第6話「甘い香りと溶けゆく壁」
オーブンの扉を開けた瞬間、熱気とともに濃厚なバターと小麦の焼ける匂いが厨房いっぱいに広がった。
鉄の天板の上に整然と並べられた丸い焼き菓子は、表面が美しいキツネ色に色づき、所々にひび割れができて美味しそうな表情を見せている。
リオンは厚手の布巾で天板を掴み、火傷しないように慎重に木の台の上へと移した。
まだ熱を持った生地から立ち上る甘い香りが、鼻腔をくすぐり、胃袋の奥を優しく刺激する。
厨房の入り口では、ルカとミーナが鼻をヒクヒクさせながら、天板の上の焼き菓子を食い入るように見つめていた。
「もう少しだけ待ってね。焼きたては熱すぎて火傷してしまうから」
リオンが優しく声をかけると、二人は小さく頷きながらも、足踏みをして落ち着かない様子だ。
少し離れた椅子に座っているガレルも、その匂いに惹かれたのか、静かに立ち上がって厨房の方へと近づいてきた。
「……良い匂いだな。甘いような、香ばしいような」
「木の実を少し砕いて混ぜてみたんです。ガレルさんが持ってきてくださった実が、とても風味豊かだったので」
リオンは焼き菓子が少し冷めるのを待ってから、木の皿に山盛りに乗せ、冷たい井戸水で淹れた果実水と一緒にテーブルへと運んだ。
皿が置かれるや否や、ルカとミーナは小さな手を伸ばし、焼き菓子を一つずつ掴み取った。
口の周りに粉をつけながら、夢中でサクサクと噛み砕く音が静かな食堂に響く。
ミーナは一口食べるごとに目を細め、短い尻尾をパタパタと振って全身で喜びを表現している。
ルカは食べる手を休めず、リオンの方をチラチラと見ながら、どこか照れくさそうに頬を赤く染めていた。
「ガレルさんも、どうぞ」
リオンが皿を押しやると、ガレルは少し躊躇するような仕草を見せてから、焼き菓子を一つ手に取った。
彼の大きな手の中で、焼き菓子はまるで小石のように小さく見える。
ガレルはそれをゆっくりと口に運び、静かに咀嚼を始めた。
サクッという軽い音の後に、口の中に広がるバターの豊かな風味と、木の実の香ばしい歯ごたえ。
ガレルの金色の瞳がわずかに見開かれ、驚きと感嘆の色が浮かぶ。
「……うまい。甘すぎるものは得意ではないが、これは違う。味が深く、それでいて後味がすっきりしている」
「良かったです。お口に合うか心配だったんですが」
リオンはほっと胸を撫で下ろし、自分も焼き菓子を一つ手に取った。
三人で囲むテーブルの風景は、嵐の夜に初めて出会った時のような緊張感はもう微塵もなかった。
ミーナが食べ終わったお皿を持って、トコトコとリオンの足元にやってきた。
「あのね、これ、もっと食べる」
ミーナが小さな両手を広げておねだりをする姿に、リオンは目を細めてしゃがみ込んだ。
「いいわよ。でも、夕ご飯が食べられなくなっちゃうから、あと一つだけね」
リオンが新しい焼き菓子を渡すと、ミーナは嬉しそうにそれを受け取り、そのままリオンの膝の上にちょこんと座り込んだ。
リオンは少し驚いたが、ミーナの小さな背中を優しく撫でてやる。
ミーナの黒い熊の耳が心地よさそうにピクピクと動き、柔らかい髪の毛から甘い子供特有の匂いが漂ってくる。
その様子を見ていたルカが、少し面白くなさそうな顔をして唇を尖らせた。
「オレも、もっと食べる」
ルカはドタドタと走ってきて、リオンの反対側の膝に無理やり入り込もうとした。
リオンは笑いながらルカも抱き寄せ、二人の小さな体を両腕の中に収めた。
二人の体温が衣服越しに伝わってきて、リオンの胸の奥をじんわりと温めていく。
王都にいた頃、オメガであるリオンは子供を持つことなど許されないと教え込まれてきた。
誰かを抱きしめ、無条件の愛情を注ぐことなど、自分には一生縁のないことだと思っていた。
しかし今、この小さな命の温もりを両腕に感じている。
リオンは二人の頭にそっと顎を乗せ、目を閉じてその温かさを深く味わった。
ふと視線を上げると、テーブルの向こうでガレルが静かにこちらを見つめているのに気づいた。
ガレルの金色の瞳には、これまで見たことのないような、深く複雑な感情が渦巻いている。
それは、子供たちへの愛情と、リオンが彼らに与えている温もりへの羨望、そして、何かを強く求めているような、静かだが圧倒的な熱を帯びた光だった。
ガレルの視線がリオンの顔から腕の中の子供たちへ、そして再びリオンの目へと戻る。
その視線が交差した瞬間、リオンの心臓がトクリと大きく跳ねた。
アルファとしての威圧感ではなく、一人の男としての強い想いが、言葉を持たずにリオンの奥底へと直接流れ込んでくるような感覚。
ガレルはゆっくりと席を立ち、リオンのすぐそばまで歩み寄った。
彼の大きな影がリオンをすっぽりと包み込み、森の冷気と獣の匂いが濃密に漂ってくる。
ガレルは太い腕を伸ばし、リオンの膝の上にいるルカとミーナの頭を、大きな手で無造作に撫でた。
その手が、ほんのわずかにリオンの肩に触れる。
布越しに伝わるガレルの体温は驚くほど高く、触れた部分から火がつくように熱が広がっていった。
「……リオン」
ガレルの低く掠れた声が、リオンの名前を呼ぶ。
たったそれだけの言葉に、隠しきれない庇護欲と、独占したいという衝動が滲み出ているのを、リオンは敏感に感じ取った。
リオンは息を呑み、ガレルの金色の瞳を見上げる。
言葉にしなくても、二人の間に生まれた新しい感情の波が、静かに、しかし確実に壁を溶かし始めているのを感じていた。




