雨宿り
頬の傷が少しかゆい。少女は頬の傷を優しく撫でていた。少女は剣を帯びていた。鞘は刀身をかたどるように、わずかに弧を描いていた。
雨が降り始める前には、傷がかゆくなる。
前日に立ち寄った町で買った地図では、この先に小さな宿場があるはずだった。東国の都市まで、まだ遠い。急ぎたい。しかし、大雨になれば、その先の川が増水し橋の手前で野営することになる。無駄に体力を使いたくない。
そう考えて、小さな宿場に泊まることにした。まだ時間はある。小雨が降りだし、少女の黒髪にとまとわりつく。そして、髪の艶は増した。外套のフード深くかぶると、馬の歩速をあげて宿場に向かった。
途中で、二頭立ての仕立ての良い馬車と戦士の集団が追い越して行った。
馬車の先頭と側面、後尾に一名ずつ、白い甲冑の騎士と思しき者が護衛していた。先頭の騎士は老人に見えた。後尾の騎士はやけに小柄だった。後ろの五名は傭兵だろうか。装備が皆違う者たちが、雑然と駆けていた。馬車の中は伺い見ることは出来なかったが、地方領主の関係者だろう。
雨が強くなり始めていた。剣士の少女が宿場に着くと、厩舎で揉めている男たちが見えた。
馬を引いて近づくと、馬が休ませる場所がないと、世話人に抗議している様子だった。
厩舎を覗くと、例の馬車と馬が二頭いた。馬車と馬が居なければ、六頭は入るだろう。
連れていた騎士と傭兵の馬も考えると、この厩舎全体が貸し切り状態だった。
少女はあたりを見渡した。宿場の裏まで見ると、厩舎の屋根と大樹の枝が重なって、雨が落ちてこない場所を見つけた。馬を木の幹につなぐと、男たちから解放された世話人に、裏に自分の馬が繋いであることを告げ、「大変ですね」と手を取ると、いくらかの金をその手に握らせた。世話人は、あんたみたいな人間ばかりなら、この世は平和なのにな、と言って少女の馬を見に行った。
彼女に教わった通りだ。
宿場に入ると主人は、大部屋しか開いていないと言われた。雨宿りが出来る程度の宿場だ。個室や食べ物など望むべくもない。少女はうなずくと料金を支払った。
大部屋には旅人たちが、思い思いに過ごしていた。濡れた服を暖炉で乾かしている者、保存食を食べている者、酒を飲むもの。寝ている者。
少女は外套を脱ぐと、雨水を落として大部屋の隅に空きを見つけて、荷物を置いた。
剣を壁に立てかけると、水筒の水を一口飲んだ。
隣の男がしゃべりかけてきた。「一人旅かい?」白髪がまだらな男。肌は黒く焼けていたが、手の甲と腕、首回りの焼け方が違った。防具の跡だ。体は引き締まり、余計な肉は付いていない。
戦士だ。
少女はうなずくと、男の荷物を一瞥した。手持ちの袋に大ぶりの刃物が入っているようだった。
男が旅の理由を聞くと、東国にいる親戚を訪ねる途中だと言った。
暇なのか、また少女に話しかけようとしたとき、奥から言い合う声が聞こえてきた。
程なくして、先ほどの傭兵の一団が大部屋の人々が視線を向けるのをよそに、宿から出て行った。
男は、よくある事さと言った。そして袋から飴玉を取り出して少女に勧めた。少女は礼を言うと、飴玉を口に頬張った。男はカインと名乗り、少女に名前を尋ねた。
少女は、ルカと名乗った。
男が言うには、奥の部屋は領主の関係者と従者がが陣取り、騎士と傭兵がそれぞれ、部屋を占領していたそうだ。高貴な方々が泊まるところじゃないねと、男は言った。
雨が屋根を打つ音が弱まる。通り雨か。湿気が多い。剣の手入れがしたい。
頭の中で地図を思い浮かべる。街道や山道、点在する宿場や領地。それらを頭に思い浮かべながら東国の都市までの日数を考えていると、大部屋に宿の主人が現れ、川があふれて街道の橋が渡れなくなっていると言った。
大部屋に居た者たちは、ざわめき始めた。
通り雨と思たが、山手では豪雨だったらしい。川が増水したのだ。
それを聞いた者たちは、しばらく各々で相談しあったり、黙って動かない者、早々に立ち去るものと居た。
ほとんどの者は、ルカが泊まっていた宿場町に引き返すために宿を去った。橋が落ちたわけではない。一日二日待つなら、快適な宿がいい。
ルカは主人に、空いた部屋に入れてもらうように言った。高貴な方々と騎士たちはまだ居るが、ほとんど出て行ったので空室が出ていた。
主人に足りない分の料金を払うとルカは部屋に向かおうとした。カインをみると、金がないのか大部屋から動かないようだった。個室は、ほんの一休みするための部屋で狭く、雨のせいで湿気はあるが、風通りの良い部屋だった。
手足を伸ばして、横になった。ルカは自分なりに良い判断をしたと思った。川の増水の話は、前の宿場町まで伝わっているだろう。そこに引き返した者たちが加われば、あの宿場町の大きさなら、あぶれるものが出ているはずだ。
無駄な体力は使わない。無駄に時間を使わない。
彼女が居たら、褒めてもらえだろうか。
そう思いながら体を休めていると、近くの部屋から女性と男性の言い争う声が聞こえた。内容は、う回路と日程の話。守備兵の人数の話だった。
う回路の話は興味があったが、話は途絶えてしまった。
ルカは水を補給するために、外へ出て井戸に向かった。雨は小雨に戻り、地面は多少だがぬかるんでいた。空を見上げると雲の流れは速く、風は湿気をはらみ冷たかった。
このまま晴れるかもしれない。しかし、平地と山手の天気は全く違う。明日の朝、馬を駆って川の様子を見に行こう。
ルカは馬の事を思い出して厩舎を見に行くと、空いた場所に馬が入っていた。厩舎の裏で煙草を吸っていた世話人を見つけると礼を言った。世話人は、なんてことないさと言った。
ルカは少し考えた。そして、急ぎたいが困っている。迂回路はないかと尋ねた。世話人は気前よく教えてくれた。
この先に草木に隠れているが古い分岐碑がある。旧道で細く、ここ数年、補修はされていないが、通るのに支障はない。橋も下流なので大丈夫だろう。知り合いの猟師がたまに使っている。
しかし、使わない方がいいたしなめられた。最近、山賊のうわさが絶えない。猟師ならまだしも、女が一人で行くべきではないと。
ルカは、世話人に気遣いの礼を言うと、宿に戻った。
大部屋を通ると、暖炉にポットがかけてあった。カインだった。彼は木の器にお湯を注ぐと、ルカに白湯を勧めた。ルカは礼を言うと、器を受け取った。
カインはルカに、迂回路を使うのかと聞いてきた。ルカは警戒した。この男も世話人から訊いたのか。外に出た私が世話人と話している姿を見たのか。
ルカは、少し沈黙してから「まさか」と答えた。事実、予備として把握しただけで、今、使わなければいけない状況ではない。そして、この男には注意が必要だと思った。
ルカが、白湯を飲もうとしたとき、騎士の老人が大部屋を訪れた。そして見渡してカインをみると近づいてきてこう言った「護衛に雇われないか」




