↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空を翔ける辺境令嬢 ― 漆黒の瞳に映る、新しい世界 ―  作者: さざ波和音


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/29

第八章 雪原に響く狼煙 ― 北境に迫る小さな異変

 一 北の山を描く朝

 冬の気配が深まりつつある朝、ヴァルデン家の館には、山から吹き下ろす冷たい風が届いていた。


 窓の外では、木々の葉が少しずつ色を失い、遠くの山並みには薄い雪が残っている。


 アリアは朝食を終えると、ローレンツの待つ書斎へ向かった。


 この日の授業は地理だった。


 大きな羊皮紙の上には、ヴァルデン家の領地を描いた地図が広げられている。山脈、河川、森林、村々、そして北の国境へと続く道が、細い線で記されていた。


「先生。この道は、ずっと北の砦まで続いているのですか?」


 アリアが地図の北端を指さした。


「はい、お嬢様。北の山道を越えれば、シュタインヴァルク砦へ至ります。ただし、一本道ではございません。山の斜面を避ける道、谷を通る道、荷を運ぶための道など、いくつもの道がございます」


「どうして、そんなにたくさん必要なのですか?」


「山道は、雪や雨、土砂崩れによって通れなくなることがあるからです。一つの道が閉ざされても、別の道を使えるようにしておかなければなりません」


 ローレンツは地図の上に小さな木片を置いた。


「このあたりは山の尾根が狭く、片側が深い谷になっています。冬には凍った土が緩み、岩や土が崩れることもございます」


 アリアは地図を見つめた。


 前世の記憶には、山道の崩落や凍結による事故についての知識が残っている。しかし、目の前にある山の地形も、この世界の土や岩の性質も、まだ十分には知らない。


 知識を持っていることと、実際に理解していることは違う。


 それをアリアは、少しずつ学び始めていた。


「先生。道が崩れたら、そこを通る人だけでなく、砦にいる人たちも困りますね」


「そのとおりです。砦には食料も薪も武具も必要です。道を守ることは、兵士たちの命を守ることにもつながります」


「道も、国を守っているのですね」


 ローレンツは穏やかにうなずいた。


「よいところに気づかれました。城壁や剣だけが、国を守っているのではありません」


 そのとき、書斎の扉が控えめに叩かれた。


 入ってきたのは、家令のセバスチャンだった。


「ローレンツ先生。エドガー様がアリア様をお呼びでございます。北の見張り所から知らせが届いたとのことです」


 ローレンツの表情が少し引き締まった。


「承知いたしました。アリア様、本日の授業はここまでにいたしましょう」


「北の見張り所から、何かあったのですか?」


「詳しいことは、まだ分かりません。エドガー様からお話しがあるでしょう」


 アリアは地図の北端をもう一度見た。


 先ほどまで紙の上に描かれていた山道が、急に現実のものとして感じられた。


 二 家族に届いた知らせ

 エドガーの執務室には、すでにアルベルトとレオンが集まっていた。


 アルベルトは十五歳。長男として領地経営や軍事について学び、父の仕事を少しずつ手伝っている。


 レオンは十三歳。まだ一人前の騎士ではないが、日々騎士団の訓練に加わり、剣術や馬術を身につけていた。兄よりも身体を動かすことを好み、北境の守りについても強い関心を持っている。


 二人は年齢こそ違うものの、それぞれの立場で家の務めを学んでいた。


 エドガーは机の上に置かれた報告書を開いた。


「北のシュヴァルツグラート付近で、山道の一部が崩れたらしい」


「敵襲ではありませんか?」


 アルベルトが尋ねた。


「今のところ、その兆候はない。見張り所からの報告では、夜明け前に斜面の一部が崩れ、道が塞がれたとのことだ。人や馬が巻き込まれたという知らせはない」


「砦への物資は、届いているのですか?」


「崩れた場所より手前で、荷車が二台止まっている。迂回路を使えるかどうか、現地で確かめる必要がある」


 レオンが身を乗り出した。


「父上、俺も連れて行ってください。騎士団の訓練だけでは、山道で何が起きるのか分かりません。実際に見て覚えたいです」


 エドガーは次男を見つめた。


「行くつもりだ。ただし、お前は現場で勝手に動いてはならない。グレゴール副隊長の指示に従い、道の状態や見張りの配置をよく見ておけ」


「はい」


「アルベルトも同行する。お前には、物資の輸送と砦の備蓄について確認してもらう。道が通れなくなったとき、何が不足するのか、どれほどの期間なら持ちこたえられるのかを考えるのだ」


