第九章 冬を迎える備え ― 村々を結ぶ銀の道
一 雪が降る前に
北の山道が崩れてから、数日が過ぎた。
ヴァルデン家の館では、冬を迎えるための準備が本格的に始まっていた。
朝の空気は日ごとに冷たさを増し、庭の草には白い霜が降りるようになった。池の水面には薄い氷が張り、朝日が差し込むと、無数の小さな銀片のようにきらめいている。
アリアは窓辺に立ち、庭で働く人々を眺めていた。
薪を運ぶ者、馬小屋の屋根を点検する者、倉庫から冬用の毛布を運び出す者。館の中も外も、冬を迎えるための仕事で活気づいている。
「ミーナ。冬になる前には、こんなにたくさんの準備が必要なのですね」
「はい、お嬢様。雪が深くなりますと、村と村の行き来も難しくなります。食べ物や薪を運ぶことも、今のようにはできなくなりますから」
「それなら、雪が降る前に必要なものを全部運んでおくのですか?」
「できるだけはそういたします。ただ、何がどれほど必要になるかは、村によって違います。山の村と牧場の村、畑の多い村では、冬の暮らし方も異なりますので」
アリアは、先日の森の村を思い出した。
マティルデが話していた、豆や穀物の蓄え。森で採れる木の実。燻製にした肉。そして、村人たちが互いに助け合うための決まり。
「村の人たちは、自分たちで冬の準備をするのですね」
「はい。領主様からすべてを受け取るのではございません。皆、それぞれの家でできる備えをいたします。領主様は、それだけでは足りないところを確かめ、必要に応じて支えるのでございます」
「みんなで準備をしているのですね」
「そうでございます」
アリアは窓の外へ目を戻した。
冬は、ただ寒くなる季節ではない。
雪が降れば道が閉ざされ、山の獣の動きも変わり、川の水も凍る。人々は、春に再び土を耕せる日まで、長い冬を越えなければならない。
そのために、今から働いているのだ。
二 領地の冬支度会議
その日の午後、エドガーの執務室では、冬支度についての会議が開かれていた。
集まっていたのは、エドガー、アルベルト、レオン、セバスチャン、会計を担当するマティアス、鉱山管理者のヨハン、そしてグレゴール副隊長だった。
机の上には、領地の地図と各村から届いた報告書が並べられている。
「まず、各村の備蓄状況を確認したい」
エドガーが告げた。
マティアスが書類を開く。
「今年は秋の長雨の影響で、穀物の収穫が平年より二割ほど少なくなっております。種籾や来年の種麦を取り分けた後の備蓄は、例年の半分ほどにとどまる見込みです」
「すべての村が同じ状況なのか?」
「いいえ。川沿いの村では比較的収穫が保たれましたが、北側の山麓にある村では、畑の水はけが悪く、被害が大きくなっております」
アルベルトが地図をのぞき込んだ。
「山麓の村は、先日立ち寄った森の村にも近いですね」
「そうだ。あの地域は薪や木材には恵まれているが、畑は広くない。食料を他の村から運んでいる家も多い」
エドガーは地図の上に指を置いた。
「北の道が崩れたことで、砦への輸送だけでなく、山麓の村への物資の運搬にも影響が出る。迂回路を使う場合の輸送量を調べておく必要があるな」
アルベルトが手元の記録を開いた。
「先日の調査では、小型の荷車なら通れる道が確認できました。ただし、一度に運べる量は通常の荷車よりかなり少なくなります。馬の飼料や薪を優先すると、食料の運搬が遅れるおそれがあります」
「ならば、食料を運ぶ荷車と、薪や飼料を運ぶ荷車を分けてはどうでしょう」
レオンが口を開いた。
全員の視線が次男に集まる。
「荷車を分けると、運ぶ回数が増えます。騎士たちが道の途中で護衛するなら、何度も同じ道を往復することになります。雪が降る前に、できるだけまとめて運んだ方がよいと思います」
アルベルトが少し考えた。
「それも一つの方法だ。ただ、食料と薪では必要な量も違う。すべてを一度に運ぼうとすれば、かえって荷車の数が足りなくなるかもしれない」
「では、どちらを先に運ぶべきか、村ごとに決めるのですね」
「そういうことだ」
アルベルトは弟に答えた。
エドガーは二人のやり取りを聞き、静かにうなずいた。
「よい考えだ。輸送の回数だけでなく、村ごとの備蓄と必要量を見て決めよう。レオン、お前はグレゴールとともに、迂回路を使う荷車の護衛について調べてくれ。どれほどの人数が必要になるか、道の危険な場所も確認するのだ」
「はい」
「アルベルトはマティアスと、各村の備蓄と輸送量を整理してくれ。どこに何を届けるべきか、数字で示せるようにするのだ」
