第10話「朝霧に溶ける傷跡」
窓の隙間から忍び込んだ冷たい空気が、リオンの頬をそっと撫でて通り過ぎていく。
薄い毛布の縁を両手で引き上げながら、リオンはゆっくりと重い裏蓋を押し上げるようにして目を開けた。
視界の端にある小さなガラス窓には、森の木々を白く覆い隠す深い朝霧が立ち込めているのが見える。
まだ太陽は完全に昇りきっておらず、部屋の中は青みがかった薄暗い光に満たされていた。
リオンはベッドの上に身を起こし、自分の手のひらを目の前にかざしてじっと見つめた。
昨夜、ガレルの大きく熱い手に包み込まれた時の感触が、まだ皮膚の下で微かな火種のようにくすぶっているのを感じる。
低く、地響きのように響いたその声が耳の奥で再生されるたび、リオンの胸の中心からじんわりと甘い熱が広がり、指先まで血液が巡っていくのがわかる。
王都の冷たい石造りの館で、誰の視界にも入らない透明な存在として息を潜めていた日々。
自分はオメガという道具に過ぎず、誰かに求められることなど一生ないと諦めきっていた過去。
それらの暗い記憶が、ガレルの発した熱と誓いによって、窓の外の霧のように白く薄れ、消え去ろうとしていた。
リオンは深く静かな呼吸を1つ繰り返し、冷たい板張りの床に裸足を下ろした。
足の裏から伝わる冷たさが、今自分が生きているこの森の現実をはっきりと教えてくれる。
寝室を出て厨房へと向かうと、昨夜のままの静寂が食堂全体を包み込んでいた。
長椅子の方に視線を向けると、ガレルの大きな背中と、その懐に丸まり込むようにして眠る2人の子供たちの輪郭が、薄暗闇の中に浮かび上がっている。
リオンは足音を立てないように慎重に歩みを進め、麻のエプロンを首からかけて背中の紐をきつく結んだ。
冷たい井戸水を木桶に汲み、顔を洗って水気を拭き取ると、指先の感覚が鋭く引き締まっていく。
暖炉の灰を丁寧にどかし、まだ微かに赤みを帯びている種火の上に細い枯れ枝を乗せる。
ふいごで静かに空気を送り込むと、小さな炎がチリチリという音を立てて枯れ枝に燃え移り、やがて太い薪へと勢いよく燃え広がっていった。
火の熱が顔を照らし、冷え切っていた厨房の空気がゆっくりと温度を上げていく。
リオンは木の台に向かい、昨夜のうちに仕込んでおいたパン生地が入った丸い鉢を引き寄せた。
麻布をめくると、酵母の働きによって大きく膨らんだ生地が、微かな酸味と甘さを帯びた匂いを放っている。
台の上に白い打ち粉を薄く広げ、鉢から生地を取り出して両手で包み込むようにして押す。
手のひらに伝わる生地の感触は、驚くほど柔らかく、まるで赤ん坊の頬に触れているかのような弾力を持っていた。
生地の中の空気を抜きながら、均等な大きさに切り分け、表面が滑らかになるように丸め直していく。
丸められた生地を鉄の天板の上に等間隔に並べ、再び布を被せてから、オーブンの温度が上がるのを静かに待つ。
次に、厚手の鍋を火にかけ、小さく刻んだ燻製肉と玉ねぎを炒め始める。
肉の脂が溶け出し、玉ねぎの縁が透き通るにつれて、香ばしく食欲を刺激する匂いが厨房いっぱいに満ちていった。
そこに大きく乱切りにした根菜と、たっぷりの水を注ぎ込む。
水面が静かに波打ち、鍋の縁から細かな気泡が立ち上がり始めるのを見つめながら、リオンは木のヘラをゆっくりと動かした。
背後の床板が微かに軋む重い音がして、リオンの肩がびくっと小さく跳ねる。
振り返ると、ガレルが乱れた銀色の髪を手で無造作に掻き上げながら、厨房の入り口に立っていた。
金色の瞳はまだ少し眠気を帯びているが、リオンの姿を捉えた瞬間、その光が柔らかく穏やかなものへと変化する。
「……早いな」
低く掠れた声が、朝の静寂を優しく震わせる。
「おはようございます。パンの焼き上がりに合わせて、スープを作っていたところです」
リオンが微笑みながら答えると、ガレルはゆっくりとした足取りでリオンのそばまで近づいてきた。
彼から漂う森の土の匂いと、微かな獣の体温が、リオンの肌を包み込むように重なる。
ガレルは鍋から立ち上る湯気を無言で見つめ、それから視線をリオンの横顔へと移した。
大きな手がゆっくりと持ち上がり、リオンの頬にかかっていた細い髪の毛先を、太い指先でそっとすくい上げる。
指先が微かに肌に触れ、そこから火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
「……昨夜は、よく眠れたか」
「はい。今まで生きてきた中で、一番深く、安心して眠ることができました」
リオンが真っ直ぐにガレルの瞳を見つめ返して言うと、ガレルの口元がわずかに綻んだ。
その不器用で、けれど限りなく優しい微笑みに、リオンの胸の奥にあった最後の小さな強張りが、音もなく完全に溶け落ちていくのを感じた。
オーブンから漏れ出すパンの焼ける甘い匂いと、鍋で煮立つスープの香ばしい匂いが混ざり合い、2人の間の距離をさらに密接なものにしていく。
食堂の奥からは、ルカとミーナが小さな足音を立てて目を覚ます気配が聞こえてくる。
新しい1日が、これ以上ないほどの温かさと確かな居場所の感覚を伴って、静かに始まろうとしていた。




