第1話「嵐の夜の来訪者」
登場人物紹介
◆リオン
人間の青年。
22歳。
オメガ。
名門貴族の生まれだが、オメガであることを理由に家族から見捨てられ、国境の森の奥で小さな食堂を営んでいる。
控えめで心優しい性格。
派手な魔法や技術は持たないが、食べる人の心を温める素朴で美味しい家庭料理を作る才能がある。
過去の経験から自己評価が低いが、ガレルや子供たちとの関わりを通じて少しずつ自信を取り戻していく。
◆ガレル
獣人国の王。
28歳。
銀狼の獣人で強力なアルファ。
威厳に満ちた堂々たる体躯と鋭い眼光を持つが、根は誠実で不器用。
激務の傍ら、身寄りのない獣人の子供たちを保護して育てているものの、彼らとの接し方に悩んでいる。
リオンの作る料理と、彼自身から漂う穏やかで甘い匂いに本能レベルで惹きつけられ、不器用ながらも深い愛情と強い庇護欲を注ぐようになる。
◆ルカ
ガレルが保護している孤児。
赤狐の獣人の男の子。
6歳。
警戒心が強く、最初はリオンに対しても尖った態度をとるが、甘い焼き菓子と優しい撫で方にほだされ、誰よりもリオンに懐くようになる。
◆ミーナ
ガレルが保護している孤児。
子熊の獣人の女の子。
4歳。
おとなしく引っ込み思案。
食べることが大好きで、リオンの作るふわふわのパンに夢中。
リオンを本当の母親のように慕う。
厚い雲が空を覆い隠し、昼間だというのに森の中は夜のように暗かった。
窓ガラスを無数の水滴が激しく打ち据え、木造の古い建物全体が時折きしむような高い音を立てて揺れる。
森の奥深く、国境近くにひっそりと建つ小さな食堂の厨房で、リオンは一人、まな板に向かっていた。
使い込まれて中央がわずかにへこんだ木のまな板に、鉄の包丁が当たる乾いた音がリズミカルに響き渡る。
硬いオレンジ色のニンジンが等間隔で輪切りにされ、みずみずしい断面から土の香りとわずかな甘さが混ざり合った匂いがふわりと立ち上った。
リオンは切り分けた根菜を両手ですくい上げ、火にかけられた大きな鉄鍋の中へと静かに滑り込ませる。
澄んだスープの表面が小さく波打ち、肉と野菜の旨味が溶け込んだ濃厚な香りが白い湯気となってリオンの顔を包み込んだ。
木製の玉じゃくしを底まで沈め、焦げ付かないようにゆっくりと大きな円を描くようにかき混ぜていく。
とろみのついた黄金色の液体が、重たげに渦を巻きながら鍋の中でゆっくりと循環する。
鍋の底から上がってくる大小の気泡が表面で弾けるたび、食堂の冷え切った空気に家庭的な温かい匂いが満ちていった。
この森の奥深くに身を隠すようにして小さな食堂を開いてから、どれくらいの季節が過ぎたのか、リオンは正確な日数を数えることをとうの昔にやめている。
王都の華やかな貴族の館で、ただオメガとして生まれたというだけで冷たい視線を浴びていた日々は、今では遠い幻のように感じられた。
ここでは誰もリオンを軽蔑の目で見ないし、価値のない道具として扱う者もいない。
時折立ち寄る旅人や森の住人たちは、ただリオンの作る温かい食事を求め、満たされた顔をして帰っていく。
それだけで十分だと、リオンは鍋から立ち上る湯気越しに揺れる暖炉の炎を見つめながら静かに目を伏せた。
突然、ひときわ強い突風が建物を叩き、窓枠が悲鳴のような音を立てて激しく震えた。
隙間から入り込んだ冷たい外気が床を這うように広がり、リオンの足首を冷ややかに撫でていく。
リオンは思わず肩をすくめ、麻の素朴なエプロンの上から自分の両腕をさすった。
気温が急激に下がっているのを感じ、棚の奥に置かれていた古いランプに火を灯す。
オレンジ色の小さな炎がガラスの覆いの中で揺れ、くすんだ石造りの壁にリオンの細い影を長く引き伸ばした。
今日はもう誰も来ないだろう。
この嵐の中を好んで歩く者など、深い森に住む魔獣でさえあり得ない。
鍋を火から下ろして明日の仕込みに回そうと考えたその時だった。
分厚い樫の木で作られた入り口の扉が、外から重たい何かで打ち付けられたような鈍い音を立てた。
