11.帰る夢、残る匂い
を見た。
白いキッチン。
見慣れたコンロ。
少し欠けたお気に入りのマグカップ。
包丁を持つ手は迷わず、
棚には、当たり前のように調味料が並んでいる。
カメラが回っていて、
画面の向こうには、無数のコメント。
「今日も美味しそう」
「それ作ってみます!」
「おかえり!」
――おかえり。
その言葉に、胸の奥が、少しだけ軋んだ。
◆
目が覚める。
天井は、魔王城の客室。
重い石の梁。
外は、しんとした雪景色。
「……夢、か」
しばらく、起き上がれなかった。
帰れる。
帰ろうと思えば、きっと。
でも――。
廊下の奥から、かすかに匂いが流れてくる。
昨日の鍋を温め直した、
味噌の匂い。
◆
厨房に行くと、
リュシアスが無言で鍋を見ていた。
「おはようございます」
「……早いな」
ガルディスは、椅子に座り、湯気を眺めている。
「雪の日は、目が覚める」
火を入れ、味噌を溶く。
塩を、ほんのひとつまみ。
同じ手順。
何度も繰り返した動作。
「……夢でも見たか」
ガルディスが、ぽつりと聞いた。
「……帰る夢を」
二人は、すぐに何も言わなかった。
それが、ありがたい。
◆
少しして、足音。
柔らかく、控えめな音。
「おはようございます」
入ってきたのは、王妃だった。
外套を羽織り、
いつもの王妃としての装いではない。
「……また、お忍びですか」
「ええ」
彼女は、少し照れたように微笑む。
「こちらの食事と空気が、好きで」
魔王城に泊まるのも、もう何度目か分からない。
王妃は、自然に椀を手に取った。
「この匂いを嗅ぐと、落ち着くんです」
「それは、良かったです」
「……本当に」
◆
子どもたちも、起きてくる。
「先生、おはよう!」
「雪、まだ降ってる!」
「今日もごはんある?」
「ありますよ」
その声に、胸がきゅっとなる。
ここには、
私が起きているのを、当たり前に待っている人たちがいる。
◆
食事が始まる。
鍋は静かに煮え、
椀が並ぶ。
《精神安定》
《迷い:一時的》
そんな言葉が、頭をよぎる。
王妃が、ふとこちらを見る。
「……迷っていらっしゃる?」
少しだけ、驚く。
「顔に出てました?」
「少しだけ」
彼女は、椀を両手で包みながら言った。
「ここに来てから、私は随分、元気になりました」
そして、静かに続ける。
「ですから……
もし、いなくなる日が来ても、
ちゃんと、感謝は残っています」
責める響きは、どこにもない。
それが、余計に胸に沁みる。
◆
食後、私は中庭に出る。
雪は、まだ降っている。
冷たい。
でも、澄んでいる。
背後から、足音。
魔王だった。
「……揺れているな」
「はい」
「答えは、急がなくていい」
彼は、城の窓を見上げる。
「ここに泊まる者が増えた。
それだけ、居心地が悪くないということだ」
◆
私は、城を見渡す。
灯り。
湯気。
人の気配。
王妃が笑い、
子どもが走り、
鍋が温まっている。
「……もう少し」
小さく、呟く。
「もう少し、ここにいます」
帰る夢を見た夜。
それでも私は、
今日もこの城で、火を入れる。
この場所はもう、
“通り過ぎる場所”じゃない。
そう思ってしまった自分に、
少しだけ、微笑んだ。




