12.その名前で呼ばれる朝
魔王城の中庭が、ふっと歪んだ。
淡い光の円が広がり、
次の瞬間、見慣れた人物が姿を現す。
「おはようございます」
外套を軽く整えながら、王妃が微笑んだ。
「今日も来てくださったんですね」
「ええ。朝食が楽しみで」
転送ゲートは、もう珍しくもない。
王妃が“お忍び”で魔王城に泊まったり、
日帰りで顔を出したりするのも、すっかり日常だ。
◆
厨房では、子どもたちが手伝い……という名の見学をしている。
「今日はなに?」
「雪の日だから、軽めですよ」
そのやり取りを聞いていた新顔の子が、首を傾げた。
「ねえ」
小さな声。
「この人、先生だけど……名前は?」
一瞬、空気が止まる。
私自身が、いちばん驚いた。
「あ……」
そういえば、ここではずっと
“先生”“料理の人”“あの人”だった。
◆
困ったように視線が集まる。
ガルディスは腕を組み、
「……名前、知らなかったな」
リュシアスは記録板を見て、
「書類にはある。
だが、呼称として使われていなかった」
王妃が、少しだけ考えてから言った。
「……ミナ、ですよね?」
思わず、目を見開く。
「どうして?」
「転送許可の名簿に。
でも……勝手に呼ぶのは失礼かと思って」
◆
そのとき。
さっきの子どもが、恐る恐る口を開いた。
「……ミナ、せんせい?」
その呼び方が、妙にくすぐったくて。
私は、思わず笑ってしまった。
「うん。ミナだよ」
一拍。
「ミナせんせい!」
「ミナー!」
まるで合図だったみたいに、声が広がる。
音として、
名前が城に落ちる。
◆
「……呼びやすいな」
ガルディスが、あっさり言った。
「ミナ。
今日の鍋、期待していいか」
「もちろんです」
リュシアスも、淡々と。
「記録も統一する。
“料理指導者・ミナ”でいいな」
「肩書、増えてません?」
魔王は、少し離れたところで聞いていた。
「ミナ」
短く呼ばれて、心臓が跳ねる。
「ここでは、それでいい」
それ以上、何も言わなかった。
◆
朝食の準備が進む。
王妃は、袖をまくって自然に手伝う。
「……ミナ」
その呼び方が、もう当たり前みたいで。
「はい」
返事も、考える前に出た。
転送ゲートが再び光る。
「今日は戻らないといけませんが……」
王妃は、少し名残惜しそうに言う。
「また、来ますね」
「いつでも」
ゲートが閉じ、
静けさが戻る。
◆
鍋が煮える。
子どもたちが笑う。
「ミナせんせー、味噌入れすぎ!」
「それは、あとで味見」
誰かが呼ぶ。
名前で。
「ミナ!」
「はーい」
自然な声。
その瞬間、ふと思う。
――あ。
ここではもう、
説明しなくていいんだ。
私は、
ミナなんだ。
帰る夢を見た夜から、まだ日も経っていない。
それでも。
名前で呼ばれる朝は、
少しだけ世界を近くした。
魔王城の厨房で、
今日も私は、火を入れる。
ミナとして。




