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一-2


 セアン・スタチェットは肩にたれた金髪の巻き毛も、ほっそりした顔立ちも、人形のようにうつくしく整った少女だったが、口をひらくと周囲を困惑させる性格だった。

 ひとことで言えば偏屈だった。

 両親が健在であるにもかかわらず、ひとりで田舎町ちかくの海辺の家に暮らしていることからも、彼女が世間の同年代の少女たちと比べてひとあじ変わった考えの持ち主であることはわかる。

 生まれつきの下肢障害によって車椅子の生活を強いられている境遇そのものは、その性格の前ではむしろささいな部類の問題だった。

 いや、もちろんその境遇がセアンの性格形成に一役買ったということはじゅうぶん考えられるだろう。しかし足の不自由な少女がかならず変人になるなどと皆さんに思われてしまうとしたら、全国の足の不自由な少女にとって、大きな不幸、大きな誤解、大きな迷惑なのである。

「サギ男はちゃんと働いているの?」

 図書室を掃除しにきたスーに、セアンが本のページをめくりながらたずねた。

 たずねながらも新しいページに深く首をかたむける様子は、返ってくる答えへの興味のなさを窺わせた。

「朝からやたら柔順に立ち働いとりますよ。なんとかこっちを信用させようって作戦でしょう」

「あなたもわかってきたわねスー。そのとおりね」

「ただいまはテラスの床の水洗いをさせてます。男の力だとブラシかけの汚れ浮きもずいぶん違うんですよ、やっぱり」

「だから、うんと疲れさせてね。マクビーさんも寝ちゃったころに、隙をみて襲われたら女二人じゃどうにもならないもの」

「もちろん休みなんか犬のクシャミの間ほどだってやりませんとも。何しろ男手仕事はうなるほど積もってるんです!」

 それこそ因業(いんごう)ばあさんみたいな張りきりかたをして袖をまくるスーを、小さく呆れた目でセアンは見上げる。窓の外からポイのはしゃいだ吠え声が聴こえて、彼女は風の入るほうへ顔を向けた。窓枠に切りとられた浜側の景色のすみに、テラスの端が少しだけ()り出して見えている。

 デッキブラシの先がしゅっしゅとリズムのいい音を鳴らしながら、ちらちらと見えかくれする。はしゃいで進路を邪魔するポイの尻尾といっしょに。

 それは確かに、とても慣れた音だった。労働が身についた者のたてる音だ。

 しばらくセアンはページから目を離したままでいて、テラスを折り返して男の姿がはっきり現れると、我に返ったように本の上に向きなおった。

 閲覧机の上を水拭きするスーの顔をそっと盗み見る。

 雑巾に押されてセアンが持ち上げた本の下をスーはまるく拭きながら、今晩の献立を考える顔で片手の指を折り、ぶつぶつ言っていた。

 手に広げた本で顔を隠しながらセアン・スタチェットは安堵のため息をついた。

 セアンは自分が、人に、あるいは何事かに、少しでも関心を持ったと周囲から思われることをとても深く嫌っていた。

 自分に近づく人間は、みんな財産目当てに決まっている。

 だから、関心を気取(けど)られたが最後だ。

 セアン・スタチェットという少女は頑なに、そう考えている。

 玄関ベルがジーと鳴って応対にスーが出ていった。

 どうせろくでもない訪問者だとわかっているセアンは、ちっとも読みすすまないページの綴じ目に、重いため息を落とした。

「ミス・セアン、ニュースを聞いたかい。南コロニアは大変だ。大きな火の玉が落ちて海沿いの街一つが大火事になったんだってね。いよいよ海のこっちにも戦争が近づいてきた!」

 落ちつきも気遣いもない足音を響かせて、勝手知ったる図書室へ入ってきた青年の来訪こそ、セアンにとっては戦争よりずっと苦手なものだ。

「こんにちは、トニー。今日は早いのね。それでそのお話が私に何の関係があるって言うの?」

 勧められてもいない向かいの椅子をひいて腰を下ろしたトニー・シンクルーは、キザなパッドを入れた肩をすくめながら、大げさに両腕を広げた。

「一人で聞くには恐ろしいニュースかと思ってね。この海岸線のつづいてる先で起こった大惨事だよ。下手したら、ここだって間違って焼かれちまう可能性はあったんだよ。こわいと思わないかい? お父上から何か連絡があったかい」

「どうして私のお父様が、私に何を言ってくるの?」

「君のお父上は正確な情報を知れる立場だもの。僕より先に君の心配をなだめようとしたっておかしくないだろう?」

「父の持っている情報を私から聞き出して、先物相場にでも生かそうっていうのね、トニー」

 不機嫌なセアンの言いようは普通の客なら大いに気分を傷つけられるはずのものだったが、このふてぶてしい青年は右から左に聞き流すように鷹揚な微笑みをみせ、むしろくつろいで椅子の背にもたれた。

「そんなこと思ってもいないよ、ミス・セアン。僕は君のことが本当に心配で」

 図書室の入口で、すまなそうな顔をしてスーがエプロンのすそをいじっている。あなたのせいじゃないわよ、とセアンは眉間のしわに意味を込めて伝えながら頷いた。どんなに気にいらない来客でも、お茶ぐらいは出さないと、スタチェット家の品格が保てない。

 いつでも町でいちばんおしゃれなスーツがトレードマークの赤毛のトニーは、町でいちばんの名士である町長の三男坊で、ついこのまえ大学を出て銀行の支店に勤めはじめたばかり。銀行員の肩書きは四角い誠実な人間を想像させるけれど、実物はちっともそうではない。

 未来ある若者にしては俗っぽい性格が、軽薄な表情と言葉の端々にあらわれていて、セアンに毛嫌いされている。

 何よりもセアンが嫌っている点は――、

「ねえミス・セアン。そうじゃなくてもこんなに物寂しい崖の上で女の二人暮らしは、何かと危ないと思うんだがねえ」

「ご親切にありがとう。でも、これまで大丈夫だったんだから、これからだって何も起こらないわよ。何しろ私の用心深さのことは、あなただって知っているじゃないの」

「まあねえ」 

 こんなご機嫌うかがいも、お呼びじゃない親切である。それを何度もはっきりさせてきたセアンの態度にめげず、一週間と空けずに崖の上の家にやってくるトニーは、いわゆる求婚者というやつだった。

