30.奪わせない者
それは、昼だった。
何の前触れもなく。
◆
厨房の窓の外。
空間が、歪む。
音もなく、裂けるように。
「――来た!」
リーヴェが、即座に剣に手をかける。
◆
黒衣の男たち。
数は少ない。
だが、異様に静かだった。
「対象確認」
「料理人ミナ」
◆
「帰れ」
魔王の声が、低く響く。
空気が重くなる。
だが、黒衣の一人が首を振る。
「拒否」
「我らは、均衡を回収する」
◆
次の瞬間。
床に黒い紋様が走る。
あの、反転術式。
◆
「……っ!」
身体が、重くなる。
神器が、震える。
◆
「ミナ!」
リーヴェが前に出る。
だが。
黒衣の術者が、静かに手を振る。
空間が歪み――
私は、一瞬、視界を失った。
◆
――静寂。
見知らぬ場所。
石の床。
黒衣の一団に囲まれている。
「成功だ」
誰かが言う。
「神器の中心を確保した」
◆
怖い、はずなのに。
なぜか、思った。
(……お腹すいたな)
◆
「抵抗は?」
「しないよ」
私は、正直に答える。
「でも」
小さく息を吸う。
「帰るけどね」
◆
その瞬間。
空気が、裂けた。
◆
音が、遅れて届く。
轟音。
黒衣の一人が、吹き飛ぶ。
◆
「――そこまでだ」
低い声。
だけど、どこか静かで。
圧倒的だった。
◆
そこに立っていたのは、
ひとりの男。
黒髪。
鋭い目。
魔族特有の角は、小さい。
だが――
魔力が、桁違いだった。
◆
「……誰だ」
黒衣の長が問う。
男は、答える。
「この城の、後継だ」
◆
その言葉と同時に。
黒衣の術式が、すべて砕けた。
◆
「先祖返りか……!」
長の声が、わずかに揺れる。
◆
男は、こちらを見た。
まっすぐに。
「怪我は」
「ないよ」
私は答える。
◆
ほんの一瞬。
その視線が、柔らぐ。
◆
「なら、いい」
◆
戦いは、一瞬だった。
いや――
戦いにすら、ならなかった。
◆
黒衣の一団は、撤退した。
逃げた、というより。
「引いた」。
◆
城に戻る。
空気が、張り詰めている。
魔王が、ゆっくりと口を開く。
「……来たか」
◆
男は、軽く頭を下げる。
「遅れた」
◆
「紹介しよう」
魔王が言う。
「我が息子だ」
◆
場が、静まる。
リーヴェが、目を細める。
「……噂以上だな」
◆
私は、じっと見る。
なんというか。
強い。
でも、それ以上に。
(……真面目そう)
◆
彼は、少し迷ってから言った。
「……礼を言う」
「え?」
「城を、守ってくれている」
◆
私は、笑う。
「ごはん作ってるだけだよ」
◆
彼は、少し考えて。
「それが、一番難しい」
と、言った。
◆
その言葉に。
なぜか、胸が少しだけ温かくなる。
◆
名前を聞こうとしたとき。
「……あとでいい」
彼は、視線を逸らした。
◆
去っていく背中。
強くて。
でも、少しだけ不器用で。
◆
「……どう思う」
魔王が、ぼそりと聞く。
「うん」
私は、少しだけ考えて。
「いい人そう」
◆
魔王が、小さく笑った。
「そうか」
◆
その夜。
神器は、静かだった。
だが。
確かに、何かが変わった。
◆
奪われかけた日。
守られた日。
そして。
まだ名前も知らない誰かが、
少しだけ、気になった日。




