手紙
嵐が来た。
小さな雨粒から、一足飛びに突然雨が襲い掛かる。
いつもそうだ。
通りの人々が、襲いかかる風で研がれて鋭くなった雨粒から逃げ惑う。
ルカは、宿の窓から、通りの人々が居なくなるのを見つめていた。
雨が打ち込み、床に水たまりを作り始めたころ、ようやく雨戸を閉めにかかった。
ルカの髪は雨に濡れ、重く体にのしかかっていた。
廊下の奥の用具入れから厚手の布を取り出すと、部屋の水たまりを、かがんで拭き始めた。
拭けばそこに、髪からしずくが落ちて、また水が床を濡らす。
ルカは繰り返し、床を拭った。
ようやく部屋の床を拭き上げたころには、ルカの髪の雨水も、あらかた落ちていた。
布を取り出すと、布で髪を絞った。
手入れをしていないから、長くなりすぎている。
ナイフを取り出すと、適当な長さで切り落とそうとしたが止めた。
みんな、金をだして切ってもらっている。
通りで見かけた髪飾りをした女を見た。
幾らするんだろう。でも、斬るのに邪魔だ。
みんな、髪の手入れはするが、髪飾りはしない。
暗闇に居たら、光を反射するかもしれない。
それに、誰かに見てもらう訳でもない。
ルカは部屋の隅に座ると、外套を被り込んでランプに灯りをともした。
懐からティファニアからの手紙を取り出して、見つめ始めた。
風が雨戸の隙間から音を立てて入り込み、大粒の雨が屋根に叩きつけられる。
ルカが目を閉じて手紙をしまおうとしたとき、突然、外套をはぎ取られた。
目の前には、ずぶ濡れになっているアリアがいた。
気付かなかった。
「案外、灯りは洩れるものよ」
アリアは、そう言いながらルカに外套を返した。
ルカは手紙を懐にしまい込むと、廊下の方を見つめた。
「入っていいよ」とアリアが言うと、女が現れた。
「ナタリアと言います。皆さんの補助役です。よろしくお願いいたします」
と、ルカに挨拶した。
ルカは、ナタリアに、変な臭いがすると言った。
「薬の心得もあります。体調が芳しくないときは、ご相談ください」
そう言った瞬間、アリアの右手がナタリアの首を鷲掴みにすると、そのまま体を釣り上げた。
ナタリアはアリアの手から逃れようとするが、そうすれば、そうする程、アリアの指が食い込んでくる。
不意にアリアの手が緩むと、ナタリアは床に崩れ落ちた。
大きく咳き込み、息をするの精一杯だ。
アリアは「毒は?」と聞いた。
ナタリアは、やっと呼吸が整ってきだした。そして、絞り出すように答えた。
「皆さんを毒から遠ざけるように言われました」
「使うのか」と問われると、咳き込み、壁をもたれかかりながら立ち上がり言った。
「あなたたちも、斬れと言われれば斬るでしょ」
「私は間者の心得があるだけで、本当は薬士よ。毒と薬は表裏一体。だけど、人のために使いたいわ」
そして、薬士の全員が思っていると、付け加えた。
アリアは「悪かったね。自己紹介されたときに聞くべきだったよ」
ナタリアは、どういたしまして、と言った。
アリアはルカの頭を撫でてやった。
ミストラがリリスの部屋を出たのは、夜も更けたころだった。
あんなに、体のそこかしこに入れ墨があるとは思わなかった。
リリスが要求するままに、金を払っていたら、財布が空っぽになった。
だが、新しい資料が出来たのはうれしい。
もしかしたら、私は南方人の入れ墨の第一人者になれるかもしてない。そう思えば安いものだ。
宿の外に出ると、雨と風が吹き荒れていた。気付かなかった。
アリアは資料を外套に包むと、宿に走り出した。
宿に着くと、資料を背嚢の奥深くにしまったところで安堵した。
良かった。濡れずに済んだ。赤い髪は水に濡れ、顔に体にべっとりと張り付いている。
髪をかき分け、部屋を見回すとルカがいない。もしかしたら、もうアリアが来たのか。
ミストラは、すでにずぶ濡れの体に、外套を纏って嵐の中を、アリアの宿に向かった。
ミストラが宿に着くと、やはりアリアは着いているようだった。
馬が繋いであるが、ぐったりとしている。
寄り道せずに来たか。奇跡だ。
部屋に入ると、アリアとルカ。そして見慣れない女がいる。
「補助員のナタリアです。よろしくお願いいたします」
ミストラは、ナタリアの首にとんでもないアザだあるのに気付いた。
絶対にアリアの仕業だ。かわいそうに。
ミストラは、ナタリアに、励ましの言葉を贈った。
アリアはミストラを見るなり、腹が減ったから何か買って来いと言った。
通りの端にある酒場から、灯りが漏れていた。
嵐のせいで、明日の仕事にありつけない連中が飲んだくれている。何かあるだろと。
ミストラは、研究費に使ったから金がないと言った。
何を言っているんだ。
アリアはルカを見て「お腹が減ったの」と、ルカに微笑みかけた。
ルカは、「嫌です。外は嵐で、髪が渇いたばかりだし」と、アリアの目を見据えて、毅然とした態度で言った。
こいつ、強くなっている。
旅になんて行かせるんじゃなかった。
ナタリアが、自分が行くと申し出た。
首のアザを隠すように外套の襟を立て、部屋を出た。
ミストラはアリアに、
「薬士だって。必要になるだろうって、グリンデルあたりが付けたんだろうね」
アリアの言葉を聞いたミストラは、彼女の言葉が意味するところを、一瞬で理解した。
薬士が表に出ることは無い。なら、彼女の出番があると言う事だ。
剣士の連中は、薬士を山野で草をむしっている連中と揶揄する。
しかし、丸薬に軟膏、傷の縫合方法の手引き、強くなるための食事の在り方を確立したのは、彼女たちだ。
嘘か誠か、切り離された腕や足をつなげる術を研究しているとも言う。
歩く国家機密だ。
そんな者に、嵐のなか食事を買ってこさせるアリアが恐ろしい。
ナタリアが帰って来た。少しの硬いパンと干し肉。それに、温かいスープを買ってきた。
スープだけは多かった。
こんな季節でも雨で体が冷える。スープは多目に買って来たそうだ。
ミストラは、ナタリアの気遣いに感謝した。
そして、未知の知識を蓄えているナタリアにと、仲良くなりたい。出来れば、その知識の一部でも知りたい。
ミストラはアリアに、
「ありがとう。アリアの事なんて言う事無いのよ」
そう言うと、乾いた布を差し出し、濡れた髪を体を拭くように言った。
ナタリアは、ありがとうと言うと、
「国を出るときにミストラさんには、近づくなと言われました。優しくしても何も出ませんよ」
そう言うと、ミストラに優しく微笑みかけた。
アリアは、監査室の隅で書類に埋もれていた彼女が、危険人物とは知らなかった。