旅立ち
ルカは旅支度終えて、馬に乗った。新しい外套を纏っていた。
アリアからの贈り物だった。少しくすんだ色で、汚れが目立たず森に入っても気づかれにくい。そして、丈夫な布で作られ、遠くか射られた矢くらいなら通さない。
アリアが職人の工房に、一週間通ってルカ専用にあつらえさせた物だ。
快晴で少し暑かったが、風は乾いて冷たく、心地よかった。
木々の葉は厚くなり、緑を蓄え始めていた。
新しい外套は、日を浴びて風になびいた。
あの一件から国に帰ると、剣技を基本から訓練しなおした。
剣は間者の女から渡された。
前の剣よりわずかに厚く、暗い色をしていた。刀身は大剣の一撃を、折れることなく柔らかく受け流し、刃は岩を打っても容易に欠けず、血は張り付かず、自ら落ちてゆく。闇夜では満月の明りをも映さない。
間者の女は、お前には過ぎたものだ言っていた。
同時に、間者の女から潜伏や浸透し方、暗器の使い方の手ほどきを受けた。
一か月もすると、熟練者と同じレベルに達した。
相変わらず、虚言を弄することは苦手のようだったが、アリアは、ルカらしいと思った。
アリアは、自分の子供を見送るような気分でいた。わが子はまだ小さく、親離れは当分ない。
あと一回は、子を見送らなければならない。
剣に飲み込まれる。
間者の女が言った言葉だ。ルカの強さは天性のものだ。二年間。度々、彼女の剣術を間近にみて思った。彼女は剣を何かの道具としてみて、斬ることが食事をすることと同じに思っているように感じた。
人を斬ることへの覚悟がない。
彼女と彼女の母に、何があったかは知らない。
しかし、あの雨の日のルカの言葉を聞いて、剣をもって覚悟というものを教えよう。そう決断した。
そして、剣を交えるときには、ルカにアリアは斬られることを覚悟していた。
アリアは覚悟をもって、ルカに迫っていた時、ルカを斬りたくないと思った。剣を交えながら、いつ剣を止めるか迷っていた。彼女が斬られるということを、どう受け入れるべきかを教えるために、剣を振るっていた。
彼女が剣を振るのを止めるのを待った。
賭けだった。
彼女が斬られることを受け入れなければ、動かなくなるまで、手を足を切り刻んでいた。彼女の剣から力が感じられなくなって、涙が頬を伝うのをみたとき、これで終わったと思った。
そして、剣を落として力なく座り込んで、声をあげて泣くルカをみて、抱きしめたくなった。
ごめんなさい。痛かったでしょう。そう言いたかった。
わが子と夫が待つ家があるのになぜ、そんな無茶をしたのか、自分でも分からない。
でも、今はやってよかったと思っている。
ルカは静かに、アリアを見ていた。
見送るのは、アリア一人だった。一応、極秘任務だ。
王都から少し離れた平地に作られた、ルカ専用の教場から裏門を出ると、街道につながる細い道がある。そこから山を越えてると、東方へ延びる街道に出る。
ルカは、さよなら。ありがとうと言うと、アリアは、行ってきますっていうんだよと、ルカに言った。
ルカは少し頬を赤らめて、行ってきますと、小さな声で言った。
そうして、ルカは旅立っていった。一度も振り向かずに。
文官棟の屋上に、初老の男が立っていた。眉間に深い皺をよせ、遠くの馬に乗った少女を見つめていた。
彼女の旅は、母の呪縛を打ち払う旅だ。それを成すとき、彼女は剣聖にまで登り詰め、この国の将来を明るく照らす存在になるだろう。
しかし、生まれたばかりのルカを優しく抱いた母と、泣き始めたルカに戸惑う友の姿を思い出していた。
ルカが誰かと一緒になり、子を産み、剣と無縁な一生を幸せに過ごす。
もし、そんな選択肢があるなら、そうしてほしいと願った。
初夏の風が、荒野の田園の緑を優しく撫でていた。