10
魚住がさらに懐深く結香を抱き込んだ。これまでと違って、羽織った上着の内側、べったりと裸の胸に押しつけられている。もがくのはおろか、動くのも難儀する力加減だ。
「ちょっとー、放してくださいよー」
「いやだ。結香とくっついてたい」
なんだ、この甘ったれは。
「結香は嫌か?」
耳に甘い声を吹き込まれ、震えた。
それが嫌じゃなかった。すでに彼を嫌う理由は取り上げられ、寄り添う胸は結香好み。しかも頭の中では、さっきの妄想劇場が続きの開演開始を待っている。
しかしだ、ついさっきまで彼を敵対視し息巻いていたのに、これでは変わり身が早すぎるだろ。いかにも軽薄な感じがする。
「まだ付き合ってもいないのに、こんなの間違っていると思います」
「てことは、嫌じゃないんだな?」
ぎゃー。なんでそういうことをズバッと言うんだ。こいつは頭が良すぎて嫌になる。
「もう、勘弁してください」恥ずかしさに音をあげた。
「どっちにしたって、非常事態なんだからいいんだよ」とかなんとか抱き合う理由をつけ、再び横になった。ぐしゃぐしゃの髪に長い指を通し、だいぶ乾いたな、とホッとした声をもらす。
すったもんだしているうちに、それなりの時間が過ぎていたようだ。外の嵐もいつの間にか窓にあたる風の向きが変わっている。
「レジャー用品の企画でやり合ったことを覚えているか?」魚住が懐かしい話を始めた。
毎度のことながら、今度こそはとムキになり、当然のごとく仕事を持っていかれた企画だ。あのときは悔しさに泣いた。負けが重なり、仕事に自信をなくし始めた頃だ。
「あのあと、非常階段の踊り場で泣いてたろ?」
「な、なんで?」あのとき、あの場には誰もいなかったはずだ。
「俺は扉のすぐ外にいた。出てきた結香の目は赤かった」
そういえば、なんとか落ち着きを取り戻せたと思ったところに魚住と鉢合わせし、くどくどと仕事に口出しされた。えらそうに、と頭にきて、再び闘志を燃やしたものだ。
「結香が泣いているのを見てられなくてな、いろいろ助言したのに、頭から湯気噴いて噛み付いてきたよな。デスクに戻って、自分のくずかご蹴飛ばしたの覚えてっか?」
質問ついでに、やわらかくて温かい何かがこめかみに押しつけられた。
えっ?何?唇?気になるけれど、訊く勇気はない。
「つい、感情を抑えられなくて」温かい何かはスルーして答えた。
「子どもみたいで、かわいかったなぁ」魚住はおかしいだろと思う感想をもらした。
頭を撫でていた手が背中を撫で始めた。上下する手に、Tシャツの裾が持ち上がっていないか気にかかる。
「あのときも……」魚住は他にも彼女が覚えていないエピソードを持ち出し、こっぱずかしい感想をのべた。
その頃には大きな手がウエストを撫で始め、ときおり指が素肌をかすめた。つまり確実Tシャツはウエストまでめくれあがっているわけだ。下着は着けているとはいえ、腰から下は薄いストールのみ。これで電気が点いたら、今度はこっちがお披露目するはめになる。
結香は苦労して手を後ろに回し、Tシャツの裾をまさぐった。
「何してんだ?」
「Tシャツの裾があがっているみたいで」
「寒いのか?」
彼女が返事もしないうちに魚住が寝返りを打ち、ソファの背と大柄な身体の隙間に押し込められた。腰には太い腕が巻きつき、脚の上に筋肉質の脚が載っている。分厚い胸にはばまれ、熱いくらいだ。
「ぜんっぜん寒くないです」
「遠慮すんな、って」
お、お、お前、わざとやってないか?さっきまで嫌になるくらい察しがよかったんだから、ちょっと汗ばんでるのわかるだろ。
「う、魚住さん!」隙間でもがいた。
「渉、って呼んでみ」
「!」いきなり何ハードルあげちゃってくれてるんだ、この人は。
「わが社のエースを呼び捨てなんてできません」
「そんなの関係ないって」魚住がぐっと顔を近づけ、腰をさする。
「こうして一緒に寝る仲になったんだから、いいだろ?」
「いや、これは仕方なくですねー」こっちは半泣きだ。
「いいから、ちょっと呼んでみ、って」腰をさすっていた手がときどきお尻をかすめるようになった。
あれですか?ハロウィーンですか?“あめをくれなきゃ、いたずらするぞ”的な?もう、やけっぱちだ。
「わ、たる、さん」