「承知しました」
「ヨハンは鉱山の冬支度を進めてくれ。坑道の排水や支柱の点検を怠ってはならない」
「かしこまりました」
会議は、さらに細かな確認へと進んでいった。
アリアはこの場にはいなかった。
七歳のアリアが、まだ領地全体の備蓄や輸送計画を決める立場にないことは当然だった。けれど、父や兄たちが何を学び、何を考えているのかは、後で聞くことができる。
家族それぞれに、今の年齢で担うべき役目がある。
それを急がず、少しずつ身につけていくことが大切なのだ。
三 兄弟が歩く雪道
翌朝、レオンはグレゴール副隊長とともに、北の迂回路を確認するため館を出発した。
同行するのは騎士四名と、荷車を扱う者二名だった。
レオンは厚手の上着を着込み、革の手袋をはめている。腰には訓練用ではない実用の剣を帯びていたが、まだ一人前の騎士として任務を任されているわけではない。
あくまで学びのための同行であり、行動の判断はグレゴールが行う。
「レオン様、道の幅をよく見てください」
グレゴールが言った。
「荷車が通れるかどうかだけではない。馬が足を滑らせたとき、どこへ逃がせるか。荷車が傾いたとき、どこで止められるか。そうしたことも考えるのです」
「分かりました」
迂回路は、山の斜面を避けて森の中を進む細い道だった。
ところどころに岩が突き出し、木の根が地面を這っている。大きな荷車では通れないが、小型の荷車なら、荷を減らせば進むことができる。
レオンは道の幅を確かめながら歩いた。
「ここは、荷車がすれ違えませんね」
「そのとおりです。だから、向こうから別の荷車が来た場合に備えて、待避できる場所を決めておく必要があります」
「道の途中に、荷を置ける場所を作るのはどうでしょう?」
「よい考えです。ただし、置いた荷が雪に埋もれたり、獣に荒らされたりしないようにしなければなりません」
グレゴールは、少し先にある平らな場所を指した。
「このあたりなら、荷車を一台止めておくことができます。だが、周囲の木が倒れないか、斜面から水が流れてこないかも確認するのです」
レオンはうなずいた。
剣の稽古では、相手の動きや間合いを読むことを教わる。
しかし、山道では、相手がいるわけではない。雪や風、岩や木々の変化を読み取らなければならない。
それは、剣術とは違う難しさだった。
一方、アルベルトはマティアスとともに、館の書庫で各村から届いた報告を整理していた。
「こちらの村は穀物の備蓄が少ない一方、乾燥豆は十分にありますね」
「はい。山麓の村では、畑の収穫は少なかったものの、森の恵みを保存している家が多いようです」
「それなら、穀物の多い村から少しずつ融通できないでしょうか」
「可能ではあります。ただし、余っているように見える分も、来年の種や家畜の餌として必要なものかもしれません」
アルベルトは筆を止めた。
「単に余っているかどうかでは判断できないのですね」
「そのとおりです。今の暮らしだけでなく、春に何を残しておく必要があるのか。それも考えなければなりません」
アルベルトは報告書を読み直した。
父から任された仕事は、数字を並べることではない。
数字の向こうにある人々の暮らしを考えることなのだ。
四 小さな学校の冬支度
数日後、アリアはミーナとともに、館の近くにある村の学校を訪れた。
そこは貴族の子供が学ぶ王立貴族学園とは違い、領民の子供たちが文字や数を学ぶための小さな学び舎だった。
建物は木造で、屋根には乾いた草と板が重ねられている。窓は大きくないが、日差しが入るように南側に設けられていた。
教室の中では、十人ほどの子供たちが、木の板に文字を書いていた。
「お嬢様、ようこそおいでくださいました」
教師の女性が迎えてくれた。
彼女の名はイルゼ・シュトラールヴェーク。三十歳ほどで、栗色の髪を後ろでまとめ、青灰色の目をしている。穏やかな声だが、子供たちに向ける眼差しには、確かな熱意があった。
「今日は、子供たちの学びの様子を見たいと聞いております」
「はい。お邪魔してもよろしいですか?」
「もちろんでございます。皆、楽しみにしておりました」
アリアは教室の隅に座り、子供たちの様子を見た。
教師は木の板に数字を書き、子供たちに読み上げさせている。
その後は、簡単な計算だった。
「小麦を三袋持っていて、もう二袋受け取ったら、全部でいくつになりますか?」
「五袋!」
子供たちが声をそろえた。
「では、そのうち一袋を別の家に渡したら?」