 はっきりと言葉にして申し込まれたことこそない。

 が、一人住まいのうら若いセアンをたらし込もうという下心を彼が隠せていたこともない。

「だけどねえ、ずっと死ぬまで独りっていうのもね」

 頭のてっぺんから車輪の下まで、じろじろと視線をあげおろしてセアンを眺め、トニーが含みありげに優しく呟く。

 同情の裏に、侮りが見えかくれしている。

 ――可哀想な車椅子のひきこもり少女を、自分以外のだれが相手にしてあげるだろう。

 内心の声が聞こえる気がするから、セアンはトニーと過ごす時間が大嫌いだった。

 『けれど、わかりやすくていいのよ』とも、セアンはスーに言ったことがある。

 巧妙な相手にひっかかって財産を盗られるよりは、最初から下心が丸見えのトニーのほうがよっぽど無害だ、というのだ。

「私にはスーザンがいるもの」

「見かけ腕っぷしが強そうでも、スーザンだって女だからさ、用心棒にはなりゃしないよ」

 鼻で笑うように返したトニーの口ぶりに、色白の少女は立腹して赤くなる。

 “ガンマンはだし”の構えだってできるスーを馬鹿にしないでちょうだい、と反論しかけたセアンの鼻先で、閲覧机にお茶をならべるスーが口をひらいた。

「用心棒なら、もう雇い済みなんですよ。トニーさん」

 へえ? とトニーは虚をつかれたように甲高い声をあげ、目を丸くした。

「スー!」

 それ以上言わせないように声をひそめたセアンに気づかず、スーが胸を張る。

「人をもう一人でも二人でも雇う甲斐性くらいお嬢様はたくさんおありですからね。さっきから外で音がしてるじゃないですか。男手を一人増やしたんですよ」

 だからあんたのお節介も用無しだ、と言いたげにまくし立てた。

「へえ、マクビー爺さんかと思ったぜ?」

 首を反らして窓の外をうかがうトニー。

「身元の保証はあるんだろうねえ?」

「ええもう、出入りの運送屋からの紹介で、働き者をよこしてもらったんですから」

 トニーが訝しげにセアンを見返った。

 唐突な話だし、運送屋の出入りにも心当たりがない、といった顔だ。

「年に一度、本を図書館に引き取ってもらうでしょう」

 もっともらしく気をとりなおしてセアンが言い添えると、眉を上げながら納得した。

「そんなことより、トニー、仕事はいいの?」

「仕事なんてほっとくさ、ミス・セアン。君の顔を見ていられる時間のためならさ」

 だが、俗物(ぞくぶつ)たる気取り屋トニーがみすみす上司に怒られるヘマを選ぶはずもなく、抜け出してきた昼休みがおわる前に、さっさと彼は職場へと戻っていった。

 清めのハタキをかけながらスーが、

「往復だけで時間を食うってのに、よっぽど早食いなんでしょうかね」

 やや感心ぎみに言う。

「そんなにスタチェットの家名と財力が魅力なんだわ」

 ひょうひょうと呟いたセアン・スタチェットは筋金入りの偏屈娘だ。




「だからねサギ男や、あんたはお嬢様に感謝しなけりゃいけないよ。お嬢様のご身分を思えばね、あやしい行き倒れ者なんて、野垂れ死にさせておくのが一番だったんだから。慈悲ぶかいお嬢様の浜辺に落ちてたからこそ、今もあんたはこうしておひさまが拝めてるんだからね」

 勝手口の敷居をまたがせた椅子の上は日向ぼっこしながら家事ができる彼女の定位置だ。そこからときおり首を突き出しては説教をたれるスーの手元では、小ぶりのジャガイモが華麗なスピードで皮を脱いでいく。

「セアンお嬢様の天使のような清いお心にかかっちゃあ、いくらあんたみたいな小悪党だって改心せずにはおれないんだよ。肝に銘じておくんだよ。ぜったい感謝するようになるからね」

 はい、はい、と律義なうなずきを挟みながら、男は一定のリズムを保って鉈をふるった。あてがわれた薪割りの仕事を、最初は勘でとりかかり、だんだんこつを掴んでいくように工夫を加えながらサギ男はこなしていた。すでに小一時間も単調な重労働をくりかえす上半身は、秋の真ん中というのに汗でびっしょりだ。

 廃材屋から届いたまま積んであった一冬ぶんの薪の山を、すべて割らせてしまうつもりのスーは、今年はマクビーじいさんに頼んで嫌な顔をされずにすむので、口から出る説教とはうらはらに機嫌がよい。

「あんがい使いで(・・・)があるじゃないの。もうあらかた終わりそうだわね。終わったら、お勝手に入ってお茶にしていいよ、サギ男」

「ありがとうございます。……あの、でも」

「何だい?」

「このまま屋内に入るのは失礼じゃないかな、と」

 気温と体温との差に湯気が立ちそうになっているサギ男が、肌着をつまんで申し訳なさそうに答える。

 サギ男の衣服は昨夜のうちにスーが古いシーツや毛布をばらして洗い替えの分とそろえて仕立て上げた。白い襟なしシャツは汚れないように脱いであったが、それでも朝からつづいた労働で頭から汗びっしょりになった身体を台所へ持ち込むのはまずいだろう、という遠慮をサギ男はみせていた。

「そうだね。テラスの横に汲み上げ水栓の柱があるだろ。そこで水浴びしといで。ズボンの替えはあたしが部屋から持ってきといてやるからね。その前に、できた薪はぜんぶ裏手の小屋にしまっとくんだよ。今日の汗かき仕事はこれで終わりだよ」

「わかりました。はい」

 サギ男は素直に頭を下げて、地面に散らばった薪を集め、荒縄をかけて、いくつかの束を抱えた。

 小屋を往復したあと、額の汗を腕でぬぐいながらテラスのほうへまわった。

 家の北側に突き出した台所から、西側の海に向いたテラスへゆくみちは、図書室の出窓の前を通る。夕方少し前の西日を受けた窓は丹念に磨かれた硝子がきらきらと透きとおって、白いレースのカーテンの刺繍目まではっきりと見えた。わずかに開けられた上げ窓の下に、うつぶせに伏した少女の金色の頭と両ひじがのぞいていた。

 出窓にもたれたまま、ちょうど午睡の時間、微睡んでしまったように。

 穏やかな寝息に上下する肩、繊細に流れる髪を、立ちどまって男は眺めた。

 じっと見つめて、ふと男は顔の半分をきつく、ゆがめた。

 首を折るようにうつむいて、足元を睨みつける。

 男のにぎった両のこぶしが、すじを浮かせた。

 足ばやにテラスの下の鉄パイプの柱までたどり着き、ポンプレバーを押し引きすると、漏斗状になった頭上の口から雑な雨のような水玉が降りつける。水量は大したことがないが、勢いはよかった。それは浜遊びのあとに砂を落とすための水栓で、いかにも金持ちのセカンドハウスらしい代物だが、錆びついて脚もがたがたと揺れるそれは長いあいだ、本来の優雅な目的では使われていないことがわかる。

 この崖の上の家そのものが、どこかしら、にぎやかに過ごす避暑荘という存在目的を長らく忘れてしまったような侘しさに包まれているのだ。

 息が止まるほど冷たい水を頭からかぶって、男は不平の表情ひとつ浮かべず、むしろ行者のようにうなだれた。

 水粒の雨にうたれて淡々と汗を洗い流しながら、脱いだ肌着を絞った。

「目障りだわ、サギ男」

 遠く、家のほうから突然に声がかかって、サギ男は振り返ろうとした。

「いやだ、こっち向かないで」

「すみません」

 ぱっと姿勢を戻し、水の外へ伸ばした腕で、肌着を最後まで絞りきる。

 藍綾織り(デニム)の作業ズボンに上半身は裸の状態で、使用人としては夏などはこのくらいも普通だが、雇い主の目に入れていいものでもない。

 水が止まると、固く絞ったばかりのごわごわの肌着をひらいて、表と裏が貼りついて皺々のそれを急いでむりやり着ようとした。

「そんなものわざわざ被らなくてもいいわよ」

 不機嫌な声のままセアンがやめさせた。

「さも気の優しい善人ぶるのはやめなさい。正体はわかってるのよ、サギ男」

 面倒そうな声がくぐもったので、サギ男がそちらを振り向くと、遠く窓辺のセアン・スタチェットはあさってを向くかたちで、組んだ腕に頬をうずめていた。

「セアンお嬢様は、お幾つですか」

 ためらいがちにサギ男が尋ねる。

 何よ、というふうにうつ伏せの首をひっくり返し、セアンは手の甲に細いあごを乗せた。

「十五よ。もうすぐ十五歳と六カ月だけれど?」

「あ……、なんだ」

 サギ男が一瞬緊張をゆるめたのを見逃さなかったように、セアンの肩が警戒にこわばる。

「どうして『サギ男』なんですか」

 サギ男はズボンの裾をしぼりながら質問をかさねた。

 流れはじめた会話にとまどいを見せつつ、セアンの答えはいつもの調子だ。

「しらをきろうとしても無駄なのよ、この結婚詐欺師」

「スーザンさんの話からすると僕はそう思われてるみたいですが、倒れてるときにそれらしい手掛かりを持っていたんでしょうか。何か、クドいせりふを呟いたとか。あやしい計画をうわごとしたとか。……それとも――、雰囲気で?」

「雰囲気よ」

「雰囲気か……」

 しごく真面目な顔つきで男は頷いた。

「人に年齢を訊いておいて、自分の年齢は思い出せないふりをするようなズルい悪人の雰囲気が根っから漂っているわね」

 申し訳なさそうにサギ男は肩をすくめる。

 手持ち無沙汰にパイプの柱のガタつき具合をたしかめ、修理の方法を考えるように検分しはじめた。

 その片手間にサギ男は懲りもせず喋りかけた。

「十五歳か……学校は行かないんですか? 今日は土曜日なのかな。安息日ではないはずだけど」

 スーザンさんが掃除やジャガイモ剥きをしているし、僕もこうやって働かせていますから、と推理などしている。

「学校って、街で寮生活しなくちゃいけない高等学校のことを言っているの? 行けるわけないでしょう。高等学校くらいの勉強なら、とっくに家庭教師で足りていたし」

 サギ男はセアンのほうを見て首をひねった。

「入れてくれないなんてことはないんでしょう?」

「なんですって?」

「車椅子だからって、入学禁止なんてことは、ないですよね。少しだけ周りが移動を手伝えばいいだけだもの。じゃあ、行きたくないから行っていないんですか? 勉強が嫌い?」

