を縁取った外套を重ねている。腰には小さな布袋と木製の道具入れを提げていた。
「お待ちしておりました。村の薬草師、エルゼ・クレッターヴァルトでございます」
その隣の男性は、四十歳ほど。茶色の髪を短く整え、落ち着いた表情をしていた。肩には医療道具を収めた革袋を掛けている。
「治療を担っております、ディートリヒ・ブルーメンシュタインです。遠いところをお越しいただき、ありがとうございます」
エドガーは二人にうなずいた。
「雪の中、大変だっただろう。村の様子を聞かせてほしい」
「咳や熱を出している者が数人おります。今のところ、食事を取れないほど弱った者はおりませんが、長引かせたくはありません」
ディートリヒが答えた。
「薬草の蓄えは、どのくらい残っている?」
「種類によって違います。よく使う葉の薬草は、残りが少なくなりました。根の薬草はまだありますが、使いすぎれば春まで持ちません」
エルゼはそう言って、小さな布袋を取り出した。
「薬草は、必要なときに森へ行けばよいというものではありません。芽吹く季節も、花をつける時期も、根に力を蓄える時期も、それぞれ違います。冬に採れないものは、暖かい季節に備えておくのです」
「季節を知ることも、薬草師の大切な仕事なのですね」
アリアが言うと、エルゼは少し驚いたように目を細めた。
「よく気づかれましたね、小さなお嬢様」
「アリアと申します。今日は、薬草のことを教えていただけますか?」
「もちろんでございます。ただし、薬草は見た目が似ていても、身体に害をなすものがあります。私がよいと言うまでは、決して口に入れてはいけませんよ」
「はい。約束します」
エルゼは穏やかに微笑んだ。
村の広場には、雪を払った荷下ろし場が設けられていた。
荷馬車から食料や薪が降ろされると、村人たちが手伝いに集まってきた。誰かが命じるまでもなく、男たちは重い袋を運び、女たちは食料を受け取り、子供たちは小さな薪を抱えて家へと走っていく。
アルベルトは村の代表者と一緒に、食料や薪の配分を確認していた。どの家に何が必要か、村の備蓄がどの程度残っているかを聞き取り、届けた物資を一方的に配るのではなく、村の蓄えと合わせて不足を補う方法を考えている。
エドガーはその様子を見ながら、アリアに言った。
「村を助けるといっても、ただ物を渡せばよいわけではない。村の者たちが何を持ち、何に困っているのかを知らなければ、必要な支援にはならないのだ」
アリアはうなずいた。
ここにも、銀の狼が守ろうとしている暮らしがある。
三 雪の下に眠る緑
荷下ろしが終わると、エルゼは集会小屋へアリアを案内した。
小屋の中は暖かく、炉には火が燃えていた。梁からは乾燥させた植物が束になって吊るされ、壁際の棚には木箱や陶器の壺が並んでいる。
アリアは、吊るされた植物を見上げた。
「たくさんありますね」
「これでも、夏に比べれば少ないのですよ」
エルゼは棚から四つの小箱を取り出した。
「こちらは、ヴァルトミント。湿り気のある森の中に生える香りのよい草です。葉を乾かしておくと、香りが長く残ります」
蓋を開けると、すっとした爽やかな香りが広がった。
「こちらは、シュネーヴァイス。雪解けのころに白い花を咲かせます。昔から、喉の違和感があるときに使われてきました」
次の箱には、細く乾いた根が入っていた。
「これはベルグヴルツ。岩の隙間に根を張る草です。乾かした根を、ごく少量だけ使います。多く使えばよいというものではありません」
最後の箱には、平たい葉が納められていた。
「こちらはゾンネンブラット。日当たりのよい草地に育ちます。葉を清潔に扱い、昔から小さな傷の手当てに用いられてきました。ただし、どんな傷にも使えるわけではありません」
アリアは一つずつ、形や色を確かめた。
「同じ草でも、使う場所や量が違うのですね」
「ええ。薬草は、名前を覚えるだけでは足りません。どこに生え、いつ採り、どのように乾かし、どのくらい使うのか。それを知らなければなりません」
ディートリヒが言葉を添えた。
「そして、薬草を使う前に、病人の様子をよく見ることです。熱があるのか、咳が出るのか、食べられるのか、水を飲めるのか。身体の状態を見ずに、薬草だけを与えてはいけません」