「四袋です!」
アリアは微笑んだ。
暮らしに結びついた学び方だ。
文字を覚えることも、数を知ることも、ただ知識を増やすためだけではない。市場で品物を売り買いするときにも、家の蓄えを確かめるときにも役に立つ。
授業の後、子供たちはアリアの周りに集まってきた。
「お嬢様は、文字を全部読めるのですか?」
「まだ勉強しているところです」
「ぼくは、数字が好きです。父さんの荷車に、いくつ荷物を積めるか数えるんです」
「私は、薬草の名前を覚えています」
「私は、お母さんと一緒に布を織るの」
それぞれが、自分の好きなことを話してくれた。
アリアは一人の少女が持っていた小さな木箱に目を留めた。
中には、乾燥させた草や木の実が、いくつかの小袋に分けて入れられている。
「それは何ですか?」
「お母さんと集めたものです。冬に使う草です。名前を書いた札を付けているんです」
少女は、木箱の中から小さな札を取り出した。
そこには、少し歪んだ文字で薬草の名前が書かれていた。
「自分で書いたの?」
「はい。間違えないように、先生に教えてもらいました」
アリアはその札を大切そうに見つめた。
学ぶことは、王都へ行くためだけのものではない。
自分の家族の暮らしを守るためにも、村の仕事を受け継ぐためにも、必要なものなのだ。
五 冬の食卓に並ぶもの
その日の帰り道、アリアはミーナに尋ねた。
「ミーナ。冬の食べ物は、どんなものが多いのですか?」
「地域によって違いますが、干し肉や燻製肉、乾燥豆、保存した根菜、木の実などが多くなります。穀物を挽いて粉にし、パンや粥にすることもございます」
「果物は食べられなくなるのですか?」
「生の果物は少なくなりますが、乾燥させたり、煮詰めたりして保存する方法がございます。蜂蜜を使うこともありますよ」
「お母様の蜂蜜菓子も、冬に作れますか?」
ミーナは、少しだけ表情を柔らかくした。
「もちろんでございます。蜂蜜があれば、いつでもお作りできます」
アリアは、母エレノアが作ってくれた蜂蜜菓子を思い出した。
焼き上がった菓子の甘い香り。指先についた蜂蜜。母が笑いながら、少し冷ましてから食べるように言ってくれたこと。
「今度、一緒に作ってもいいですか?」
「ええ。お嬢様がお望みでしたら、喜んで」
館に戻ると、厨房では冬用の保存食を作る準備が進んでいた。
料理人たちは、肉を塩漬けにするための塩を量り、豆を選り分け、根菜を土の中の貯蔵場所へ運んでいる。
アリアは、塩の入った木箱を見つめた。
「ミーナ。塩は、どこから来るのですか?」
「海辺の塩作りの村から運ばれてきます。海水を煮詰めたり、浅い場所で水分を蒸発させたりして作るそうです」
「山の村でも作れるのですか?」
「海が近くなければ難しいでしょう。ですから、塩は遠くの土地から運ばれてくる大切な品なのです」
アリアはうなずいた。
山の村には木があり、海の村には塩がある。
畑の村には穀物があり、牧場の村には乳や肉がある。
一つの村だけですべてを手に入れることは難しい。だからこそ、村と村を結ぶ道が必要なのだ。
六 山の道を守る者たち
数日後、レオンが北の迂回路から戻ってきた。
頬は冷たい風にさらされて赤くなり、外套には土と枯れ葉が付いていた。
「お帰りなさい、レオン兄様」
「ただいま、アリア」
「山道はどうでしたか?」
「荷車が通れる場所と、通れない場所がはっきりしていた。道幅が狭いところでは、荷を減らさないと危ない。雪が降ったら、もっと難しくなるだろうな」
レオンは手袋を外しながら話した。
「グレゴール副隊長に、見張りの場所も教えてもらった。道を守るには、前だけを見ていてはいけないんだ。山の上や背後にも気を配らなければならない」
「レオン兄様も、いろいろ覚えたのですね」
「まだまだだよ。実際に歩いてみると、地図を見ているだけでは分からないことがたくさんある」
そこへアルベルトもやってきた。
「レオン、報告は済んだのか?」
「ああ。迂回路の状態と、護衛に必要な人数をグレゴール副隊長に伝えてきた」
「こちらも各村の備蓄を整理した。今のところ、すぐに食料が尽きる村はない。ただし、雪が長く続けば、山麓の村を優先して支える必要がある」
「薪は?」
「森の村では十分に確保できている。ただ、運ぶ道が限られる。食料と薪を同じ荷車で運ぶか、分けるかは、まだ検討中だ」
レオンは兄の記録板をのぞき込んだ。
「村ごとの必要量を考えると、どちらがよいんだ?」