 ぽつぽつと考えながら喋っているわりに、話の中身には遠慮がない。

 その話の流れはセアン・スタチェットという少女の怒りの琴線を震わせ、青白い顔が首すじから紅潮を帯びはじめる。

「なんですって」

「病弱なわけじゃないって、スーザンさんが」

 いよいよセアンの形相は一変した。

「わたしが学校に行っていないからってなんだっていうの? あなたに関係があるの?」

「関係っていうか、ちょっと不思議だったもので。僕はてっきり、十八、九の大学出のお嬢さんかなと思っていたので、でも十五歳だったら……。すみません、年齢の話ばかりするべきじゃない」

 こんがらがったように頭を掻いて、サギ男はすまなそうに、あらぬほうを向いた。

「家庭教師か……だけどどうせそういうのって化粧っ気のないオールドミスか、耳にカビの生えた爺さんですよね。こっそり手紙を回す友達もいないんじゃ、ぜんぜんつまらない」

「何なの……」

 セアンの口から重く引きずるような呟きが漏れる。

 怒りに染まった顔、その皮の下でのぼりつめる感情が溶岩のごとく溢れでる道を探していた。

「とても、もったいないような気がするな」

 トラの尾を踏んだ失態を知ってか知らずかサギ男はその場にしゃがんでパイプ柱の足元の強度に集中しはじめる。

「――何なの、あなた。どういうつもり? 行き倒れの詐欺師が差し出がましく訊きだすようなことじゃないわよ、急に何様のつもりになったの?!」

 びっくりしてサギ男が振り返る。

「え……」

「二度と私に話しかけないでっ!」

 乱暴に下ろされた窓のガラスが、繊細に割れそうな心のように震えた。




 すっかり夜のとばりが下りた家の外から骨太なくしゃみが連続して響く。

「あれあれ可哀想にねえ」

 鍋を持ったまま窓の外をふりかえって、スーが同情をにじませる。食卓にすでに着いているセアンはじっとした視線をスーに向けた。スーのサギ男への同情はどのくらいのものだろうか?

 お嬢様にあつあつのシチューをお出しするという至上命令を最優先したスーは、クロスの敷かれたテーブルにどん、とホウロウ鍋を到着させた。

「まるで水栓にとっつかまっちまったみたいに、お三時もせずにあそこにいるんですよ。やぶ蛇っていうんですかねえ」

 スーはセアンとサギ男の一悶着を知らなかった。サギ男が家の中へいっこうに入ってこないのが、激昂したセアンの命令のせいだとは思ってもいない。

 というのは、サギ男はあのあと別のトラブルを起こしていたからだ。

「もともとボロだったんですからしょうがないですよ。そうでしょうねえ、お嬢様」

 セアンの激しい拒絶に遭ったあとサギ男は勝手口に戻らなかった。

 会話中から気になっていた水栓パイプのがたつきにこだわって、サギ男は本格的にあれこれと弄りはじめていた。セアンの命令によって身の置き所をなくしたせいなのかもしれない。目撃者であるスーの話によれば、砂に埋まった支台のネジを外してパイプ柱を抜き差しし、また固定しなおして、確認のために水を汲み上げたところで突然、パイプ柱が根元からポキンと折れてしまったという。見た目よりも潮風による腐食が進んでいたのだろう。サギ男は間欠泉のごとく吹き上がった冷たい水をふたたび頭から浴びてずぶぬれになった。

 壊してしまった責任をかぶるように、そのあとも後始末と再修繕の準備にのろのろと居残っているらしい。

 もうすっかり日が落ちて、夕食の時間だというのに。

「スー、あなたもすっかり……」

 さっきからしきりとサギ男の失態をかばうような言葉を連ねるスーの様子に、セアンはうろんげに目をほそめる。

 スーの気持ちはおよそわかっている。セアンの言いつけどおりに警戒心は保ちつつも、早朝からのサギ男の働き者ぶりは、同じ働き者のスーの心証をすこぶる良くしてしまった。やっと見つかった使いで(・・・)のある男手だ。今日一日のスーは、外仕事では自分の出番がまったくなくて、だいぶ楽ができたのに違いない。

 だが、サギ男の明日はまだ不安定だ。監視つき保護か、放逐か、警察に突き出されるか、すべてはセアンの鶴の一声で決まる。スーの口からサギ男に同情した言葉が出てくるのは、便利な下働きを失いたくない一心からのこと。

「晩ごはんにおはいりと言うのに、一区切りがついたらいただくので置いといてくれの一点張りで。あのまま風邪なんか引かれたら面倒ですよ、お嬢様」

「おととい拾ったときからサギ男、熱を出して寝込んでなかった?」

 本人の『大丈夫です』という自己申告のまま働かせていたのもスーである。

 暖炉の燃え爆ぜる小気味よい音の背景にくしゃみ連発が混じる。

 セアンだって、ここは妥協するしかない。

「スー、テラスへ出してくれるかしら」

 ショールを肩から羽織りながら、頼んだ。

「不愉快なのよ、哀れっぽい気配を聞きながら食事するなんて」

「まったくお嬢様にわざわざ足を運ばせるなんて、男どもの凝り性にも困ったもんだ」

 闇にきわだつような潮の香るテラスへ出て、横の階段に車椅子を寄せる。

 脇に置かれたカンテラの明かりに照らされ、最下段に座るサギ男の背中が見えた。くしゃくしゃのまま潮風に乾いた木綿の肌着いちまい。いかにも寒々しい格好だ。うなじや肘が、冷気に抵抗して赤くなっている。

 前方を向いてじっと座ったまま、ぼうっとしているのだろうか。

 声をかけるのがためらわれるほど、その背中はまったく身じろぎもしなかった。

「サギ男」

 ふりむいた男は意外そうにセアンを見上げる。

「話しかけるなとは言ったわ。けれど、家に入るななんて言ってないじゃない」

 サギ男はちょっと困ったように首をかしげた。

 でも、と言いたげにうろうろと目をそらす。

 自分の立場ではそう言われたも同然だ、と。

 馬鹿のつきそうなそういう真面目さが、早くもスーの心を掴んでしまった彼の個性なのだと、納得はんぶん立腹はんぶん、セアンにもわかった。

「たとえ入りにくかったとしても、頼めば親切な人間が助けてくれるかもしれないわよ」

 サギ男が怪訝そうな表情を見せる。

「それとも」

 と、セアンは意地の悪さを自覚しながら言った。

「夕ごはんが嫌いなの?」

 はっと口をひらいて、サギ男が気づいた。

『勉強が嫌い?』

 セアンの投げつけた言葉はさっきの口論の意趣返しだ。


(簡単に言わないでよ。人の好意が、まるでどこにでもある空気みたいに)

(当たり前に受け取れるわけないじゃない) 


「ずうずうしくならないのはとてももったいないような気がするわ」

 きびしく眉間をよせたサギ男の沈黙を置き去りにして、セアンはスーに車椅子を引かせた。心得てスーが階段の下へ言い残す。

「お勝手にシチューを置いとくからね、すぐに食べてあったまりなさいよ。誰も使ってない水栓なんか今はいいから。さあさ」

 だが、ふと考えてセアンは言った。

「いいえ、サギ男、食堂で一緒に食べなさい」

 さっきの動かない背中があまりにも、寂しいものに見えたからだ。

 何だか幽霊みたいだった。

 暗い台所で幽霊が一人こそこそしているのを想像しながら食事するのは、気味が悪いと思ったのだ。

「そのほうが電灯だって効率がいいもの。その代わり、身なりはちゃんとしてきなさいね。スタチェット家の食堂には見苦しい格好で来ないでちょうだい」




「スタチェット家は、おじいさまも、おとうさまも、使用人には誇りをもって健康に働いてもらうという家訓を大事に守っていたわ。五月祭や収穫祭、冬至祭の楽しい無礼講はスーも知っているでしょう?」

「ええお嬢様ぁ。あたしはちっさいころから収穫祭の宝釣りゲームが得意で自慢で! 今でもおぼえてます、奥様手作りの香水を釣り上げたときの嬉しかったことといったら。今でも宝物にしてるんですから!」