「薬草師と治療師は、違う仕事なのですか?」
「重なるところもありますが、私たちはそれぞれの知識を持ち寄っています。エルゼは植物の性質や採取、保存に詳しい。私は傷や病の状態を見て、どのような手当てが必要かを考えます」
「二人で相談するのですね」
「そうです。一人の知識には限りがありますから」
エルゼは、箱の中の葉を指先でそっと整えた。
「森の草は、私だけのものではありません。昔の薬草師が教えてくれたことを、私が受け継ぎ、次の者へ渡していくのです」
アリアはその言葉を胸に刻んだ。
知識は、誰か一人の手の中に閉じ込めておくものではない。
人から人へ渡り、少しずつ確かなものになっていく。
四 病む者のそばで
昼前、ディートリヒは村の家々を回ることになった。
アリアはエドガーの許しを得て、ミーナとグレゴールの付き添いのもと、診察の様子を見せてもらうことになった。
最初に訪れたのは、夫婦と幼い子供が暮らす家だった。
室内には炉があり、寝台には厚い毛布が敷かれている。母親は咳をしていたが、顔色はそれほど悪くない。ディートリヒは彼女の額に手を当て、呼吸の様子を確かめた。
「水は飲めていますか」
「はい。温めた水を少しずつ飲んでいます」
「食事は?」
「薄い粥なら食べられます」
「それなら、無理をせず、少しずつ続けてください。身体を冷やさないように。咳が強くなる、息苦しくなる、水が飲めなくなるといった変化があれば、すぐに知らせてください」
ディートリヒは寝台のそばに置かれた水差しを見た。
「この布は、いつ替えましたか?」
「昨日の朝です」
「濡れた布や寝具は身体を冷やします。乾いたものに替えましょう。部屋の空気も、炉の煙がこもらないよう、ときどき入れ替えてください。ただし、病人に冷たい風が直接当たらないように」
アリアは、その言葉に耳を傾けた。
部屋を清潔に保つこと。水を飲むこと。寝具を乾かすこと。空気を入れ替えること。
どれも薬草とは別の、大切な手当てだった。
次の家では、薪を割っていて手を傷つけた男性がいた。傷口はすでに布で覆われていたが、布には汚れが付いている。
ディートリヒはまず手を洗い、清潔な水で傷の周囲を丁寧に洗った。汚れた布を外し、傷の状態を確かめてから、新しい布で覆った。
「傷に土や汚れが残ると、悪くなることがあります。薬草を使うより先に、まず清潔にすることです」
アリアは、男性の手を見つめた。
「ゾンネンブラットを使うのですか?」
「今は使いません。傷の深さや汚れの具合を見て、必要な手当てを選びます。薬草を使えば何でもよいというわけではありません」
その言葉は、アリアにとって大切な教えになった。
便利なものを知っていても、それを使うべき時と使わない時がある。
知識は、ただ多ければよいのではない。相手の状態を見極める慎重さが必要なのだ。
家を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
アリアはミーナの手を握りながら、雪の積もった道を歩いた。
「ミーナ。病気の人を助けるには、薬草だけでは足りないのですね」
「ええ。食べ物も、暖かい寝床も、清潔な水も必要です。そばで様子を見てくれる人も」
「誰かが病気になったら、その人だけではなく、家族も村の人も力を合わせるのですね」
「そうですね。病を治すことは、一人だけの仕事ではありません」
五 薬草を守る小さな工夫
午後になると、エルゼは薬草を保存している小屋へアリアを案内した。
小屋の中には、乾燥用の棚が並んでいた。窓は小さく、雨や雪が吹き込まないように作られている。棚の上には、葉や花、根が種類ごとに分けられていた。
「ここでは、採ってきた薬草を乾かし、保存します。湿ったまま置いておくと、傷んでしまいますからね」
エルゼは、乾燥させた葉を一つ取り上げた。
「まず、土や枯れた部分を取り除きます。それから、風が通る場所で乾かします。強い火に近づけすぎると、香りや性質が変わってしまうものもあります」
アリアは棚を眺めた。
いくつもの箱や袋が並んでいるが、同じような葉が別々の場所に入っているものもあった。
「エルゼさん。この箱には、名前が書いてありますね」
「ええ。名前と、採った季節を記しています」