「承知しました」


 そのとき、セバスチャンに案内されてアリアが入ってきた。


「お父様。北の道で何かあったのですか?」


 エドガーは娘の方へ顔を向けた。


「山道の一部が崩れたらしい。これから現地を見に行く」


「私も行ってはいけませんか?」


 アルベルトとレオンが同時に妹を見た。


 エドガーはすぐには答えなかった。


「アリア。山は危険な場所だ。崩れた斜面に近づくことはできない」


「分かっています。でも、先生に地図を教えていただいたばかりです。実際の山道を見れば、もっとよく分かると思います」


「見学するなら、安全な場所からだ。現場の作業には近づかない。それを守れるか?」


「はい」


「ならば、グレゴールとミーナを付けよう。私たちが安全を確かめた場所から見るだけだ」


 レオンは妹の方へ向き直った。


「アリア。山は館の庭とは違うぞ。石も転がってくるし、足元も悪い。俺の近くを離れるなよ」


「レオン兄様だって、グレゴール副隊長の言うことを聞くのでしょう?」


「もちろんだ。俺は訓練中だからな」


「それなら、私も約束を守ります」


 そのやり取りに、アルベルトが小さく笑った。


「レオン、妹に心配されているぞ」


「兄さんまで」


 執務室に、ほんの少しだけ明るい空気が戻った。


 エドガーは三人の子供たちを見渡した。


 長男には領地を治める目を、次男には守る者の目を、そして末娘には世界を知ろうとする目を育ててほしい。


 それぞれの学びは違う。だが、どれもヴァルデン家が受け継いできた務めにつながっていた。


 三 雪の下に隠れた亀裂

 一行は昼前に北へ向かった。


 エドガーとアルベルト、レオン、グレゴール副隊長、数名の騎士、そしてアリアとミーナが同行する。


 アリアたちの馬車は、騎士たちに守られながら、ゆっくりと山道を進んだ。


 北へ向かうほど、木々の枝には雪が残り、日陰の道には薄い氷が張っていた。


 やがて、シュヴァルツグラートへ続く山道の手前に着いた。


 そこには、荷車が二台、道を塞がれたまま止まっていた。


 荷を運んできた人々は、騎士たちの指示に従って、安全な場所で待機している。


「崩れたのは、あの斜面です」


 グレゴールが指さした先には、山肌の一部が大きく削れた場所があった。


 土と岩が道の上に流れ落ち、ところどころに折れた木の根が見えている。


 アリアは馬車を降りず、騎士たちが安全を確認した場所から、その斜面を見つめた。


「思ったより、広く崩れていますね」


 アルベルトが答えた。


「表面だけが落ちたのではなさそうだ。斜面の上にも亀裂がある」


「近づいて確かめる必要があります。ただし、まずは山に詳しい者に見てもらいましょう」


 グレゴールの言葉に、エドガーがうなずいた。


 そこへ、山道の管理を手伝っている案内人がやってきた。


 名をエッカルト・ベルクシュタインという。五十を少し過ぎた男で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。灰色の髭を短く整え、厚手の毛皮の外套を着ている。腰には山仕事用の斧、肩には丈夫な縄を掛けていた。


「エドガー様。斜面の上にも細い割れ目が見えます。まだ崩れるおそれがあります」


「原因は分かるか?」


「おそらく、凍った土が緩んだのでしょう。夜の冷え込みで土の中の水が凍り、昼に少し暖まって融ける。それを繰り返すと、岩の隙間も土の間も広がります。そこへ雨や雪解け水が入り込めば、斜面が耐えられなくなることがあります」


「木の根は支えにならないのか?」


 アルベルトが尋ねた。


「なります。ですが、どんな木でもよいわけではありません。根の張り方も違いますし、土地に合わない木を植えても、うまく根づかないことがあります。それに、崩れた斜面へ急いで人を入れるのは危険です」