「あんなの、もうとっくに揮発しちゃったでしょう。私が見せてもらったときからも十年も経つわよ。……そうだ、今度の冬至祭の贈り物は、その香水瓶にあたらしい中身を入れてあげるわ、スー。もちろんそれだけじゃないから、あとの全部は楽しみにしていてね」

「まあ、お嬢様ぁ」

 感激屋のスーはエプロンの裾で涙をおさえた。

「とにかくスタチェット家の家訓なのよ。この海辺の家でだってそれは守られなければならないわ。スタチェット家の名誉を傷つけるわけにはいかないのよ」

 たとえ行き倒れのフリをした胡散くさい結婚詐欺師であるはずの下男に対してであれ。

「あたしはこんな立派なお嬢様のお世話につかせていただいて本当に幸せ者だ!」

 食堂の入口の壁が廊下からノックされる。

 漆喰の壁がアーチ状にくりぬかれた扉のない入口から、セアンが連ねる言い訳の元凶が、そっと姿を現わして食堂へ入ってくる。

 食卓からその足取りを見返って、セアンたちはなんとなく口をつぐんだ。

 いや、スーのほうは口をあんぐりと開けて、一瞬のちに「あらまあ」と言った。

 せっかちで仕事に忠実なスーはタッと立ち上がって台所へいった。レンジに戻しておいた鍋を取りにいったのだ。手伝ったほうがいいだろうかと台所を気にするサギ男の横顔を下から見上げて、お節介さが浮かんだその表情に苛立ちを覚えながら、セアンは椅子を示した。

「座ったら」

 あつあつの鍋をセアンの食卓に運ぶのはスーの誇りにしている仕事だ。

 彼が手伝う筋合いのことじゃない。台所はスーの城なのだから。

「……」

 まだセアンの命令に沿った遠慮をつづけているらしいサギ男は、黙ったまま席についた。

「さあさ、待たされたぶん、お嬢様のお腹がすいて今日はたくさんお食べになっていただけるといいんですが」

 セアンは少食だ。一日中、座ったままろくに身体を動かさないので、三度三度の食事が苦痛に思うときすらあるくらいだから、〈おかわり〉にも縁がない。

「一度に二人分に響く嫌みを言うなんて、あなたも腕を上げたわね、スー」

「はあ、なんのことでしょ」

 目を真ん丸くしてすっとぼけるスーから受け取った皿には、角のほろほろとした人参、じゃがいも、小たまねぎがごろん、ごろん、とたっぷり転がるミルク色のスープ。

「それにしてもサギ男、あんたそうやって見ると随分ぴりっとしたね」

 手渡されて自分の前に着地させた皿から、言われて顔を上げたサギ男が、まばたきながらスーとセアンを窺う。

「そう、ですか?」

 不精髭の剃られた顔と、二度の水浴びで油が抜けた濃茶色のさらさらした髪――。着ているものも、作業着のデニムから麻のズボンへ、上には小さな貝ボタンのついた白い綿のシャツを着足した、それだけで、サギ男の印象は驚くほど変わっていた。

 シャツは襟がなくて簡素なかたちだが、スーの縫製はていねいで、くたびれた感じがぜんぜんしない。小麦色に焼けた健康的な首すじとその上にある顔が、むしろ洗練されて映りさえすると言ったら、スーを褒め過ぎだろうか。

「ますます疑いは濃くなっていくわね」

 浜の砂と、高熱による朦朧と、不精髭とを順々に落としたすえに、持って生まれた目鼻立ちの端正さをサギ男は露わにしていた。

 セアンの警戒を聞いてサギ男は頬をかすかに震わせた。

「いま、笑ったわね。どういうつもり?」

 あわてたようにサギ男は首をふるふると振った。

「まさか。笑ってなんかいない」

 電灯の下ではごまかしきれるものではないのに、真面目な顔をつくろって否定した。

「溺れたショックで顔が痙攣するようになったのかもしれない」

「呆れた……」

 平然と嘘をつく態度に愕然とさせられた。

 調子のいいトニーだって、下心を言いつくろうのは上手いにしても、ここまでしれっと切り返してきたことはない。

 トニーは町長の息子だから人付き合いが広く、自分でも話術を自慢にしているが、のんびりした田舎の社交界はその程度で済むところなのだ。セアンは首都の社交界を知っているから、気取り屋トニーの井の中ぶりを気の毒に思いさえする。

 久しく会っていない種類の人間を目にしている気がして、セアンは胸の真ん中で最大警戒のサイレンを鳴らした。

 注目を受けながら食事にありついたサギ男は、籠の鳥みたいに二人の人間から観察されながら、臆することもなくスプーンを口へ運んだ。背筋の伸びた姿勢がきれいで、スプーンは皿に音を立てない。がっついてパンに噛りついたりもしない。それでいて結構な早食いだ。さほどの動作を感じさせなかったのに、すぐにシチューは空になった。

 嬉しそうにスーがおかわりをよそってやる。

 その光景を見ていてセアンは心細くなった。

 ――サギ男は都会の詐欺師だ。

 セアンは確信していた。一枚も二枚も上手かもしれない。よほど心していないと、こちらの身ぐるみが大変なことになる。

 スーという盾はすでに危うい。

「さっき暗いところでぼうっとしていたわね。私の家から、あるものないもの騙し取ろうって算段を考えていたのじゃないの?」

 スーの警戒心を取り戻すべく、セアンはスプーンで皿の底をつっつきながら苛々と険のある声を放った。

「海の音を聴いてたんです」

「聴いてどうするの? 薄汚れた心根を波の音で洗えるとでも言うのかしらね」

「――海は、そんなに都合よく優しいものじゃないです。きっと」

「その海の波に、都合のいい浜へ打ち上げてもらった設定のくせに、よく言うじゃない」

「そうですね」

 今度はわかりやすく小さな苦笑を片頬に浮かべ、セアンを向いた。

 そのサギ男の目が、暗く虚ろな空洞を抱えていたからセアンは思わずはっとする。

「どうしてかなって、考えていたんです。どうして海の中で死ななかったんだろうと。僕は普通なら死んでいておかしくない、生きて打ち上げられたことのほうが不自然で、だからだと思うんです、記憶がないのは」

「まだ言ってるわよスー、記憶のないフリを」

「ほらお嬢様がお怒りだ。往生際が悪いよ、サギ男」

 サギ男は苦笑を微笑に力無く変えて、うつむいた。

 抜けられない泥沼にはまったような態度を眺めて、セアンはそれ以上追い詰めることをやめにしていた。……けれどチクリと、針を刺しておいてやらなければ。人のいいスーの心証に滑り止めをかけておくためだ。

「神妙なことを言ってるわりにがつがつしてるのね」

 すでに三杯目のシチューを半分たいらげているサギ男である。

 どんなに虚ろな目をしていても、それでは言葉が真に迫らない。

 そしてサギ男が次に顔を上げたときには、もう目の色は何も物語っていなかった。

「デザートの隙間はとっといておくれよ、サギ男。お嬢様、今日はマクビーじいさんが初生りの林檎を持ってきましたからね、スーザンのおっかあさん直伝のとっとき(・・・・)をおつくりしましたから」

 楽しみね、と言ってセアンは、自分の食事に集中した。

 時計を見てからいつもの習慣で「ラジオをつけてくれる?」と頼むと、転がるようにスーが動く。いつもは夕食後に聞いているはずのニュースが、サギ男のために時間をずらしたせいでもう始まっていた。


『経財省のスタチェット事務次官は、対魔法戦争の長期化に備えた物価抑制策を発表しました。ヤーヘル魔法連合軍による南コロニア領パナリア島攻略以来の我が国の物価推移は国民生活を圧迫しはじめており……』