「どこで採ったかも書いたほうがよいのではありませんか?」
エルゼはアリアを見た。
「どこで採ったか、ですか?」
「森の中でも、湿った場所と日当たりのよい場所では、育つ草が違いますよね。同じ名前の草でも、採った場所が分かれば、次に探すときに役立つと思うのです」
エルゼはしばらく考え、うなずいた。
「それはよい考えですね。山の東側か西側か、川のそばか、岩場か。場所を記しておけば、次の薬草師にも役立つでしょう」
アリアは少し嬉しくなった。
「それから、採った日も書いておけば、古いものと新しいものを間違えにくくなると思います」
「確かに。薬草は、長く置けばよいというものではありませんからね」
「箱に入れる前に、似た草が混ざっていないか、もう一度確かめるのも大切ですね」
「ええ。よく似た毒草が混じってしまえば、命に関わることもあります」
エルゼは棚の奥から、小さな木箱を取り出した。
「こちらには、似ているけれど使ってはいけない草を入れています。薬草と一緒に覚えておくことも大切なのです」
アリアは、その箱には触れず、じっと中を見た。
役に立つものを覚えるだけではなく、危険なものを知る。
それもまた、人を守るための知恵だった。
「この村には、紙がたくさんあるのですか?」
「いいえ。紙は高価です。多くは木の薄板や、丈夫な布に記しています」
「では、木の板に、採った場所と季節を書いて、箱に付けておくのはどうでしょう」
エルゼは微笑んだ。
「すぐにでも試せそうですね。よい知恵をいただきました」
「私が考えたことが、役に立つでしょうか」
「知恵は、大きなものでなくてもよいのです。誰かが間違えずに薬草を使えるようになるなら、それだけで十分に価値があります」
その日、エルゼは小さな木札を何枚か用意し、薬草の名前、採取した季節、場所を記すことにした。
アリアは、その作業を手伝った。
まだ幼い指先で、木札を並べ、文字の位置を確かめる。
小さな工夫が、いつか誰かの命を守るかもしれない。
六 森の恵みと人間の境
翌朝、雪は弱まり、空には薄い青色が広がっていた。
エルゼは村の近くにある森の縁まで、一行を案内してくれた。
「このあたりは、村の者たちが昔から利用している森です。薪を集め、木の実を拾い、薬草を探し、狩りをします」
森の入口には、雪をかぶった低木が並んでいた。木々の間には獣の足跡があり、小鳥が枝から枝へ飛び移っている。
「冬でも、森には命があるのですね」
「ええ。雪の下には草の根があり、土の中には虫がいます。木の皮を食べる獣もいれば、木の実を探す鳥もいる。人間だけが森を使っているのではありません」
エルゼは雪を払い、枯れた草の根元を指した。
「春になれば、このあたりにシュネーヴァイスが芽を出します。今はまだ、雪の下で眠っているのです」
アリアは地面を見つめた。
白い雪の下に、小さな命が隠れている。
目には見えなくても、春が来れば再び芽を伸ばすのだ。
「今は採れないのですね」
「ええ。無理に掘り起こせば、根を傷めてしまいます。春に花を咲かせ、種を残せるようにしておかなければなりません」
エルゼは森の奥を見た。
「森の恵みは、採り尽くしてしまえば終わりです。若い木を残し、薬草も必要な分だけ採る。根を残すものは残し、種をつける前にすべて刈り取らない。それが森とともに暮らすための約束です」
そのとき、グレゴールが足を止めた。
「少し先に、大きな足跡があります」
一行の視線がそちらへ向いた。
雪の上に、獣のものと思われる足跡が続いている。普通の狼よりも大きく、深く沈んでいた。足跡は森の奥へと向かい、木々の間で途切れている。
「熊でしょうか」
アルベルトが尋ねた。
エルゼは足跡を見つめた。
「このあたりには大きな獣もおります。熊かもしれませんし、別の獣かもしれません。雪の上だけでは、はっきりとは分かりません」
グレゴールは護衛騎士たちに目配せした。
「森の奥へは進みません。足跡の位置を記録し、村へ知らせましょう」
アリアは、森の奥を見つめた。
木々の向こうには、深い森が広がっている。
このあたりは、人々が暮らし、薪を集め、薬草を採ることのできる森だ。そのさらに先には、普通の森とは異なる領域が広がっている。
人々はそこを、魔の森と呼んでいた。
