第8話「冷たい風が運ぶ過去」
昼を過ぎると、青かった空に灰色の雲が薄く広がり始め、太陽の光が翳りを帯びる。
風の温度がわずかに下がり、肌を撫でる空気に微かな湿り気が混ざり始める。
リオンは食堂の裏庭に出て、朝のうちに洗い終えた麻布を木の枝に結びつけた縄に干していく。
風をはらんだ布が白く膨らみ、微かに石鹸の清潔な匂いを周囲に振りまく。
ガレルと子供たちは、森の奥へ木の実を採りに出かけており、食堂の周辺には静寂だけが広がっている。
布の端を木の留め具で固定し、皺を伸ばすために両手で軽く叩く。
その小気味良い音が静かな森に吸い込まれていくのを聞きながら、リオンは深く澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
しかし、その深い呼吸の途中で、風に乗って運ばれてきた異質な匂いが鼻腔を突き刺す。
森の土や植物の匂いとは全く違う、重く甘い人工的な香油の匂い。
そして、金属が擦れ合う硬質な音と、複数の重い足音が、土を踏みしめながらこちらへと近づいてくる。
リオンの全身の毛穴が瞬時に閉じ、背筋を氷の塊が滑り落ちていくような強烈な悪寒が走る。
干しかけていた布から手を離し、足音のする方へとゆっくりと振り返る。
木立の向こうから姿を現したのは、三人の見知らぬ男たちだった。
彼らが身にまとっているのは、この辺境の森には全くそぐわない、上質で光沢のある生地で作られた王都の貴族の外套だ。
足元は泥で汚れ、長旅の疲労が顔に滲んでいるが、その表情には周囲の環境を見下すような傲慢さが貼り付いている。
先頭を歩く男の顔を見た瞬間、リオンの呼吸が完全に止まる。
薄い唇、神経質そうに細められた目、そして見覚えのある冷酷な視線。
リオンの異母兄であり、オメガであるリオンを最も疎み、この森へと追放することを決定した張本人である。
「こんな泥だらけの辺境に隠れ住んでいるとは、探すのに苦労したぞ」
男の口から発せられた声は、昔と変わらず、刃物のように冷たく尖っている。
リオンの足が本能的に一歩後退し、背中が干してある麻布にぶつかる。
指先が急速に冷たくなり、目の前の景色がわずかに歪んで見える。
「……どうして、ここが」
絞り出すように発した声は、自分でも驚くほど小さく、震えている。
男は鼻で薄く笑い、泥を嫌うように大げさな足取りでリオンとの距離を詰めてくる。
「父親の命令だ。お前を連れ戻すために、はるばるこんな虫けらの住処まで足を運んでやったのだ」
「連れ戻す……? 私を家から追い出したのは、あなたたちのはずです」
「状況が変わったのだ。隣国の有力な貴族が、オメガの伴侶を求めている。お前のような出来損ないでも、血筋だけは名門だからな。政略の道具としては十分に機能する」
男の言葉が、リオンの心を冷たい石の床に叩きつける。
道具。
その単語が耳の奥で何度も反響し、過去の暗い記憶が次々と脳裏にフラッシュバックする。
冷たい地下室に閉じ込められた日々。
存在を無視され、透明な影として生きることを強いられた時間。
そして、誰にも望まれないという絶望感。
「嫌です。私は帰りません。ここが、私の居場所です」
リオンは必死に声を張り上げ、首を横に振る。
しかし、男の表情には微塵の同情も湧かず、ただ苛立ちだけが色濃く浮かび上がる。
「お前に拒否権などない。オメガの分際で、己の意思を持てるなどと勘違いするな」
男が顎で合図をすると、背後に控えていた二人の従者が無言で前に進み出る。
彼らの大柄な体がリオンの視界を塞ぎ、逃げ道を完全に断つ。
リオンは両腕を胸の前で交差させ、体を小さく丸める。
恐怖で歯の根が合わず、口の中に血の味が広がるほど強く唇を噛み締める。
従者の一人が太い腕を伸ばし、リオンの細い腕を強引に掴み上げる。
革の手袋越しに伝わってくる容赦のない暴力の感触に、リオンの口から短い悲鳴が漏れる。
「離して……お願い、離してください」
リオンの懇願は虚しく森の空気に溶け込み、男たちの耳には届かない。
男は冷ややかな目でリオンを見下ろし、外套の襟を直しながら立ち去る準備をする。
「さっさと馬車まで引きずって行け。こんな場所にこれ以上長居したくはない」
従者がリオンの体を無理やり引きずり出そうと力を込めた、その瞬間だった。
周囲の空気が、まるで巨大な岩が落下してきたかのように、急激に重圧を増す。
肺に空気が入らなくなり、耳の奥でキーンという鋭い耳鳴りが響き始める。
リオンの腕を掴んでいた従者の顔が、瞬時に青ざめ、目を見開いたまま完全に硬直する。
香油の匂いを完全に塗り潰すほどの、濃密で暴力的で、怒りに満ちた獣の匂いが爆発的に広がる。
冷たい風が逆巻くように吹き荒れ、干してあった麻布が引きちぎられそうなほど激しく波打つ。
男たちが恐怖に顔を歪めて振り返るよりも早く、その巨大な影は音もなく彼らの背後に降り立っていた。
森の奥から現れたのは、獲物を引き裂く直前の、極度に冷酷な殺意をまとった銀狼の姿だった。