 スタチェット、とサギ男の口が声に出さずになぞるのをセアンは見逃さない。

 急いでその勘ぐりを散らそうと、別のニュースで語られた耳慣れない存在について話しはじめた。

「魔法連合が勝ったら、わたしたちみんな〈精霊(ダイモーン)〉の餌になるのよ、スー」

「ひい。お嬢様はともかく、あたしなんてトウが立ってて不味いですよ」

「さては、私を生贄にして逃げるつもりね、スー」

「お嬢様はこうおっしゃればいいですよ、がりがりでやせっぽちの子供より、むっちり熟女のスーザンをお食べ、ってね」

「自分を貶してまであなたを犠牲に差し出したくないわよ。どうせなら一緒に海に身を投げて逃げましょうよ、スー。どこかの国の潜水艦が拾ってくれるかもしれないから」

「魔法で動かす潜水艦ですかぁ? 石炭を燃やすのにこきつかわれているダイモーンにけっきょく食べられておしまいだ!」


『南コロニア西岸ペンセルを焼いたヤーヘル軍潜水艦は北コロニア領海に侵入後、北コロニア軍哨戒の追尾を振り切り消息を絶ちました。当該艦は南コロニア軍の迎撃に被弾し、中破相当の損壊を負っていたとみられます。大統領は領海侵犯についてただちにヤーヘル国に抗議のうえ、今月末予定の中立国主導停戦協議に応じない場合、我が国の参戦もありうるとの通告を同時に伝えました』


「本当に困ったことになっているわね。参戦しないわけにもいかないし、参戦したら……」

「北コロニアが手伝っても勝てないんでしょうか、お嬢様……」

 血気盛んな弟たちを持つスーが不安そうに言うから、セアンは考え考えしながらも首を振る。

「そういうことはないと思うわ、魔法連合も一枚岩ではないというし、コロニア同盟の主な戦力はほとんど南コロニア軍という現状でも、今まで戦局はそれなりに均衡を保っていたんだもの」

 敵が、制海の橋頭堡を手にいれ、潜水艦からの魔法攻撃で街ひとつを灰燼に帰す非人道的な戦法をぶつけてくるまでは。

「だけど、それなりの犠牲は払うことになってしまうでしょうね……」

 伯父はさぞかし胃が痛いだろう。

 母のだいぶ年齢の離れた兄が大統領、という環境は、セアン自身にとっても面倒なものでしかなかったが、こういう場合は伯父そのひとの心労が思いやられて切なかった。

 隣国南コロニアがヤーヘル魔法連合に対して始めた戦争に、北コロニアは南コロニアの肩を持ちつつも非参戦の立場を保ってきたが、友好国の軍事優位が崩れようとする情勢においては、重い腰を上げざるを得ないだろう。誰より北コロニアの国民が、同一な文化風土を持つ地続きの南コロニア――反魔法の頭領たる兄弟国に加勢せずして魔法使いの餌食になる明日をけして望んでいなかった。日に日に参戦論は活発化し、パナリア島が陥されて以来は爆発的に高まっていた。もはや南コロニアからの要請よりも、国民の声が大統領へのかわしきれぬ圧力を生んでいるのだ。

 ヤーヘル国が停戦協議に応じてくれるならいいが、戦争の原因が、南コロニア以下の非魔法圏国家による一致した魔法排斥政策にある以上、二つに割れた世界はどちらかが勝ちを得るまで戦いを続けていくしかないのだろう。

 未知の力を怖いと思う心は消せず、譲れもしないものだからだ。


『ペンセルの街では三日が経った今も遺体の収容作業が続いています。火災後の雨により延焼は鎮火しました。我が国は救護船を送り、負傷者の救済を迅速に――』


「あら気分が悪そうね、サギ男。寒いところからストーブのそばに座ってのぼせたんじゃないの? 台所で、お水を飲んできたら」

 額に手を当ててサギ男は蒼い顔をしていた。びくりと肩を震わせてセアンを見つめ、ぎこちなく頷く。緩慢な動作で立ち上がり、歩いて消えた台所から、命令どおりにコップに水をそそいで飲み干す気配が聞こえてきた。

「お嬢様」

 声をひそめてスーが何か言ってくる。

「お勝手にゃ、包丁がわんさかあるんですが」

 そう聞いて一瞬、セアンは瞳をしばたいた。

「……いいわよ、別に。ひとりでに死んでくれるなら、あとで死体はこっそり海にでも流してしまえばいいじゃない。面倒がないわ」

「はぁ? いえお嬢様、サギ男が死ぬわけないじゃありませんか。悪党に()られるのはあたしたちですよぉ。大丈夫でしょうかねえ」

 セアンは瞳を今度は見開いた。ついでに口もぽかんとあいてしまった。気をとりなおして小刻みに頷いてみせ、そしてすぐに首を振った。勘違いを悟られぬよう早口でとっさに修正をかけた。

「ああ、ええ、ええ、そうね。いいえ、でも凶器を持ち出すなら朝から今まで私たちに隙はいくらでもあったはずよね。結婚詐欺師なら凶器は刃物じゃなく、口先なのだしね。じっさい、喋りだしたらずいぶん口が立つじゃない?」

「はあ、なるほど。気を付けさせてもらいますよ。何を言われてもまともに取らないことにしなけりゃあ」

 思い出した戒めを守ってスーは、しばらくしてサギ男が居間に戻ってきたとき「きれいに片付いた台所ですね」呟いたのにも聞こえないふりをしていた。そのサギ男の手が掲げているものにセアンは眉を上げる。

「すみません。ついでに持ってきました、つい……」

 セアンにスーの領域への手出しを禁じられたさっきの今で、余計なお節介を働かせてサギ男が運んだデザートの皿が食卓の中央に安置されると、得意そうな料理人の語りがはじまる。

「七つ子のタルトでございますよ」

 キツネ色に焼き色のついたフィリングに、スライスした林檎が渦を描いて埋まっていて、赤い皮目がきれいな縞模様を見せる。シナモンの香りたつ甘い焼き菓子。

「昔々、あるところの村に、秋生まれのかわいい七つ子が住んでいました。おっかさんはお誕生日に七つ子の好きな果物でタルトをつくったげようと約束してたのですが、いざお誕生日がきてみると、七つ子はてんでばらばらな好みを言ったので、けっきょく林檎のタルトをつくりました。七つ子は七人とも林檎がきらいでした。真っ赤なまあるいほっぺが林檎に似ていたからです。ぶーぶー文句を言いました。でも大丈夫、お母さんは七つ子のほっぺをちぎってタルトにしたのでしたから」

 切り分けられたタルトの一切れをフォークで口に入れようとしていたサギ男が、聞いたとたんに、うっと呻いて目をまわした。

「微妙だな……」

「うちのタルトは果樹園におととし植えた林檎の木に初めて生った記念の初物よ、ほっぺじゃないわ」

 だけど、とセアンも心の中では同じ表情になっていた。

「そういうふうに伝わってるデントウのお菓子なんで」

 あくまでも自慢そうに胸を張るスー。

 年季がはいっているぶん、受け継いだ味は一族郎党のおすみつきだ。

「ひねくれたお伽話を考えるご先祖様がいたのね」

「いえ、実話なんですよ」

 フォークを運びなおしていたサギ男がふたたび喉を詰まらせた。

「そんな馬鹿な。猟奇殺人じゃないか」

「まだコロニア大陸に国がなかったころの話ですからね」

 そう聞いても意味がわからないという顔でサギ男は首をひねった。

「ああ、ええ……そうね、入植者が苦労していたころの、人減らしの話よ」

 目を瞠ったサギ男をちらりと見て、ケーキ皿に視線を落とし、セアンは「たぶんそう」、と頷いた。

 神の教えに背く〈精霊契約〉という〈魔法〉を厭い、旧大陸から逃れてきた開拓者たち。

 それがセアンたちの先祖だ。

「慣れない新大陸で入植者は初めのころ飢えに苦しんだ。痩せた土地に緑を根付かせるためには長い年月と技術開発の努力がいったわ。そういう歴史の中でおきた残酷な不幸を忘れないためのお話なのだと思うわ」

 同じ神を戴きながら〈魔法〉の誘惑に堕ちた者たちを邪悪と断じ、自らを〈純教徒〉と名乗った彼ら。

 神の意志に忠実なしもべであることを第一として戒律を重視した彼らなのに、魔法への反発が彼らを貧しさへ追いやり、残酷な子殺しという悲劇さえ多発させたのだとしたら、本末転倒だ。