 エッカルトは斜面を見上げた。


「まずは上の亀裂がどこまで続いているか、安全な場所から調べることです。そのあと、水の流れを確かめ、土を留める方法を考えます」


 レオンはその話を真剣に聞いていた。


「剣を持った騎士がいても、山そのものが崩れては守れないんだな」


「そのとおりです」


 グレゴールが答えた。


「騎士は敵と戦うだけが務めではありません。道を守り、人々を安全に通し、必要ならば救助にもあたります。山を知る者の話を聞くことも、守りの一つです」


 レオンはうなずき、斜面の様子を目に焼きつけるように見つめた。


 アリアもまた、崩れた土の色や、根の露出した木々、水の流れた跡を見ていた。


 前世の知識に、土砂崩れや凍結融解という言葉はあった。しかし、目の前の山の崩れ方を見て、その言葉だけでは足りないと感じた。


 この土地には、この土地の気候がある。


 この山には、この山の岩と土がある。


 それを知るには、ここで暮らしてきた人々の知恵を学ばなければならない。


 四 兄たちが学ぶ守りの仕事

 現場の確認が始まると、アルベルトとレオンは、それぞれ異なる役目を与えられた。


 アルベルトは、荷車の積み荷と砦の備蓄について、輸送を担当する者から話を聞いた。


 運ばれていたのは、穀物、干し肉、豆、薪、馬の飼料、それに武具の修理に使う資材だった。


「この荷が届かなければ、砦の備蓄はどれほど減りますか?」


「今すぐ困るほどではございません。しかし、この先も道が塞がれれば、薪と馬の飼料が先に不足するかもしれません」


「迂回路を使うことはできますか?」


「細い道ならあります。ただ、大きな荷車は通れません。小さな荷車に積み替えるか、人が背負って運ぶ必要があります」


 アルベルトは記録板に数字を書き留めた。


「小さな荷車なら何台必要ですか。人が運ぶ場合は何人で、どれくらいの日数がかかりますか。馬の飼料は一日にどれほど必要でしょう?」


 問いは具体的だった。


 荷を届けることだけを考えるのではない。人と馬の負担、道の状態、日数、途中の休息場所。それらをすべて考えなければ、輸送の計画は立てられない。


 一方、レオンはグレゴールと騎士たちに付き添い、見張りの配置や周囲の地形を確認していた。


「この場所なら、道を見渡せますね」


「そうだ。だが、見渡せる場所が必ずしも安全とは限らない。背後に身を隠せる岩があるか、退く道があるか。敵が来た場合だけでなく、雪崩や落石が起きた場合も考えるのだ」


「はい」


「お前は剣の腕を磨いている。それは大切だ。だが、剣を抜かずに済むように周囲を見ておくことも、騎士の務めだ」


 レオンは足元の石を確かめ、見張り場所から退く方向を見た。


 十三歳の少年には、まだ覚えることが多い。


 それでも、父や兄の後ろを歩くだけではなく、自分の目で見て、自分の頭で考えようとしていた。


 少し離れた安全な場所では、アリアがミーナとともに待っていた。


「アルベルト兄様は、荷物のことを調べているのですね」


「はい。アルベルト様は、領地の物資やお金の流れを学んでおられますから」


「レオン兄様は、騎士のことを」


「はい。レオン様は騎士団の訓練にも参加しておられます。今日のような現場も、よい学びになるのでしょう」


「みんな、違うことをしているけれど、同じものを守っているのですね」


 ミーナは微笑んだ。


「ヴァルデン家の方々だけではございません。山道を知る人、荷を運ぶ人、砦を守る人、村で食べ物を蓄える人。皆がそれぞれの務めを果たしているのです」


 アリアは、兄たちの姿を見つめた。


 銀の狼の紋章が意味するものを、少しずつ理解しているような気がした。


 五 迂回路と森の知恵

 現地の調査を終えたエドガーたちは、まず砦への物資を届ける方法を決めた。