風のいたずらかとも思ったが、続く音は明らかに意思を持って扉を叩くリズムを刻んでいる。
「こんな夜に……」
リオンは戸惑いながら玉じゃくしを置き、ランプを片手に持ち上げて薄暗い土間へと足を踏み出した。
近づくにつれて、扉の向こうからくぐもった重い息遣いと、雨の音に混じって微かな衣擦れの音が聞こえてくる。
リオンは用心深く金属の掛け金を外し、重い木の扉をゆっくりと手前に引いた。
途端に、冷たい雨の匂いと強烈な風が室内に吹き込み、ランプの炎が激しく揺れて消えそうになる。
扉の向こうに立っていたのは、視界を塞ぐほどの大柄な男だった。
全身はずぶ濡れで、銀色の長い髪が顔に張り付き、水滴が顎の先からとめどなく床へと滴り落ちている。
濡れた衣服越しでもわかる分厚い胸板と、丸太のように太い腕は、彼がただの人間ではないことを無言で物語っていた。
男の背後で稲妻が閃き、一瞬だけ白く照らされたその頭部には、人間にはない獣特有の鋭い耳が見える。
銀狼の獣人だ。
それも、ただの獣人ではない。
男の体から滲み出る空気が、あまりにも重く、濃密で、肌を直接刺してくるような圧迫感を持っていた。
アルファだ。
リオンの細胞の奥底に眠るオメガとしての本能が、目の前の存在が持つ危険なほどの強さを察知して警鐘を鳴らす。
喉が干上がり、心臓が胸の骨を突き破りそうなほど激しく打ち始めた。
男の鋭い金色の瞳が、獲物を定めるようにリオンを真っ直ぐに射抜く。
呼吸の仕方すら忘れてしまいそうな威圧感に、リオンの足がわずかに後ずさった。
しかし、男は襲いかかってくる気配を見せず、ただ荒い息を吐きながらその場に立ち尽くしていた。
よく見ると、男の太い両腕には、大きめの黒い外套で包まれた二つの小さな塊が抱えられている。
外套の隙間から覗いていたのは、雨に濡れて毛束が細くまとまってしまった赤い狐の耳だった。
その下には、警戒心をむき出しにした琥珀色の瞳が、怯えと敵意を混ぜ合わせたような強い光を放ってリオンを睨みつけている。
泥だらけの小さな手が、男の服の胸元を必死に掴んで離さない。
もう一方の腕に抱かれた塊からは、丸くて黒い熊の耳が頼りなく垂れ下がっていた。
こちらは顔を見せることすら恐ろしいのか、男の腕の奥深くに顔を埋め、小刻みに震える背中だけを見せている。
子供だ。
それも、まだ親のぬくもりが必要なほど幼い獣人の子供たち。
「……嵐で、道を見失った」
男の口から紡がれた声は、地響きのように低く、それでいて酷くひび割れていた。
「助けてくれとは言わない。ただ雨風をしのげる場所を探している」
リオンの胸の奥で、恐怖よりも先に別の感情が小さく、けれど確かに芽生え始めた。
自分を威圧するアルファの気配よりも、冷たい雨に打たれて震える小さな命の気配が、リオンの足を前に踏み出させた。
「どうぞ、中へ入ってください」
リオンは男から視線を逸らさず、それでもできるだけ柔らかい響きになるように声の調子を整えた。
男の金色の瞳がわずかに見開かれ、驚きを含んだ光がその奥を通り過ぎる。
「……恩に着る」
短い言葉とともに、男は重い足取りで食堂の中へと足を踏み入れた。
床板が軋み、ずぶ濡れの外套から落ちた水滴が水たまりを作っていく。
リオンは素早く扉を閉め、外の暴風雨を分厚い木の板の向こう側へと締め出した。
急に静かになった室内には、男の荒い呼吸音と、暖炉で薪がはぜる音だけが響いている。
リオンはランプを近くの棚に置き、急いで奥の部屋から清潔な布を何枚も抱えて戻ってきた。
男は入り口の近くに立ち尽くしたまま、腕の中の子供たちをどう下ろすべきか迷っているように見えた。
その不器用な戸惑いが、先ほどまで感じていた強烈なアルファの威圧感を少しだけ和らげる。
「暖炉のそばへ。冷え切ってしまっていますから」
リオンの促す声に、男は無言で頷き、火の気の近い長椅子の方へとゆっくり歩みを進めた。
嵐の夜が運んできた不意の来訪者たちによって、静まり返っていた食堂の空気が少しずつ動き始めていた。