 けれど、そういう悲劇はたしかに歴史の事実だった。

 国の恥部であるため、あまり公に語られることはないが。

「そんなに驚くようなことじゃないわ。似たような苦労話はコロニア大陸のどこの土地にも残っているはずよ」

 初めて聞いた話に考え込むそぶりを見せているサギ男を、セアンは牽制を込めてあしらった。

「初めて聞いたふりなんて、ほんとうに白々しいわね、サギ男」

「じっちゃんばっちゃんの話さえ憶えてられないんなら、言葉をしゃべれるってのはおかしいよ。ああ、あんたはほんとに、わるい男なんだねえ」

 裏切られた悲しさに、タルトに布巾の蓋を被せておかわりなしのおしまいにしてしまうスー。

 ようやく馴染めたとおもった食卓の空気が、居心地わるく塗り変わってしまった様子を眺めるままに察して、自分はいったい何をどこで間違えたのかわからないという困惑の顔で、サギ男が眉をよせた。

 名残惜しそうに布巾の蓋に隠れたタルトを見つめる。

「調子に乗ってぼろを出すようじゃ、詐欺師として二流もいいとこ。こっちが不安になるじゃないの」

 セアンの声の調子に感じるものがあったのか、サギ男はもの問いたげな顔をセアンへ向けた。

 セアンは無視した。

 紅茶をすすって、黙って無視した。

 “スタチェット……”

 ふたたびサギ男の口が、声に出さずその名前をなぞっているのが目の端に見えた。

「厄介なものを抱え込んだわ」

 聞こえよがしな溜息をセアンは紅茶に沈める。

 琥珀色のみなもに浮かんだ意地の悪い少女の顔とセアンは向き合う。

「すみません」

 食卓の人の座っていないほうへ首の向きを変えてサギ男が言った。

「ありがとう」

 そっと足された言葉の意味を、セアンは深く考えまいとした。




 たった二百年前まで、〈精霊(ダイモーン)〉はこの世に生きていなかった。

 いや、精霊は人の生まれくるずっと前から大地に宿り、そこにあった。

 それは巨大なエネルギーとして地中に埋まり、あらゆる物質と重なりあって、一つのかたまりとして存在していた。

 人の目に見えるものではなかったし、音も声もたてなかった。

 二百年前、旧大陸の三大王国の一つ、ヤーヘルの王太子レミアックは、大地にひとこと、こう話しかけたという。


――起きよ、目覚めるがよい、我らが仲間である英知の塊よ


 彼は終生を捧げた精霊研究のひとつめの成果として、精霊との会話法を編みだした。

 人は精霊とかかわる(すべ)を得た。

 そうして、この星が生まれてより初めて精霊は意識を持ったのだ。



 ものの本(・・・・)には、そう書いてある。

 セアンは読みあきた文章から目を離し、ぶあつい歴史書のページをもてあそびながら宙を眺めた。

 まともな本でもたいていそんなふうに書いてある。

 つまらない本だと思い込みの文章ばかりで、知識に(あたい)するような情報はほんの少し。

 ろくでもない本になると、悪意ある妄想しか書かれていない。

 大海のこちらがわでは、魔法はタブーだ。

 魔法史の研究者がいないのだから、魔法について客観的に書かれた学問的な本などは望むべくもない。

 だからレミアック王の研究がどんなものかをセアンが知ることはできない。

 レミアック王は精霊の存在をどのようにして感知したのか。

 何をきっかけにしてレミアック王は精霊の研究をはじめようと思ったのか。

 そういう基本的なことがまったくわからない。

 旧大陸と新大陸。大海のあちらとこちらは、ずっと交流がなかったわけではない。少なくとも戦争が始まる少し前までは、人の行き来は止められていなかった。新大陸のどの国も国内で魔法を使うことを禁じていたから、魔法は海の向こうのものでありつづけたけれど。旧大陸の歴史や情勢、人々の暮らしぶりなどは、行って帰ってきた者の見聞録などで詳しく知ることができた。

 旧大陸の魔法圏は、魔法の力によって発展と繁栄を謳歌していた。

 一方で魔法からのがれて新大陸にたどりつき、魔法を締め出して新しい国をつくった開拓者たちは、魔法の力に負けまいとして〈科学〉の発展に力を注いだ。

 それは生存をかけた努力だった。魔法圏の団結によっていつ何時ひねりつぶされるかもわからない時代を耐えて、耐えて、耐え忍んで達成した非魔法圏の発展は、今や魔法圏の国々と見かけ上の差がないほどになった。

 でもその結果が、この戦争だ。

 セアンは閲覧机からすぐ後ろの本棚へ最小限に車輪を動かすと、頭より高い棚の背表紙の並びへ目をこらした。車椅子を寄せて横付けにし、腕を伸ばす。指先がやっと本の背の下のほうに届く。底を押し上げて抜こうとし、ない隙間をつつくがなかなかもどかしい。もうすこし緩めに本を並べておかないと、といつも思うのだが、本は処分しても処分しても溢れてばかりだからどうしても片付け屋のスーが張りきって詰め込んでしまうし、スーはいつでも自分を呼びつけてくださいよと言う。

 天井近くまでを占める本棚の上のほうなんて、梯子を使わなければどうせ管理できないのだから、スーを頼むしかないのはしょうがないのだが。

 親指の爪が剥がれそうな思いをしながらようやく背表紙の底をひっかけて、わずかに本が浮いた。ねらう個所が見えないから手探りのまま、指を差し込んで持ち上げて、それでも両側の本に迫られてなかなか動かないけれど、あとちょっと……あとちょっと……

 頭上に影がさしてセアンを覆い、指をかけていた本がふと軽くなった。

 ……どころか、宙に浮いて去ってしまった。

「どうぞ」

 ふりむいたセアンの鼻先に差しだされたその本。

 本を差しだしているサギ男。

「なんてことするの」

 声色が凍りつきそうに寒いのが自分でもわかった。

 思いもよらず睨みつけられてサギ男がたじろぐ。その反応に、お腹の中で腸が茹で上がるくらいの煮えくりかえる怒りを覚えた。

 ひったくるようにセアンは本を手にした。

 サギ男は端正な眉間にしわをよせて、空になった自分の手を見る。

「あなた、最低ね」

「ちょうど通りかかって、廊下から見えたので。……え?」

「最低ねって言ったのよ。わたしが何してるかわからなかったの?」

「この本を取りづらそうにしてたので、だから――」

「ご親切に、高いところの本がひょいと取れる健常な身体能力を惜し気もなく私のために恵んでくださったの、そう。それはどうも」

 あと少しでセアンの努力は報われるところだったのだ。

 やっと本が動いて取りやすくなった丁度いいところを、サギ男は自由に立って歩ける優位をいいことに簡単にかっさらっていっただけだ。

「なんなの、まだお礼が足りないかしら。どうもありがとう。だけれど今はそこを退()いてもらいたいの。机まで戻るから。いいえ一人で動かせるわ!」

 複雑そうな表情で言葉をなくしているサギ男にたたみかけた最中に、もうお節介な手がハンドルへ伸びようとしたから。

「すみません。ええと、そんな方針だと知らなくて。スーザンさんはよく移動を手伝ってるみたいだから。……なるほど、筋力を落としたくないんですね」

「そういう意味だと思う?」

 サギ男は困った顔で首をひねった。

 もののはずみのように、その視線がセアンの膝に置かれた本に落ちる。

「――『中立国法』?」

 とっさにセアンは両手で表紙を隠した。

 見られたのも隠すのも失態だと気づいた時には遅い。あわてた動作のせいで、本のタイトルが相手に見られたくないものであると知られてしまうだろう。

「ずいぶん難しい本を」

「仕事はどうしたの、サギ男。朝から何やら張りきっていたみたいなのに、家の中なんてぶらぶらして、ろくでもないわね」

「ああ、道具を、スーザンさんに教えられて廊下の用具置きに取りに来たんです」

 ふりかえって廊下を指差し、往復させるように動かした。

「だったらさっさと行って頂戴。目障りだって昨日も言ったわ」

「今日は身なりはちゃんと、今のところ……」

 言いかけて余計な言葉の多さに気づいたらしく、碧い目に照れた笑みを一瞬だけ浮かべてサギ男は早々に図書室を退散していった。

 彼の目は、日々刻々と色を変えてゆく海の、一番あざやかなときの碧色だった。

 海に揉まれて瞳に波の色が染み込んでしまったんじゃないかしら。

 もちろんそれは冗談だし皮肉だけど。でも、あの青年――サギ男は、そんな冗談さえ平然と受け入れるのかもしれない。素直に何でも女たちの言いつけを聞くのに、一方でどこか投げやりなところがある。彼はこの家に留め置かれている自分の状況にさえ疑問や不安をあらわそうとしない。