西部、北部、東部に広がる人の領域を囲む森と山。そのさらに奥には、広大な魔の森が続いている。人の知識や力が及ばない場所も多く、そこには強大な魔獣や、古くから森に暮らす人ならざる者たちがいると伝えられていた。
けれど、その全貌を知る者はほとんどいない。
アリアはまだ、その場所がどれほど広く、どれほど深いのかを知らなかった。
「お嬢様、こちらへ」
ミーナに促され、アリアは森から離れた。
振り返ると、雪をまとった木々が静かに立ち並んでいる。
森は何も語らない。
ただ、そこに生きるものすべてを抱き、長い冬を越そうとしていた。
七 薬草師が伝えたいこと
村へ戻ると、エルゼは集会小屋で薬草を整理していた。
アリアはそのそばに座り、木札に記した文字を確かめている。
「エルゼさん。薬草師になるには、どのくらい勉強すればよいのですか?」
「どのくらい、と言われると難しいですね。季節が巡るたびに、新しいことを覚えます。春には春の草があり、夏には夏の草がある。秋には根や実を蓄えるものがあり、冬には保存したものを使います」
「一年を何度も過ごさなければ、全部は分からないのですね」
「そうです。それに、同じ草でも育つ場所によって姿が少し違うことがあります。似た草を見分けるには、長い時間と注意深い目が必要です」
エルゼは、アリアの前に小さな束を置いた。
「この草と、こちらの草を見比べてごらんなさい」
二つはよく似た葉を持っていた。しかし、葉の縁や茎の色がわずかに異なる。
「こちらは葉の縁が丸く、もう一方は少し尖っています」
「よく見ていますね。薬草師は、そうした小さな違いを見逃してはいけません」
アリアは慎重に二つを見比べた。
「もし間違えてしまったら?」
「だからこそ、分からない草は採らないのです。見分けられないものを、知っているふりをして使ってはいけません」
ディートリヒも話に加わった。
「治療も同じです。自分に分からない病があれば、知っている者に相談する。手に負えない傷や病なら、より多くの知識を持つ者へつなぐ。それが命を守ることになります」
「知らないことを、知らないと言うのも大切なのですね」
「ええ。勇気のいることですが、とても大切です」
エルゼは窓の外を見た。
「私も若いころ、先代の薬草師からたくさんのことを教わりました。採ってはいけない草、採る時期を間違えてはいけない草、少しの量しか使えない草。失敗しないように、何度も教えられたものです」
「その教えを、今度は誰かに伝えるのですね」
「そうです。私が知っていることを、私の代で終わらせてはいけません」
そのとき、集会小屋の入口から小さな女の子が顔を覗かせた。
八歳ほどだろうか。淡い栗色の髪を三つ編みにし、頬には寒さで赤みが差している。
「エルゼおばさん。お手伝いに来たよ」
「おや、リーナ。弟さんはどうしました?」
「お母さんが見てくれているの。弟は、今日は咳が少ないって」
「それはよかったですね」
リーナは棚の上の薬草を見つめた。
「私も、薬草を覚えたいの。いつか、おばさんみたいに村の人を助けられるようになりたい」
エルゼは、少女の頭を優しく撫でた。
「それなら、まずは名前を覚えることから始めましょう。急いではいけませんよ。草をよく見て、季節を覚えて、森のことを知るのです」
「うん」
アリアは、リーナの横に座った。
「私も、今日初めて教えてもらったの」
「アリア様も?」
「ええ。知らないことばかりだったわ。でも、少しずつ覚えればよいのですって」
リーナは嬉しそうに笑った。
二人の前には、まだ覚えることの多い薬草の束が並んでいた。
八 雪の村に灯る命の火
村を離れる日の午後、空には久しぶりに明るい陽射しが差していた。
荷馬車には、領地から届けた食料や薪のほか、村の薬草師が整理した薬草の記録も積まれていた。
エルゼは、薬草の保存方法と採取場所を記した木札の控えをエドガーに手渡した。
「領内の薬草庫でも、同じように記録していただければ、村同士で知識を分け合うことができます。こちらで育つ草と、別の土地で育つ草を比べることもできますから」
「よい考えだ。領内の薬草師たちとも相談しよう。無理に一つのやり方にそろえるのではなく、それぞれの土地に合った方法を残したい」
エドガーは木札を大切に受け取った。