 崩れた斜面の修復には時間がかかる。無理に岩や土を取り除けば、さらに崩れる危険がある。


 そのため、しばらくの間は細い迂回路を使い、荷車を小型のものに替えることになった。


 運べる量は減るが、砦の備蓄を確認しながら、必要なものを優先して届ければ、当面の不足は避けられる。


「薪と馬の飼料を先に回しましょう。食料は砦にも備蓄がありますが、寒さが強まれば薪の消費が増えます」


 アルベルトが提案した。


「よい判断だ。ただし、村の備蓄を無理に取り上げてはならない。こちらから補えるものは補い、村の暮らしを損なわぬようにする」


 エドガーはそう告げた。


 帰路の途中、一行は山麓の森の村に立ち寄った。


 村の人々は、冬に備えて薪を束ね、木の実や豆を乾燥させ、肉を燻して保存していた。


 村をまとめているのは、マティルデ・ホルツヴァルトという五十歳ほどの女性だった。灰色の髪には木の枝を削った留め具を挿し、深い緑色の衣を着ている。穏やかな物腰だが、森のことを語るときには、迷いのない強さがあった。


「森の木をすべて切ってしまえば、来年の薪にも困ります。木を切ったあとは、若い木が育つ場所を残しておくのです」


 エドガーが尋ねた。


「獣の住む場所も考えているのか?」


「もちろんです。木の実を食べる獣がいなくなれば、森の姿も変わります。水の流れも変わるでしょう。森は木だけでできているのではありませんから」


 アリアはその言葉を聞いていた。


「マティルデさん。木を切る場所は、どうやって決めるのですか?」


 マティルデは小さな令嬢に目を向けた。


「木の育ち方を見ます。古い木ばかりが詰まっているところもあれば、若い木が育っているところもあります。風の通り道や、水の流れる場所も見ます。森を歩いて、毎年の変わりようを覚えておくのです」


「森も、ずっと見ていないと分からないのですね」


「そうですとも。昨日まで元気だった木が、今日は倒れていることもあります。山も森も、人が思うよりずっと多くのことを教えてくれますよ」


 村の貯蔵小屋には、豆や穀物、干し肉、乾燥させた果物が蓄えられていた。


 それは村の人々が、冬の食料として少しずつ備えてきたものだった。もし急な災害や病が起きたときには、村の者同士で分け合う。


 返せるときには返す。返せないほど困っている者には、無理に返済を求めない。


 そうした決まりは、村の暮らしの中で長く受け継がれていた。


「この冬は、いつもより備えが少ないと聞いている」


 エドガーが尋ねると、マティルデは正直に答えた。


「秋の長雨で、穀物の実りがよくありませんでした。それでも、皆で少しずつ蓄えております。ただ、村だけでどこまで持ちこたえられるかは、雪の降り方次第です」


「領地の備蓄から補える分を調べよう。ただし、領地の蓄えにも限りがある。村の分と砦の分を合わせて、どこに何が必要かを確かめる」


「ありがとうございます。けれど、ほかの村にも必要なものがあるでしょう。私たちだけが多く受け取るわけにはまいりません」


「分かっている。だからこそ、皆の状況を調べるのだ」


 エドガーの言葉に、マティルデは深く頭を下げた。


 アリアは、村の人々が互いのことを気にかけている様子を見つめた。


 助け合うというのは、ただ何かを与えることではない。相手の暮らしを知り、自分たちにできることを考え、無理のない形で支え合うことなのだろう。


 六 狼煙が伝えた知らせ

 夕暮れが近づくころ、一行は北の見張り所からの知らせを受け取った。


 崩落地点の周囲を確認した結果、斜面の亀裂はさらに上まで続いていることが分かった。そのため、修復作業は一時見合わせ、山に詳しい者と土木作業に携わる者を集めて、安全な方法を検討することになった。