 『戦時中立国法』

 手元の箔押しタイトルをなぞりながら、セアンはセアンで、困った息をつく。

 知りたいこと、知るべきことが何なのか。それすらも見当がつかないままページを繰っていくのは、苦行だ。

 しばらくすると窓の外からガリガリと鉄を切る耳触りなノコギリの音が聞こえてきた。

 集中力がさらに散った。

 セアンは唇の端をきゅっときつく曲げて窓をみた。

 朝からサギ男がとりかかったのは昨日壊した水栓パイプの修理だ。修理というか、一から新しく作りなおすと宣言して勝手に作業をはじめた。セアンが命じたわけではない。

 取り置きのあった資材を納屋から運び、鉄パイプを切って、次は溶接のうるさい音が響きだすのだろうか。作業しているところと場所が近いから、、図書室に騒音被害が直撃している。普段ならスーが図書室でどたばたと掃除をしていてもまったく気にならないセアンだったけれど。

「スー。スー!」

 スーは台所から返事をよこし、ほどなく転がってくるように駆けつけた。

「お便所ですかお嬢様」

「いいえ。少し頭に血がのぼったから、テラスで涼んで休もうと思うの」

「あらあら、そりゃ大変でございますよ。お医者を呼びますか?!」

「いいえ、そういうんじゃないのよ」

(コン)をおつめになるからぁ」

 心配そうにされて、セアンは顔をしかめた。

 サギ男の闖入に逆上しただけだとは言いたくない。

 さっきのことはぜんぶ、とても嫌な出来事だった。サギ男の目の色に気を取られたところまで含めて、ぜんぶ。

「今日はお嬢様、朝から曇りが晴れませんねえ」

 一瞬、自分の機嫌のことかと思い、海の色をみて被害妄想だったと自覚した。

 灰色の空が水平線をあいまいにして、海から生気をなくさせている。

 こういう日の夜は、窓ガラスが結露して白くなる。

「だけど雨までは行きそうもないわね」

 ということは、騒音が一日つづくということだ。

 数日前まで滞りなく流れ過ぎていたセアンの心穏やかな日々は、どこへ隠れてしまったのだろう?

「スー、昨夜どこかで叫び声がしなかった」

「はあ、叫び声でございますか? そんなおっそろしいものは聞きませんでしたね。まさか人間のじゃないでしょうね。これ以上の物騒な面倒ごとはあたしゃごめんですよぉ。ウミネコですかね?」

「かしらねえ」

 車椅子と一緒に外へ出てうろうろしはじめたポイをセアンの話し相手に残し、スーは午前中の仕事を片付けに戻る。スーとふたりでサギ男への嫌みでも言いあって暇をつぶそうと思っていたのに。

 セアンは上手くいかない今日に苛立ちをつのらせてゆく。

 テラスの下から作業の騒音のまにまに、訥々と呟く声がした。

「……いいんだ……手伝わなくていい。自分でやる……」

 低くかすれた呟きに耳をすませて、セアンは思わず首を伸ばした。

 サギ男は誰に話しかけているのだろう?

「要らない……じっとしてろ、手を出さないでいい。一つ一つやるから……一つ一つ、自分の手で」

 話しかけている相手の返事は聞こえてこないのに、そこにいる誰か(・・)をおさえつけておきたいみたいに厳しく声音は響いた。厳しくて、暗かった。内向きな固い決意を秘めていた。

 セアンは車椅子を転がして、テラスのへりから身を乗り出した。

 階段の横で火花を散らして直線やL字のパイプとパイプを溶接しているサギ男は、独りだ。独りきりの孤独な背中だった。

 果樹園のマクビーじいさんから借りてきたのだろう防虫処理用のバーナーを、火力を最大にして扱うサギ男の防護グラスをつけた横顔が、オレンジに輝いて明滅するようだった。

「くそっ、曲がった!」

 悪態をすぐ近くに聞いてしまい、そういう言葉に慣れないセアンは肩を震わせる。

「いや、俺がやる」

 また独り言。

 怒っているみたいに。

 ふたたび噴水みたいな火花があがり、オレンジ色に染まった横顔には、喜怒哀楽を取りはらった集中の意志だけが浮かんでいた。

「ここは非魔法圏なんだ」




 その午後、砂の上に横たわっていたのは、灰色のウミヘビがひからびて死んでいるようなグネグネくにゃくにゃの鉄くずだった。

 溶接技術がなくて接着部はギザギザのボコボコ。バランスが悪くてまっすぐ立たないどころか、眠くて眠くてしかたないキリンみたいに地面にキスをしたがった。

 とんでもない失敗作だった。

「これが終わったら、ここを出て行こうと思います」

 紅茶のマグを両手で包みながら、サギ男は言った。

「あら嬉しいわね。もちろん嫌みだけれど」

 修理の見通しも立たないくせに……。

「スーザンさんの言われた修繕箇所も平行してやってしまいます、それまでに」

「出ていってどうするの? 得意になって言い触らすのかしら、崖の家の娘はとんだ尻軽で、俺の甘い言葉ですぐなびいたよ。とか? そんな噂が立ってしまったら嘘をまことにして結婚しなくちゃ女のほうは体裁がたもたれないものね。あら簡単に財産獲得」

「ずっと座ってるのに尻軽はないな」

 その言葉がちょうどテラスに出てきてパラソルの下におやつを置いたスーの耳に入り、彼女を唖然とさせた。

 冗談には良い悪いがある、とスーはカンカンに噴火した。

「待って、スー。そこは流して。聞き捨てならないのは勝手にこの家を出ていこうとしているところよ。今はそれを問いただしているところなのよ」

「僕がここにいることで、スタチェットさんに迷惑がかかるんじゃないかと思う。とにかく僕には、僕が結婚詐欺師だという意識や記憶はない。過去を失う前は悪人だったかもしれないけど、今の僕は空っぽだ。少なくとも、この家にこれから何か酷いことをしようという予定のないことだけは誓えるし、誓いたい。神かけて」

 碧い目が真摯にセアンを見ていた。

「だったら書き置きでもしてそっと消えればいいのよ」

「ちゃんと言っておきたかった。セアンさんが心配しないように」

「悪人でございますなんて言う悪人はいないし、神に背くことも平気なのが悪人というものなのだから、あなたが何を誓ったってしょうがないの。わかる?」

 サギ男はしかし首を振る。

 そして目を閉じた。

「神は何度でもチャンスを与えてくださる。神は最初から悪人と善人をわけてしまっていたりはしない。今この僕は、何者でもない。たとえ過去に、人からは許されようのない悪人であったとしても、償いのために生きる自由は残される。そうでなければ人間に、これほど長い一生の時間は必要ない」

 出て行ってどうするつもり。

 言いかけて、セアンは口をむすぶ。

 セアンには関係ない。

 浜辺で拾った青年の行く末への義理もない。

 迷惑さえかけられずにすむならば。

 セアンを放っておいてくれるのならば。

「いいわ。勝手にすればいいわ」

 セアンはサギ男の本心(たくらみ)への疑いと、心穏やかな日々とを秤にかけた。

 騒々しい厄介の種にはとっとと出ていってもらおう。平穏な日々を取り戻そう――。

 切にそう願う心を胸の真ん中に見つけた。

「どこへ行ってもスタチェットの名前は出さないでほしいわ」

 サギ男はしっかりと頷いてセアンを見つめた。

「約束します」

 切り分けられたおやつのゼリーはサギ男のぶんが極端にうすっぺらい。

 さっきの悪い冗談を腹に据えかねたスーによる懲罰だ。

「猫の涙のゼリーね、スー」

 エメラルド色の色素で色付けした透きとおるゼリーの底には果樹園で採れた大粒種の白ブドウがひしめいて沈んでいる。涼しげな見た目が銀食器にあう。これはスタチェット家に伝わるお菓子だ。