ディートリヒは、薬草の在庫と村人たちの健康状態を記した報告をまとめていた。必要な薬草が不足したときには、近隣の村や領地の薬草庫と連絡を取り合うことも決められた。
アルベルトは村の代表者と、今回届けた食料や薪の数量、村に残っている備蓄、今後の補充について確認を終えていた。
「これで、春までの見通しは立ちそうです。ただ、雪がさらに続くようなら、もう一度様子を確かめる必要があります」
「そのときは、村から早めに知らせてもらおう。無理に蓄えを使い切ることのないように」
エドガーが答えた。
村人たちは、届けられた食料を家ごとに分け、薪を必要な家へ運んでいた。
ある家では、年老いた夫婦のために若者が薪を割っている。別の家では、病人のいる家へ温かい粥を届けていた。
リーナも、集会小屋の前で小さな箱を抱えていた。
「アリア様。今日教わった薬草の名前、忘れないように書いておくの」
「素敵ね。私も館に戻ったら、今日見たことを書いておくわ」
「また来てくれる?」
「ええ。春になって、シュネーヴァイスが咲くころに、また会えたらいいわね」
「そのときは、私が薬草のことを教えてあげる!」
リーナの目は、希望に満ちていた。
アリアはその言葉を聞き、優しく微笑んだ。
「楽しみにしているわ」
帰りの馬車の中で、アルベルトが妹に尋ねた。
「今日は何を学んだ?」
アリアは窓の外を眺めながら答えた。
「薬草の名前や、乾かし方や、保存の仕方を教えてもらいました。それから、薬草だけでは病気を治せないことも」
「ほかには?」
「森の草は、必要な分だけ採ること。似ている草を間違えないこと。分からないときは、分からないと言うこと。そして、知っていることを次の人に伝えることです」
アルベルトはうなずいた。
「ずいぶん多くのことを学んだな」
「はい。でも、まだほんの少しです」
「それでいい。学びは、一日で終わるものではないからな」
エドガーは二人の会話を聞きながら、穏やかな表情を浮かべていた。
「アリア。今日、薬草師たちがしていたことは、領地を治めることにも通じている」
「どういうことですか?」
「森の恵みを使い切らず、次の季節に残す。病人を一人にせず、村全体で支える。知識を一人のものにせず、次の世代へ伝える。領地も同じだ。今の暮らしだけを考えていては、次の世代が困ることになる」
「次の春のために、今できることをしておくのですね」
「そうだ。今日の薪も、食料も、薬草も、誰かが前の季節に備えてくれたものだ。私たちは、それを受け取り、また次の者へ渡していく」
アリアは膝の上に置いた小さな木札を見つめた。
そこには、エルゼから教わった薬草の名前が記されている。
ヴァルトミント。
シュネーヴァイス。
ベルグヴルツ。
ゾンネンブラット。
その一つ一つに、森の季節と、人々の暮らしが結びついていた。
館へ戻るころには、夕暮れが近づいていた。
雪をかぶった山々の向こうに、淡い金色の光が広がっている。
アリアは、胸の奥に小さな温もりを感じた。
それは、暖炉の火に触れたときのような、柔らかな感覚だった。
以前から、ときおり訪れる不思議な温かさ。
けれど、それが何なのかは、まだ分からない。
アリアは胸元に手を当てたあと、そっと窓の外へ目を戻した。
「春になったら、もう一度あの森へ行きたいです」
「そうだな。雪が解け、道が安全になったら考えよう」
エドガーの声が静かに響いた。
冬の山々は、まだ深い雪に覆われている。
その麓では、人々が火を絶やさず、食べ物を分け合い、薬草の知恵を伝えながら春を待っていた。
雪の下には、まだ見ぬ小さな緑が眠っている。
それは、冬に耐える命のしるしであり、次の季節へとつながる希望でもあった。
アリアは、今日出会った人々の顔を思い浮かべた。
薬草師エルゼ。
治療師ディートリヒ。
そして、いつか自分も薬草師になりたいと願ったリーナ。
小さな村で交わされた言葉や知恵は、やがて村を越え、領地を越え、遠い土地へと届いていくのかもしれない。
銀の狼が守るこの北境には、まだ知らない暮らしがある。
そして、そのさらに向こうには、人々がまだ足を踏み入れたことのない広大な森と山々が広がっている。
アリアの学びは、まだ始まったばかりだった。