「それを今、マティアスと調べているところだ。荷車の大きさや回数だけでなく、村の人々がどこまで自分たちで運べるかも確かめる必要がある」
「なるほどな」
二人の兄は、互いの話を聞きながら考えを深めていった。
アリアは、その様子を見つめていた。
兄たちは、同じ仕事をしているわけではない。
アルベルトは、領地全体の物資と人々の暮らしを考えている。
レオンは、道を歩き、危険を確かめ、人々を守る方法を学んでいる。
そして自分は、まだ学び始めたばかりだ。
けれど、いつか自分にもできることがあるかもしれない。
そう思うと、胸の奥に小さな灯がともるようだった。
七 父が語る冬の意味
その夜、エドガーは子供たちを食堂に集めた。
暖炉には薪がくべられ、部屋には焼きたてのパンと煮込み料理の香りが満ちている。
食卓には、鹿肉と根菜の煮込み、豆のスープ、焼いたパン、乾燥果実を戻した甘い添え物が並んでいた。
「今年は、いつもより冬の備えが大切になる」
食事の途中、エドガーが口を開いた。
「秋の長雨で、穀物の収穫が少なかった。北の道も崩れた。だが、今のうちに備えを整えれば、冬を越すことはできるだろう」
アルベルトが尋ねた。
「領地の備蓄は、どれほど使えるのですか?」
「すべてを村に配るわけにはいかない。砦の兵士たちにも食料が必要だし、急な災害に備えて残しておく分もある。どこか一つに多く配れば、別の場所が足りなくなることもある」
「だから、必要な量を調べるのですね」
「そうだ。領主の務めは、蓄えを持っていることだけではない。何が足りないのかを知り、必要なところへ届くようにすることだ」
レオンが尋ねた。
「もし雪で道がすべて塞がれたら、どうするのですか?」
「そのために、冬が来る前に物資を運ぶ。砦にも村にも、一定の備蓄を持たせる。さらに、道が閉ざされた場合の連絡方法や、救助に向かう手順も決めておく」
「騎士たちだけで守れるものではないのですね」
「そうだ。騎士は人々を守るためにいる。だが、騎士だけでは何もできない。道を知る者、食料を作る者、物を運ぶ者、道具を直す者。皆がいなければ、領地は成り立たない」
エドガーは、アリアにも目を向けた。
「アリア。お前は今日、村の学校へ行ったそうだな」
「はい。子供たちが文字や数字を学んでいました。薬草の名前を書いている子もいました」
「そうか。学ぶことは、誰かに認められるためだけのものではない。自分の暮らしを守り、誰かを助けるためにもある」
アリアは、父の言葉を心に刻んだ。
前世の記憶を持つ自分には、知っていることがある。
けれど、この世界には、まだ知らないことがいくらでもある。
この土地で生きる人々の知恵を知らずに、前世の知識だけを振りかざしても、本当に役立つとは限らない。
まずは学ぶこと。
人々の暮らしを知り、彼らの経験に耳を傾けること。
それが、今の自分にできる一番大切なことなのだろう。
八 雪の向こうに続く道
夜が更けるころ、アリアは自室の机に向かっていた。
ローレンツから教わった文字の練習を終え、小さな羊皮紙に今日の出来事を書き留めている。
まだ文字は少し不揃いで、長い文章を書くには時間がかかる。
それでも、今日見たものを忘れないように、一つずつ書いていった。
山道のこと。
村の学校のこと。
冬の食べ物のこと。
そして、アルベルトとレオンが、それぞれ違う方法で領地を守ろうとしていること。
書き終えたアリアは、窓の外を見た。
遠くの山には、また新しい雪が降り始めているようだった。
白い雪は、山の道も森も、村々の屋根も、すべてを静かに包み込んでいく。
けれど、その雪の下では、人々の暮らしが続いている。
薪を蓄える者がいる。
食料を分け合う者がいる。
道を守る者がいる。
そして、遠くの村へ物資を運ぶために、寒さの中を歩く者たちがいる。
アリアは、銀の狼の紋章を見つめた。
「お父様やお兄様たちのように、私もこの家のお役に立てるようになりたいな」
小さな声は、暖炉の残り火が揺れる部屋に溶けていった。
そのとき、胸の奥に、ほんのかすかな温かさを感じた。
ただ、遠い場所にいる人々の暮らしを思い浮かべ、その無事を願った。
アリアは、その不思議な感覚を確かめるように胸元へ手を添えた。
まだ名前のない小さな願い。
それがいつか、彼女の中に眠る特別な力と結びつくことになるのかどうか。
今は、誰にも分からない。
窓の向こうでは、雪が静かに降り続いていた。
そして、北境の村々へ続く道は、冬を越える人々の手によって、少しずつ守られていくのだった。