「とある路地裏住まいの猫が」

 いわくありげにスーが語りはじめる。

「街の家々の屋根から屋根を渡り歩いているときのこと、ある窓辺の猫に恋をしましたとさ」

「置物の猫だったんだ。窓に飛びついたら落っこちて割れてしまったってオチだろ」

 シロップのしみたブドウ粒をフォークでつつきながらサギ男がしたりと口走った。

 思わず顔を見合わせてスーとセアンが目をほそめる。

 不穏な雰囲気に顔をあげたサギ男は、女ふたりの白けきった表情を見いだしてびっくりしたように上体をのけぞらせた。

「え――」

 無言の軽蔑がつきささる痛みでサギ男は涙目に追い込まれた。

「このお話をするとねえ、かならず殿方が先走ってオチを言い当てるんだ。そんであたしたち女どもに呆れられ、白けられて、涙目になりながらデザートを食べる羽目になるってジンクスがあることから、猫の涙のゼリーと名前がついたのでしたとさ」

「ところが気取り屋トニーだけは首都の皮肉屋たちのセンスとは違ったわね。『きっと君みたいに金色の美しい毛並みをした美人な猫だったんだね』ときたものよ。あの人の言う毛並みって、家柄のことでしょうね」

「素直に心から褒めたのかもしれないじゃないか」

 ひょうひょうと立ち直ってゼリーを味わうサギ男が、ぼそりと口を挟んだ。

「一方、都会の詐欺師はこうよ。他人をダシに自分を善い人間に見せようとするの」

「どうしてそんなに人を信用しない……?」

 疑問を深めた目でサギ男がセアンを見て、首をかしげる。

 だがすぐゼリーにうつむいて、セアンの激昂を用心しながら、言い足した。

「セアンさんみたいに頭の働く人を騙せる人間も、そうはいないと思うけどな」

「こういう私だから利用したがる人間が、中央にはいるのよ」

 セアンは小さいころから弁が立つこどもだった。

 賢しく大人の口まねをして、政治家のスピーチなど一回聞くと丸ごとおぼえてしまうから周りにおもしろがられた。父はセアンの賢さを誇りに思って、家族同伴の公の場には必ず連れていった。見上げるような人の壁に低いところ(・・・・・)で囲まれても物怖じしない社交性を娘に自然と獲得させたのだ。セアンの周りには人の輪ができた。闊達な弁舌に惹かれた人たちの中心でセアンはいい気になって、望まれる役割を実演していった。上流階級の婦人や娘たちにとって慈善事業への貢献は当たり前の義務であり、恵まれた者であることを証明するステイタスだ。セアンの経験とスピーチ力はこの上ないシンボルとしてひっぱりだこになった。父は娘のために、“下肢障害の子供たちのためのセアン・スタチェット基金”なるものをわざわざ立ち上げてセアンを名誉主管とした。それが小学校卒業の記念で、中学校卒業の記念にもう一つ基金は増えた。“貧困世帯への車椅子普及のためのセアン・スタチェット基金”。一つ目のころは自信に満ちた顔をして壇上に上がったが、二つ目のころにセアンの気持ちは前を向けなくなっていた。日々の中で感じるようになった疑問が膨れて、道を見失っていた。

 必要とされる場所で輝くことに毎日を忙しく費やしていたセアンだが、学校ではいつも独りだった。友達はみなセアンに優しかった。代わる代わる車椅子を押してくれたし、家で勉強会だってした。けれど、ふとした瞬間に、気がつくとセアンは教室で独りだった。よく晴れた日の休み時間にみんなが校庭へ駆け出していってしまったとき。廊下の壁にもたれて女の子たちが噂話しているとき。彼女たちが身体を使ってふざけたりじゃれあったりしているとき。

 自分は脚が動いて自由に歩ける彼女たちとは違うのだ、とても違うものなのだ、と感じた。

 スタチェット家で基金の催しがあった夜、寝室で宿題をしたあと寝る時間をずらして遅くまで慈善パーティのスピーチ原稿をいくつも書いていて、原稿の五本目で突然前触れもなく涙が止まらなくなったことがある。級友たちは、今日は街で評判のアイスクリーム店に寄って、公園の湖のボートに乗って遊んで帰るのだとか話していた。家の車に送迎されるセアンにはできない楽しみだ。遊び疲れた彼女たちがぐっすり眠っている時間に、自分は婦人たちの香水の香りに悪酔いしてうすら痛む頭をかかえて、お金お金お金を寄せ集めるための素敵な言葉をひねり出そうとして唸っている。――

 今ならわかる。

 娘にたいそうな肩書きと役割を与えてくれた父は、人より欠けたるところがあるセアンに一つでも確かな誇りをもたせたかったのだろう。

 人と違う自分を嘆いたり、引け目を感じることのないように。そういう意識の芽生える前に、武器となる長所を伸ばしてくれた。

 大人たちによって敷かれた道だったのだ。

 それをセアンはずっと、天の定めかなにかと思い込んでいた。

 望まれるまま、一生懸命にやった。

 でも、あの夜に思ったのだ。自分が書いているスピーチの中に、どれだけ本当のことがあるのだろう、と。セアンのスピーチ力や文才は、初めから口まねだった。経験や資料を織り込んで話すようになっても、口まねしていた型は消えない。型。そう、型だ。起承転結。スピーチも小説も作り方は同じ。目次のない小説はない。序章があって、第二章、第三章、、、最終章でハッピーエンド。あるいは悲劇的な終わり。

 人間の日々には区切りなどないのに。

 目的のある言葉はつくりものだ。お手洗の帰りがけ、階段の踊り場でふいに立ち止まって、思い出したようにはじまる起伏のないおしゃべりが本物の言葉だ。

 自分は彼女たちみたいに歩けなくてつまらない、車椅子があったって入って行けない場所はある――これがセアンの本当の言葉だった。

 そうスピーチしたら、どうなるだろう。きっとシンボルの役目はお払い箱だ。

 〈あの場所〉では車椅子つきのセアンが求められている。

 車椅子を降りて湖のボートに乗りたければ誰かの手を借りなければならない。だけど他愛のないおしゃべりって、誰かの手を煩わせてまでしてするようなものだろうか。そうまでしてセアンは、湖のボートに乗りたくない。そこではセアンは求められてもいない。

 考えはじめるとセアンは以前のように堂々とスピーチができなくなった。さらに、進学への不安が重なった。寄宿生活をしなくてすむ高校は首都にはなくて、今まで家政婦にしてもらっていたこともすべて友達に助けてもらわなければならないと思うと自尊心が疼いた。

 セアンは進学をやめにした。

 ついでに一切の慈善活動からも退いた。

 そしてセアンは首都の社交界から逃げるようにスタチェット家の所有する海辺の家に引きこもった。

 あれからいつのまに、五年が過ぎた。

「利用するだけされていたのよ」

 天の定めに生真面目に尽くしていたセアンは、ばかばかしい楽しさで溢れているべき子供時代を、楽しむこともなく失ってしまったように思う。

 遥か遠くひなびた海辺から、首都時代の多忙な毎日を思い返すと、〈失われた子供時代〉に涙が出てくる。

 今の暮らしが、のんびり穏やかな幸せの日々であればあるほどに。

「利用されてた?」

 セアンの感傷のかやのそと(・・・・・)からサギ男が首をひねった。

「私の足の不自由さのせいだし、私が継ぐお金のせいよ」

 吐き捨てたセアンをサギ男は取り残されたように見ている。

 彼が助けを求めてスーを仰ぐと、

「お嬢様は、チャリティの女王とお呼ばれになってたんですよ」

 スーは胸を張ってお嬢様を自慢してみせた。

 やっとつながった話にサギ男が納得の表情を浮かべた。

 けれど彼はちょっとのあいだ考える顔をした。そして首を横に振った。口元は何かを言いたげだったが、セアンの顔色を見ながらサギ男は何も言わなかった。

「言いたいことがあるなら言いなさいよ。気持ちが悪いわ」

 その瞬間、とても強い光をはらんだ碧い目がセアンを見つめていた。

「利用されても、少しでも救われる人がいるならそれでいいんじゃないかな」

 そう言って、急にサギ男は目を伏せた。

 セアンは肩をすくめる。

「そうね、それはもっともな意見だと思うわ。立派な行動の理由よ。何よ、私が怒ると思ったの? あなたは間違っていないわよ。そういう(こころざ)しをもてる人は折れないでしょうね。でも」

 サギ男の苦しげな顔つきと彼の目の中で揺れうごく光に気をとられながら、セアンは口にしたことのなかった思いを言葉にしていた。

「でもあのころ、それは私の本当じゃなかった。だって私は、飢えた子供も、治らない病気で死にかけた子供も、この目で見たことはなかったんだもの」



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