腰を撫で回していた手が背中を抱き込み、もう片方の手が、よくできましたとばかりに頭を撫でた。顔が彼の首筋に埋まっている。
「もう1回、言ってみ」
「渉さん」今度はスムーズに出た。
「もっかい」
「渉さん」
「もっかい」
「渉さん」ああ、もう流されまくっている。
髪を撫でていた手がうなじを掴み、魚住がのしかかってきた。
結香は身動きもとれぬまま、唇を奪われた。頭の中はめまぐるしい流れについていけず、固まっている。
魚住が唇を食み、舌が口を開けろと催促している。
そこで思考が追いつきこれ以上流されてなるものか、と歯を喰いしばった。
ところが魚住は攻めポイントを変えてきた。背中を抱いていた左手がTシャツの下に入り込み、ブラの下のカーブを撫で始めた。
そこはまずい。本気でまずい。ブラのカップの底に重大な秘密が隠されている。
結香は仕込んだパットに気を取られ、唇を緩めてしまった。
魚住の舌が待ちかねたようになだれ込んできた。彼女の舌を絡め取り、口の中を舐めつくす。左手がカップをずらし、小ぶりの乳房をこね回し始めた。
ああ。まずい、まずい、まずい。彼との記念日になる初エッチが、会社のソファだなんて……。
結香は、魚住と付き合うこと前提に考え始めているのに気づいていなかった。
乳首をはじかれ、身体が跳ねる。逃げようにもソファの背と重い身体にはばまれ、身動きできない。結香は身体の間にはさまれた手をなんとか動かし、彼の胸に爪を立てた。
魚住が顔をあげた。息が荒い。どうやら彼は貧乳でも興奮できるたちのようだ。
「どさくさにまぎれて、何てことするんですか!」
「わりぃ。つい調子に乗っちまった」結香のTシャツを戻し、腰をもぞもぞ動かした。
きっと、ナニの収まり具合が悪いのだろう。自分に反応したのだとわかっても、悪い気はしなかった。
こりゃあ、やられたな。結香は負けを認めた。だけど、それを彼に教えるつもりはない。彼にはずいぶん振り回されたのだ。私を手に入れるためにうんと努力してもらわないと。
「こんな軽い人だったなんて、軽蔑します」
「ごめん。もうしないって」魚住が焦った声をあげた。彼が寝返りを打ち、元の場所、魚住の上に落ち着く。
「今のところ、これ以上どうこうするつもりはないから、寝ろよ」
“今のところ”。それは、この次があるということだ。次はきっと来る。だけど今夜はこのまま寝かせてくれるだろう。だって彼は、私に嫌われたくないはずだから。
「ほんとにもう、お願いしますよー」
「わかってる、って」
結香は硬い胸に頭を落とし、まだ速い鼓動に耳をすました。大きな身体は温かく――下半身に不自然なでっぱりはあるものの――安心する。なだめるように頭を撫でられ、気持ちがいい。どうやら首から下には触らないよう気を使ってくれているようだ。その思いやりに免じて、“今のところ”には言及せず寝落ちした。
結香はまぶしい明かりで目を覚ました。筋肉の布団から頭を持ち上げ、辺りを見回す。
社内は照明が復活し、外は風が止んでいる。
魚住が大きく伸びをして、ため息をついた。
「どうやら停電は終わったようだな」
そこに残念そうな響きを感じ取り、結香は魚住をにらみあげた。
「暗闇が怖かったんじゃないんですか?」
魚住がキラキラと輝く憎たらしい笑みを浮かべた。
「今夜うちに泊まって、確かめてみ」
誰が行くか!
ふたりの攻防はまだまだ続きそうだった。
完
<嵐の夜の攻防前線>を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この作品は痛みや発熱にさいなまれるなか執筆したもので、私にとって思い出深いものになりそうです。あまりに辛くて、夜、寝るときこのまま目覚めなきゃいいのに、と何度願ったかしれません。治療のめども立たない不安の日々、空想の世界に入り込めることがどれほど救いになったことか。執筆がなかったら、うつになっていたのではないかと思います。
もし続きを執筆するならば、手術のあと、R18としてムーンにての公開になるでしょう。今月半ばから入院生活に入りますが、執筆は続けていくつもりです。
これからも雨宮しづくをよろしくお願いします。
雨宮しづく 2015.10.9