 一方、迂回路を使った物資の輸送は始まっていた。


 荷車の大きさを変え、荷を分け、人と馬の負担を考えながら、少しずつ砦へ運んでいる。


 見張り所からは、砦に必要な薪と飼料の一部が届いたという知らせも入った。


 狼煙が夕空に細く立ち上る。


 それは敵襲を告げるものではなかった。


 道が崩れたこと、迂回路を確保したこと、物資が届いたこと。それぞれを伝えるための合図だった。


「狼煙は、遠くからでも見えるのですね」


 アリアが言った。


「はい、お嬢様。声が届かない距離でも、火と煙なら知らせを届けられます」


 グレゴールが答えた。


「遠くにいる人と、目に見えないところで話をしているようです」


「そう考えることもできますな。ただし、煙の形や数、上げる場所には決まりがあります。誰にでも分かるようにしておかなければ、大切な知らせを間違えてしまいます」


 アリアは空に消えていく煙を見上げた。


 遠くを見る力があれば、あの山の向こうを見られるのだろうか。


 そんな考えが、ふと胸をよぎった。


 今のアリアにできるのは、自分の目で見えるものをよく見て、人々の言葉を聞き、一つずつ知っていくことだった。


 七 兄妹それぞれの学び

 館へ戻る馬車の中で、レオンは今日見た山道のことを話していた。


「斜面の上にも割れ目があった。あそこへ騎士が近づけば、もう一度崩れるかもしれない。グレゴール副隊長は、まず退く道を決めてから見張りの場所を選べと言っていた」


 アルベルトも記録板を見ながら答えた。


「迂回路では、一度に運べる荷が少なくなる。だから、何を先に運ぶかを考えなければならない。砦の備蓄がどれだけ残っているかも調べる必要がある」


「兄さんは、数字ばかり見ていたな」


「数字を見なければ、何が足りないのか分からないだろう」


「俺は実際に道を歩いてみた。荷車が通れるかどうかは、地図だけでは分からない」


「どちらも必要ということだ」


 二人の会話を聞きながら、アリアは微笑んだ。


「私も、山と森のことをもっと知りたいです。木の根が土を支えることも、森の木を全部切ってはいけないことも、今日初めてよく分かりました」


 レオンが妹を見た。


「アリアは、何でも知りたがるな」


「知らないことが、たくさんあるからです」


「俺だって、今日初めて分かったことがある。剣を使うだけでは、騎士の務めを果たせないんだな」


 アルベルトがうなずいた。


「領地を守るには、道も森も食料も必要だ。どれか一つが欠けても困る」


「そして、それを支えているのは、そこに暮らす人々だ」


 エドガーが静かに言った。


「我々が守るのは、城や砦だけではない。山で働く者、森を守る者、畑を耕す者、家族を養う者。その一人ひとりの暮らしだ。それを忘れてはならない」


 三人の子供たちは、それぞれの思いを胸に、父の言葉を聞いていた。


 八 銀の狼が見守る夜

 夜、アリアは自室の窓辺に立っていた。


 遠くの山は闇に沈み、頂の雪だけが月明かりを受けて、かすかに白く浮かんでいる。


 今日見た崩れた斜面、森の村の人々、迂回路を進む荷車、そして北の見張り所から上がった狼煙。


 それらが、アリアの心の中で一つにつながっていた。


 館の壁に掛けられた銀の狼の紋章が、月明かりを受けて静かに輝いている。


 銀の狼は、一頭だけで山を越えるのではない。


 群れの仲間を気にかけ、弱った者がいれば歩みを緩め、危険が迫れば互いに知らせ合う。


 それがヴァルデン家の誇りなのだと、アリアは思った。


 やがて扉が開き、レオンが顔をのぞかせた。


「まだ起きていたのか?」


「今日のことを考えていました」


「山道のことか?」


「はい。それから、村の人たちのことも」


 レオンは窓の外を見た。


「俺は、いつか北の砦を任されるような騎士になりたい。そのために、もっと剣を学ぶし、山のことも覚える」


「きっとなれます」


「簡単にはいかないぞ」


「分かっています。でも、レオン兄様なら大丈夫です」


 レオンは少し照れたように笑った。


「アリアも、先生にしっかり学べよ。山のことを知りたいなら、地図も読めなければならないし、言葉も数字も必要だ」


「はい。アルベルト兄様のように数字を見て、レオン兄様のように周りを見て、私も学びます」


「欲張りだな」


 二人の笑い声が、静かな部屋に小さく響いた。


 その夜、北境に大きな戦は起きなかった。


 けれど、一つの道が崩れたことで、人々は山の恐ろしさを知り、森を守る知恵を学び、物資を運ぶ工夫を重ねた。


 そして、アリアは気づき始めていた。


 国を守るということは、大きな戦に勝つことだけではない。


 明日も誰かが畑を耕せること。子供たちが温かな食事を囲めること。山道を通る者が無事に帰れること。


 その当たり前の暮らしを、一つずつ守り続けることなのだ。


 銀の狼が見守る北境の夜は、静かに更けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。